無題

 


最近、毎日1つの作品を集中的に編集中。

 

あの時、書いた言葉の文字は

そのときにしか分からない情景であって

時が経てば変化や、あの時浮かばかなかった情景等が 

次々と浮かんでくる。それはそれで面白い。

 

この世には完全なんてものはない。

不完全だからこそ、面白いのだと思う。

そして、個々のイマジネーションによって

『If』の物語りが幾つも生れては織りなし、

無限の可能性を秘めているのだろう。

 


自分にしか書けない物語りは、例え他者が真似ても

それはオリジナルを超える事は出来ない。

その人の物語りに込められた作品への情熱や愛は、

それに勝るからだ。

 


とある作者が死んだあと、別の者が変わりに

物語りの続きを書く。

それは、その人の本当の意思なのだろうか?

死人に口無しだとしたら、それを都合よくエゴに利用し

良い口実を並べ立てた上で続きを書くとすれば

書いたその人は、それで納得するのだろうか?

 

書いた作者が死んだあと、その物語りは未完で終わる。

それならそれでいいのではないのか?

例え作者が死んだあと、作品は永遠に残り

その物語りを愛してくれた者達の胸に残る。

出来れば未完で終わった作品はそのまま、

安らかに寝かせておくべきだろう。

だが、この世は矛盾で出来ているのも確かだ。

エゴと不条理な世界で生きているからこそ、

真実を見極める目は必要になる。

それがこの世界で生きていく為の術である――。

 

 

私は最近、思う。自分の命の期限はいつなのかを。

それが今日じゃなくて、明日か、明後日か、明明後日か、

何ヶ月後なのか、あるいは突然、死ぬ日も来る。

それは神様にしか分からない事である。

病気になると、今まで『健康』や『命』に真面目に

向き合わなかっただけ、後で後悔しか残らない。

誰もが自分がいつ、病気になるなんて

予測出来ないからだ。

 

今なった所でそれはもう仕方ないとして

それまで出来る限り、自身の作品と多く向き合いたい。

そして、自分にしか書けない最高に良い物を

残す為に書き続けようと思う。

 

突然死んだ姉は何も残せずに逝ったけど

自分はそうならない為にも何か残したいと考える

今日此の頃だったりする。

 

この先何十年も行きたいとは思わないけど

今は出来る限り自身の作品に残りの時間と、

命の電池を使おうと思う。