大人の男であること。親であること。
正直、最終話を読むまでは、すれ違いの話なのかな、と思っていて、最後は幸せになって「良かったね~」と思えるんじゃないかと、なんとなく予測してた部分もあり、わりと気楽に読んでいた。それが見事に裏切られた。 そこで慌てて最初から読み返すと、キャラの言動にいちいち納得できて、深いテーマを感じ取れた気がした。 菅山は仕事が出来て外見も良く、経済力も備え社会的にも認められている押し出しの強い大人の男で、渋カッコいい。いわゆる「ちょい悪オヤジ」。 反して高光は、外見も含めて子供のように奔放。幼さすら感じさせる言動は庇護欲を刺激する。 しかし実のところ、ちょい悪オヤジの中には、独りよがりで我が儘な少年の心が未だ残っており、高光の中には誰の言葉も跳ね返す強さで「父親の意識」が存在している。 菅山は自由な独り者であり、高光を縛る「父親の意識」を理解できない。頭では分かっても感覚を掴めない。 けれど今後それを埋めて行く作業をしていかなければ、共に生きていくことは出来ない。 そういう結論なのでは、と思った。 「ロックの日に」での菅山は、仕事は出来るけどちょっと情けないおっさんである。でもそんな人だからこそ、菅山の周りには人が集まる。 反して高光は強かった。強いからこそ一人で立ち続けた。 今回の事件や出会いは、高光にとって得がたい機会だったのだろう。父親であることだけが存在意義であった高光にとって、父親ではない自分にも価値があると思えることが、いかに嬉しいか。 「あなたから貰ったものはここにある」 それがこのセリフに集約されているように思う。 けれど、この年まで知らなかった孤独を味わう菅山は哀れにも思える。 人の幸福は、定量なのだと聞いたことがある。 大きな幸福は重い絶望を呼び、穏やかな幸福感はしんしんとした孤独を呼ぶのかも知れない。