1 / 10

第1話

 滑らかな砂のような声だった。  乾いた低温の粉のような。静かな砂の丘のような。とにかくさらさらとしていて肌触りが良い音だ。一定のリズムで落ちてくる雨だれのような音は、歌のようだが旋律がない。  次第に覚醒していく意識の中で、それが異国の言葉であるということに気が付く。アジアの言葉ほどきっちりとしていない。欧州の言葉に近い柔らかさはあれど、溶けるようなフランス語でも、打ちつけるようなドイツ語でもない。一体どこの言葉なのだろう。  耳に心地よい音の羅列を聴きながら、姫野清永は危うくもう一度微睡に身を任せてしまうところだった。  心地よい誘惑に勝ち理性を引き戻すことができたのは、胸元から這い上がる悪心のせいだ。吐き気がする。その上頭が揺さぶられるようにずきずきと痛い。一度自覚するとそれは確実に実体を持ったように、清永の意識を微睡と心地の良い声から引き離した。 「…………っ、……」  とりあえず息をしようと思って吸い込んだ空気が、うまく肺に入ってくれない。つっかえるように噎せた後、涙で滲んだ視界に映る光景に、今度こそ覚醒した。  そこは見覚えのない部屋だった。ブラウンのラインが入ったカーテンも、木目のはっきりした本棚も、清永が頭を乗せているベージュの枕も、何もかもがさっぱり記憶にない。更に言えば清永は、自分がなぜ知らない部屋で異国の言葉を聴きながら寝ていたのか、その理由に全く心当たりがなかった。  落ち着こう、と思うことはできるが実行に移せない。深呼吸をしたいのに口を開けば胃の中の物を吐きそうだ。頭どころか全身もずきずきと痛む。  関節が痛い。特に腕がひどく痛む。どこかに打ち付けたのか、尻のあたりにも鈍痛がある。それでも身体を起こそうとした清永は、一度身体を浮かしかけ、吐き気に耐えられずにベッドに再度沈んだ。  どうにか大きく息を吸い、吐き、仕方なく天井を見上げた。再度見まわした部屋はやはり自室ではない。じっくりと見回す程の広さではない。ベッドとサイドテーブル代わりの椅子と、本棚がある。アパートだとしてもやけに狭いな、と思ったが、その理由が部屋を区切るパーテーションのせいだと気が付いた。先ほどから聞こえているなだらかな声は、どうやらあの無機質な板の向こうから聞こえるらしい。  きちんと意思を持って耳を澄ませば、それが抑揚のない英語であるとわかる。渋みのないさっぱりとした、若い男の声だ。 「うん。いや、それはまた後で連絡するけど……あー、うーん、『ゼンショシマス』。ねえ、これ、すごく便利な言葉だから、サイモンも覚えた方が絶対にいいよ。この国は、本当に便利で素晴らしい言葉が、たくさん……わかったってば、電話には出るよ、出る。たぶん。僕が林檎に夢中になっていなければね」  じゃあまた明日、と適当な返事をしたなだらかな声の主は、どうやら誰かと電話をしていたようだ。声はひどく落ち着いていて、話し方も柔らかい。勿論声が美しいからといって、その人物が危険で乱暴ではない、という根拠にはならない。  せめて日本人であってほしい、という清永のささやかな祈りは、彼がこちらに顔をのぞかせたことで見事打ち砕かれた。 「……あー、ごめん。起こしたかな。えーと……ひどい、顔色だね」  吐きそう? と問いかける言葉はやはり、耳に心地よいなだらかな英語だ。  英語ができて良かったと思ったのは久しぶりだ。それが英語だ、ということがわかっても、内容が理解できなければきっとパニックになっていたに違いない。  生まれてこの方海外など行ったこともない清永だが、英語だけはそれなりに習得している。それは三年に一度程しか帰国しない姉のせいだ。  破天荒でアクティブな姉はアメリカに恋をしていた。とにかくアメリカ中をしらみつぶしに飛び回り、その度にPCを通じて現地語のレッスンを行うものだから、無駄に英語を覚えてしまった。  この元気すぎる姉の英会話レッスンで得をしたのは、海外ゲームの日本語版発売を待つ必要がないことだけだと思っていた。持つべきものは多趣味な親族なのかもしれない。  清永が姉に感謝をしている間に、男はベッドの近くまで歩を進めていた。首を傾げる男はどう見ても金髪の白人男性だった。  くすんだ青が混じるようなブロンドと、薄い色の瞳は染色とコンタクトでどうにかできるとしても、生まれ持った骨格は誤魔化せない。特に金髪の彼は日本人とは言い難い程の高身長で、腕も足もうらやましい程に長い。白くてうらやましいね、と時折女性に嫉妬される清永であっても、やはり彼の肌の独特の白さとは比べ物にならない。  ゲームに出てくるゾンビみたいだ、と思う。彼がラフなティーシャツにジーンズを穿いていたせいかもしれない。  すごくショッピングモールを襲いそう、などと考えていた清永はまだ頭がうまく働いていないことを自覚し、顔には出さずに苦笑した。なるほどこれがゲーム脳かと自分でも呆れる。今はショッピングモールに押し寄せるゾンビの妄想をして笑っている場合ではない。  働かない頭と動けない体で散々金髪男を観察した清永は、まずは走って逃げる事を諦めた。  相手がでかい、という理由もあるが、そもそも清永自身インドア生活が祟り体力なんてものは無きに等しい。うっすら腹筋が浮き上がっているのは単に贅肉がなく痩せすぎているだけだ。百歩譲って相手に隙があったとしても、頭を持ち上げるだけで吐き気が襲うような状態ではどうしようもない。  よくよく考えれば拘束されているわけでもないし、床に転がされているわけでもない。金髪男性はアメリカ人らしからぬ表情の乏しさで、何を考えているのかいまいち掴みにくいがしかし、彼の口から出たのは清永を案ずるような言葉ばかりだ。  何度か深呼吸を繰り返した清永の頭に、やっと酸素が回ってきたらしい。  白い天井と伺うように覗き込む金髪男を見上げつつ、清永は思い出せるところまで記憶を遡った。 「…………早退したんだ」  思い出した。この吐き気は、何も今始まったことではなかった。そういえば朝から胸やけが酷く、通勤中の電車で一度降りた程だった。ぎりぎり遅刻せずに会社についたものの、一本目のミーティングの後に最高に会いたくない相手に捕まった。それが原因だと責任転嫁するつもりはないが、気を使ったのは確かだろう。昼辺りから立っていることも座っていることもできない程頭痛が酷くなり、ついには苛立った雰囲気のチーフに『帰れ』と言われてしまった。  普段から決して柔らかくないチーフの言葉の棘が、がつがつと無防備な清永に突き刺さった。体調不良で迷惑かけるな、無理だと思った時に相談できないなら出てくるな、何もできないのに席に座っているだけで金が発生するわけがないだろう、それでも二十歳過ぎた社会人か。  まったくもってその通りすぎた。反論しようと開いた口からは胃液が出そうで、結局逃げるように会社を出てきた。  正論だが、身体も心も弱っている時に言葉で殴られるのは流石に辛い。電車に揺られる勇気もなく、薄給で薄い財布を摩りながらもタクシーに乗ったことまでは覚えている。いや、金を払ってアパート前で降りた記憶はある。五千円札を出した清永は、細かい金はないのかと酷く嫌な顔をされた事を思い出した。 「………………俺、階段で、倒れた?」  拙い英語を選びながら眉を寄せる清永に対し、若干ほっとしたような顔を見せた男は、ベッド横の椅子を引き寄せ腰を下ろした。 「いや、キミが倒れていたのは二階の廊下だよ。奥から二番目の部屋の前。倒れていた、というか蹲っていたんだけど」 「奥から二番目の部屋……」  アパートの階段を上がって奥から二番目は、清永の部屋だ。どうやら自室前まで自力でたどり着いたらしい。そしてこの男の話しぶりでは、彼は同じアパートの住人のようだ。  そこまで考えて、流石に彼の正体に思い至った。  清永の部屋の隣室である、一番奥の部屋に、一か月前越して来たのは確か背の高い外国人だった筈だ。 「もしかしなくても、お隣さん……」 「正解。隣人のよしみでベッドを貸しているだけだから、気にせず横になっていたらいい。水飲む?」  いらない、と返事をしつつ、額に手を乗せる。より一層ひどくなった頭痛に加え眩暈のようなものを感じた。  にこりともせずに親切を提供してくるこの外国人男性の事を、驚く程覚えていない。  引っ越しの際に挨拶をした筈だ。珍しい隣人に当たったなとは思ったが、この隣人は清永が思っていた以上に静かで、時折そこに人が住んでいる事を忘れる程に存在感がなかった。  この部屋が遠く離れた異国でもなんでもなく、清永の部屋の隣室であるとわかったことはありがたかった。言われてみれば天井のライトが一緒だ。個性なんてものは総無視で乱立するアパートの照明や壁紙など、大概はどれも似たようなものなのだから、気が付けるわけもない。  やってしまった。こんなことなら、調子が悪いと判断した時に無理をして出勤せず、さっさと休みの連絡を入れていたら良かった。それができていれば上司に言葉で殴られることもなく、タクシーの運転手に舌打ちされることもなく、そして部屋の前で倒れて隣人の外国人の部屋で目を覚ますこともなかった筈だ。  仮定の話をして悔やんだところで時間は戻らないし、結果も変わらない。それはわかっていても、晴れない悔しさや胃の痛みを解消する手立てが思い浮かばない。  身体が弱っていると、心も脆弱になる。普段は決して後ろ向きではない思考が、どんどんと後退するように沈んでいき涙が出そうだった。 「……すいません」  蚊の鳴くような声だったと思う。これ以上声を大きくしたら、涙ぐんでいるのがバレそうで怖かった。ささやかすぎる清永の声の後に続いたのは、やはり静かでなだらかな英語だ。 「日本人は、何かと謝ると聞いたけど、本当だね」  彼の英語は抑揚が少なく、彼の表情はほとんど動かない。慣れない異国の言葉のせいで、それが嫌味なのか苦言なのかただの感想なのか、どういう意図をもった言葉であるのか判断できず、清永は言葉に迷った。  その沈黙に気が付いたらしい白人男性は、二三度まばたきをしたあとに先ほどの清永とおなじように『sorry』と口にする。 「ああ、別に嫌だとか困るとかじゃなくて……そう思う人もいるらしいけど、僕は悪い気はしないよ。声の大きい人はちょっと苦手なんだ。ごめんねって、さらりと一言付け加えることができる日本の人は、僕は個人的には好きだよ。確かに、欧米風じゃないけどね。何か食べれるならスープくらいなら作れるけど、食べる?」  比較的ゆっくり喋ってくれる人だが、一気に言葉を羅列されると頭の中が混乱する。不思議な感覚で言葉を選ぶ人なのかもしれない、と妙な感動を覚えかけたところで急に食事の話を振られ、咄嗟に謙遜する事を忘れた。  食べる、と答えた清永に対し、やはり表情一つ変えない男はスッと席を立つ。ゾンビというより幽霊かもしれない。彼は本当に動く時に音を立てない。これでは隣人としての存在感も薄くなるわけだ。  横になっていたせいか少しだけ吐き気が収まって来た。ぐるぐるとよくない事を考えていても、気分が落ち込むだけだ。とりあえず彼の親切に甘え、そして歩けるようになったら自室に帰って寝よう。明日は休ませてもらって病院に行こう。  必死に気持ちを切り替える清永の耳に、ずずず、と何かを擦るような音が届いた。顔を横に倒すと、パーテーションをずらして仕舞う彼の姿が目に入る。  その向こうから出てきたものを目にした清永は、どう反応していいのかわからず結局眉を寄せてしまった。書斎スペースなのか、作業スペースなのか、机とパソコン類は特別気になるものではない。問題は、みっしりと壁を埋めるように貼り付けられた、絵だ。  すべて林檎だ。大小様々で、木に生っていたり籠に入っていたり、油絵だったりパステルだったり、写真と見まがうものだったりデフォルメされていたり、多種多様であるがその絵はすべてとにかくひとつ残らず林檎だった。  フォリア、という単語が頭に浮かぶ。狂気だとか偏執的だとか、そんな意味だった気がする。アップルフォリアという概念があるのかなんて知らないが、とにかくパーテーション向こうの空間はフォローができない程度には異常だった。 「日本人って、具合が悪い時はライスを水で煮るんだっけ。僕はお米、残念ながら常備してないんだよな。野菜も肉もまあ、大して置いてないんだけど。あ、でもコンビニエンスストアにあるのかな。あれって便利だよね、日本のそういう便利すぎるところ大好きだよ。……水で煮た米がいい? 適当なスープでいい?」  問いかけてくるなだらかな声は心地よく、それがどうにも恐ろしく感じてしまうのは仕方がない。振り向く彼の後ろには、一面林檎だらけの壁がある。スープで、と声を出した自分を褒めてほしいくらいだった。  いい人なのかもしれないが、ちょっと清永には理解できない人種のようだ。親切はありがたいし、助けてもらった恩は返したいと思うがしかし、できるだけこの人とは関わらずに生きていくべきだと強く思った。  隣室の外国人は親切ではあるが少々無愛想で、なだらかな声で滔々と英語を並べ立てる。そして彼はゾンビでも幽霊でもなく、ただの変人だった。  これが、姫野清永が林檎狂と言っても過言ではない程林檎が好きなアメリカ人、アップル・アボットを隣人として認識した日だった。

ともだちにシェアしよう!