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第2話
彼はとても甘い匂いがした。
『何回同じ事言わせるんだよ一回で理解してくれよそして改善してくれアボット。頼む。お願いだ。電話に、出てくれって、明日は俺に言わせないでくれないか』
あれは香水なのだろうか。アップルフレーバーのフレグランスは時折チェックしているが、日本オリジナルのブランドがあるのかもしれない。甘いような渋いような、けれども鼻の奥に抜けるようなほのかな林檎の香りだった。
肌から香るものは香水以外にもある。女性ならば化粧品かもしれない。美人ではあったし、実は入居した日からずっと隣人は女性だと勘違いしていたが、抱え上げた時にさすがに男だということに気が付いた。
思い返してみれば身長もそれなりにあったし、可愛いというよりはハンサムな容姿だった。汗でべったりと濡れた肌は不健康そうで、ファンデーションも口紅も塗られていなかった筈だ。
香水か、整髪料か。飴やタブレットの可能性もある。暑く乾燥している国々では香を炊く文化もあった。アロマや洗剤の香りが染みついているのかもしれない。
『聞いてるのかよアボット。こっちは家族サービスを削ってまで時間外労働してんだぞ。ほんと頼むよマジで、おまえがどこにいようが連絡さえついて仕事さえしてくれれば何でもいいってのは紛う事無き俺の本心なんだから、この二つの条件はクリアしてくれよ、おいちょっと聞いてんのか。また林檎の事考えてたのか? また俺の話をきれいに無視して林檎の事考えてたのかこの林檎野郎』
「え。あー。うん、林檎の事といえば林檎の事だけど。あー……カリフォルニアは、今、夜の八時、だっけ? モニカと楽しくディナーしててもいいんだよ僕の仕事は昨日話した通り順調だし、電話で毎回話すことなんて、天候と夕飯のメニューの報告くらいしかないんだからさ」
鼻に残る甘い匂いを思い出すことをいったん諦めたアボットは、いつものように電話のスピーカーを耳から三センチ程離しながら、ごく軽いため息を吐いた。毎日電話する必要なんてない旨は、それこそサイモンが『電話に出ろ』と言う頻度と同じくらいには伝えているが、その度に口のわりに真面目なサイモンは同じセリフを繰り返す。
『お前の夕飯のメニューの記録も残念ながら仕事のうちなんだ。これを口頭で確認するのも俺の仕事だって何度も言わせるなマジで。そもそもお前がなアボット、北の国の端っこで、凍死し損ねたのが原因だろうが……!』
「その件については本当に悪かったし反省しているよ。まさか、あんなに簡単に人間は死にそうになるなんて思ってなかったんだ。ノルウェーの冬を舐めていたよ。別に自発的に死のうと思って納屋に閉じこもったわけじゃないし、鍵が外れたのは事故のようなものであって」
『でも、死んだら死んだで別にそれは構わないな、とか思ってたんだろ』
「まあそれは。うん。否めないけど」
『お前のそういうところだよ……そういうところが俺の会社に信用されていないところだよ……』
頼むよほんと、とうんざりする程繰り返された台詞をいつものように聞き流すアボットは、決してサイモンを嫌っているわけでも、約束を破って困らせようと思っているわけでもない。
仕事はきちんとするべきだと思うし、サイモンとの連絡は仕事のうちだとわかっている。しかしつい、電話を無視してしまう。アボットは集中すると全く周りが見えなくなる悪い癖があった。
作業を始めると途端に周りのことがどうでもよくなる。音は聞こえていても、それをどうにかしようと思うよりも自分の手を動かす事を優先してしまう。仕事も趣味も『絵を描く事』であるアボットにとって、一日の大半が世界から切り離されたような状態だ。
時には食事を忘れ、栄養失調で倒れた事も二度三度では済まされない。誰かと一緒に生活するべきだと、契約を結んでいるマネージメント会社に事あるごとに言われてはいるが、諸国を転々とする生活をしているアボットは自分の生活を安定させるだけで手一杯で、家政婦を雇う余裕も、本国からマネージャーを呼び寄せる余裕もない。
生まれ育ったアメリカが嫌いなわけではない。それでも故郷のカリフォルニアには帰れない理由がある。この件に関しては会社もサイモンも納得しているので、とにかくどこにいても連絡がつく状態でいるようにと、再三それだけを繰り返されてきた。
三年前の冬にノルウェーで、借りていた納屋に閉じ込められて凍死しそうになった日から、『どこで生活しようが干渉しないが連絡がつく環境であること』『いつやろうが構わないが仕事はこなすこと』に加え、『何をしようが口出しはしないが一日二食は食べて決して死なないこと』が雇用条件として追加されてしまった。
まるで信用されていない。三十歳も間近だというのに人としてどうなのかという話だ。しかし信用されないのも当たり前だと自分でも思うので、アボットは現状が酷く悪い状態だとは微塵も感じていなかった。
仕事は苦ではない。趣味も問題なく続けている。特別胸躍るような日々ではなくとも、毎日何もない事はそれだけで僥倖だと思える。
半年前に居を移した日本のことも、アボットは割合気に入っていた。とにかく便利で、部屋にいても必要なものは大概揃うし、何よりすべてのものが正確で速い。去年まではドイツに居たが、あの国の真面目さと日本人の真面目さは少し毛色が違って面白い。日本人は頑固なのではなく、他人に迷惑をかけることを非常に嫌う。言葉を非常に重んじていて、特に礼を好んで口に出す。日中ほとんど外出しないアボットの見解であったから的確かどうかはさておき、今のところのイメージはそんなところだ。
個人的には過ごしやすいと感じる。あまり他人に干渉しないのは、興味がないというよりも個人を尊重しているからなのだと理解している。
ふとアボットはまた、あの甘い香りを思い出した。
昨日の昼間、画材屋に出かけた帰りに、部屋の前で青年を拾った。ひどく辛そうな顔で蹲っている男が隣人だと気が付いていたわけではない。状況からして隣人だろう、とは思っていたが、祖国の人間の顔さえ覚えようとしないアボットが日本人の顔を覚えるわけがない。別に隣人であってもなくても、具合が悪く動けなくなっていることに変わりはないのだし、どうでもいいだろうと思っただけだ。
さてこの国の救急車両への通報は、何番を押せばよかっただろうか。そう考えながら大丈夫かと声をかけたが、蹲った人物は『ハキソウ』と死にそうなくらい震えた日本語で答えた。
アボットは、日本語を喋ることはできないが、若干聞き取ることはできる。恐らく作業中に延々と流している映画やラジオのせいだろう。内容をきちんと理解しなくても画面を大して見ていなくても、繰り返し聞いていると不思議と覚えてくるものだ。
気持ちが悪いという意思表示はできている、と判断したアボットは、ゆっくりと彼を立ち上がらせると、ほとんど引きずるように自室のベッドの上まで移動させた。そのまま意識が戻ればいいし、容体が不味そうなら救急車両を自宅に呼べばいいと思ったのだが、彼を抱きかかえ引きずっているときに鼻をくすぐる甘い匂いに気が付いてしまった。
ふわりと甘くさっぱりとした匂い。それはアボットが人生の中でとにかく偏執的に愛している『林檎』の匂いに間違いない。
隣人は、目を覚ました後もひどく具合が悪いようで、アボットがチキンスープを作っている間も言葉少なに天井を眺めていた。英語が通じたのは幸いだったし、彼が英語を話せたのもありがたいことだった。
アボットがどれだけ正確に日本語を聞き取ったとしても、相手にこちらの意思が伝わらなければ意味がない。とっさに危害を与えるつもりはない、と言い訳する前に害獣のように退治されてしまっては困る。
甘い林檎の匂いのする彼は、驚くほどに綺麗な澄んだ声をしていた。その声は本当に男性かと疑う程で、外見の美しさと相まってまるで妖精か女神のようだった。他人の外見や性格にほとんど興味が無いアボットがこんな風に思うことは稀だ。自分でもどうしてかわからない。もしかしたら彼から林檎の匂いがしたという、それだけの理由かもしれない。
『アボット、ちょっと、また聞いてないだろう。いいか、明日の朝にも連絡を入れるからお願いだから電話の音に気が付いてくれ。ラフは確認でき次第データで直しを送るよ。……できれば次に住む国は、時差の少ない場所にしてくれると助かる』
「しばらくは日本にいると思うけどね。快適だし。まだ引っ越したばっかりだし。二年くらいを目途にしているから。そういえば、今回の仕事のクライアントは日本の会社じゃなかったっけ?」
『発注元がジャパンで制作者がジャパンに居てもな、一回カリフォルニアを経由すんだよ打ち合わせ一つにもそれだけ時間がかかるんだ、自分の立場わかってんのか覆面アーティスト野郎』
「僕が悪かったですごめんなさい電話はがんばって耳をすませる努力をするよ、本当。本当に。そろそろ僕がモニカに嫉妬されちゃうんじゃないの? 家族サービスの時間に戻りなよ」
『……一度電話を取れば本当にお前は良き隣人だよアボット。電話に出ない間は悪魔のように思えるけどな。おやすみ、明日のお前が今日の言葉を覚えている事を願うよじゃあな』
飯食えよ、と付け足して、サイモンはいつものようにきっちり十五分小言を吐いて通話を切った。
アボットの部屋に静寂が戻る。一時停止にしていたフランス映画を再生するかサンドイッチでも作るか、ぼんやりと思案しながら林檎の絵を眺めた。
アパートの白い壁には、びっしりとアボットの描いた絵が貼ってある。すべて、アボットが描いた林檎の絵だ。
何故そんなに林檎が好きなの? と一年に一回は訊かれる。これは一年に一度程度しかアボットが他人と親しくならない為であり、要するに親しくなった人々はほとんど全員が首を傾げながらこの質問をした。
これに対するアボットの答えはいつも『わからない』だ。首を傾げる相手に、同じように首を傾げ、こう口にするしかない。
きっかけのようなものはぼんやりと思い出せる。
長いサマーバケーションの間、アボットは義母の実家であるジュリアンに預けられた。そこは大きな林檎農家だった。林檎農園を手伝い、林檎を食べて、林檎に囲まれて育った。おそらくはそれがきっかけだが、今も林檎に固執している理由は正直よくわからない。
なんとなく好きな色があるように、アボットはなんとなく林檎が好きなんだろうと理解していた。家の小物の色を揃えるような感覚で、アボットは壁に林檎の絵を飾る。好きな人の似顔絵を描くような感覚で、アボットは林檎の絵を描く。アボットにとってそれは当たり前の行為であり、また唯一の趣味であり、生きていくうえで息をするように当然のことだった。
変人なのだろうなぁと思う。この奇特なライフワークは気が付いたら始まっていて、林檎の絵を描く事以外にほとんど興味を示さないアボットには、当たり前のように友人ができなかった。
結局地元のサンディエゴでつるんでいたのは、あまりにも喋りすぎて煩いという理由でつまはじきにされた少年と、家庭環境のせいで腫物扱いされている陰気な少年の二人だけだった。思い返せば、確かに全員変人だった。普通の感性の人間ならば、アボットには近づいてこないだろう。
大人になれば多少は落ち着くのではないかというささやかな期待もむなしく、変人は変人のままだ。ただ、多少林檎以外の絵を描くことを覚え、それを仕事にして一人で生きる術を覚えた。各国を転々としなければならない事情を抱えてはいるが、それでも一人で稼いで生きているのだから上々だろう。
つい、壁を見ながらぼんやりとしてしまったアボットを現実に引き戻したのは、扉の向こうの足音だった。ひどく億劫そうな音は、階段からこちらに近づき、アボットの部屋の前に来る事はなく止まった。
隣の部屋のドアの前にたどり着いたのだろう。
彼だ、と思った瞬間、特に何も考えずにアボットは玄関のドアを開けた。
「……やぁ、ヨナ。病院行ってきたの?」
声をかけられた日本人青年は、びくりと肩を揺らしてからぎこちなく固まってしまった。昨日の帰り際、丁寧にフルネームを名乗ってくれたが、彼の名前はアボットには発音しにくく、結局ニックネームで呼ぶことにした。
ヨナでいいよ、と少々投げやりに言った彼のこの名前を、アボットはひどく気に入った。アメリカ原産の甘酸っぱい林檎の名前に似ているからだ。
ヨナの顔色は、昨日に比べればマシではあったが、それでも若干血色が悪い。飴色のガラス玉のように美しいブラウンの瞳を左右にぎこちなく泳がせ、長い睫毛を伏せたヨナは形の良い唇を開く。
「あー……うん、そう。胃腸炎かもしれないけどちょっとよくわかんないからって、吐き気止めだけもらってきた……熱はないし鼻水も出ないから、風邪じゃなくて派手な体調不良じゃないかって」
「そう。大きな病気じゃなくて良かったね」
「……昨日はそのー、ありがとう。助かった」
自室の扉に手をかけたヨナは、ひどく言いにくそうに言葉を選んでいるようだ。申し分ない変人であるという自覚があるアボットは、彼が自分に対して若干怯えている事くらいは察している。できれば距離を取りたいと思っていることだろう。それでも礼を述べる彼は、なんと真面目なことだろう。
ヨナの放つ微妙な空気を汲むならば、アボットは『気にしないで』と返した後に、何事もなかったかのように扉を閉めるべきだ。普段ならばそうしていた。相手が自分に対して一歩引く気持ちと同じように、アボットもわざわざ一歩踏み出して他人に近づこうと思わなかったからだ。
しかしながらアボットは、林檎の匂いのするこの隣人のことがとても気になる。このまま扉を閉めてしまうのはもったいない。
他人に対してこんな風に興味を持つことは稀で、アボットのあってないようなコミュニケーション能力は役に立つわけもなく、結局気になっていた事を口にした。
「そういえば、キミが出かけてから何度か来客があったみたいだよ。チャイムを鳴らす音が定期的に聞こえた」
「…………え。まじで。何時くらい?」
「あー……何時だったかな。たぶん、十一時くらいに一回。その一時間後くらいに一回、かな? 普段はキミの部屋のチャイムが鳴ることってあんまりないから、ちょっと不思議に思って覚えていた」
荷物の受け取りか何かだろうか。ほとんど何の考えもなしに世間話程度の気持ちで口にしたアボットだったが、ヨナがただでさえ青いその顔を曇らせた気配を感じ、おや、と首を傾げる。
「もしかして、嫌な客?」
アボットの問いかけに、ヨナは曖昧に言葉を濁す。嘘を吐くことが下手なのか、それとも単に体調が悪いせいで表情が硬いだけなのか。アボットには判断はつかなかったがとにかく、ヨナが何かトラブルに巻き込まれている事は確かなようだ。
ふと思い立ったアボットは、手近なところに貼ってあった林檎の絵を一枚剥がすと、その裏にさらさらと十一桁の数字を書きつけた。人の顔を覚えるのは苦手だが、数字は割合すんなりと頭に入る。半年前に契約したプリペイド式携帯の番号を書き終えると、ヨナが部屋に入ってしまう前に彼の元に向かう。
「これ。僕の携帯の番号。ちゃんと日本で契約したものだから、通常の料金で繋がるよ。まあ、僕はあんまり外出が好きじゃないし、仕事も部屋の中でこなしちゃうから、大概はこの部屋に居るんだけど……もしなにか困った事があって、僕にできる事があれば、いつでもどうぞ。何もないのが、本当は一番だけど」
アボットとしては部屋の鍵を渡しても良かったが、流石に引かれるかもしれないと思った。現に連絡先を渡しただけでも、目の前の青年はかなり怪訝な顔をしている。無理もない。たとえここが開放的なアメリカ社会であろうとも、いきなり連絡先を押し付けるなんてナンパくらいのものだろう。
これ以上言葉を連ねて困らせるのもかわいそうだと判断して、アボットは早々に別れの言葉を残して部屋に戻った。
それじゃあね、と手を上げた時、ヨナは何か言いたそうに口を開いたような気がしないでもないが。まあ、何か言いたい事があれば子供ではないのだし、また会った機会にでも伝えてくれるだろう。
ポストカード大に空いた壁の隙間に、別の絵を貼る為にストックのファイルを探しながら、ふと、自分の失敗に気が付いた。
「しまった」
キミの甘い匂いの元は何? と訊き忘れた。あの不思議な林檎の香りの事が気になって、昨日からそればかり考えているのに。
白い壁にもたれたアボットは、今日もふわりと香った甘い林檎の匂いを思い出していた。
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