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第10話
何とも言い難い珍妙な顔をした愛しい人は、若干引きつった頬を隠すこともなくいつもより上ずった英語を放った。
「……聞いてない……!」
「あ、うん。言ってない、ごめん」
「ごめんじゃないっつの、馬鹿!」
ついにサイモン以外にも、自分の事を気軽に罵る人ができてしまった。それはアボットにとって迷惑でも残念でもなく、ただひたすらに嬉しい事だ。思わず緩みそうになる頬を引き締めているのだが、恐らくこの場にいる人間でアボットの些細な表情の変化に気が付いているのは、目の前で眉を寄せる美人だけだろう。
怒らせるつもりはなかった。けれど、あえて言わなかったのも事実だ。だってその方が面白そうだから、などと言えるようになったのだから、アボットの凪いだ砂漠のような感情は、少しは暖かさを思い出したのかもしれない。
呆れたように口を開けるヨナの横で、黒縁メガネの男性が意地の悪い顔で笑いを堪えるようにしていた。
ミスター・ヤギサワは聞いていた程意地悪ではなく、とてもユーモアに富んだ人物で、アボットはすぐに彼を好きになった。無理に笑おうとしないところがいい。そしてこちらに笑顔を求めてこないところにも好感が持てる。
真新しい事務所の片隅は、まだ荷ほどきが終わっていない段ボールが山積みにされている。急ごしらえの応接スペースにはお茶を出すスペースなどあるわけもなく、ヤギサワとヨナ以外は慌ただしくデスクの配置に追われていた。
フロア中から時折寄越される視線がくすぐったい。今まで居場所を隠しながら仕事をしていた為に、否応なしに覆面作家のような存在となっていた。依頼を受ける会社に赴くのも初めてで、名乗るのも初めてだ。そして案外自分の絵のファンはそこら中にいる、という事を知ったのも、今日が初めてだった。
「つーわけで、我々新規ゲーム制作会社MANZANAの記念すべき第一作目のアートワーク全般を割安で請け負ってくれたとんでもないナイスガイ、みんな大好きAA(ダブルエー)だ。ほら姫野、挨拶。挨拶しろちゃんと」
どう見ても面白がっているヤギサワに肘でつつかれたヨナは、恨めしそうな顔でアボットを見上げる。ほんのりと耳が赤いので恐らく、怒ってはいないとは思うが、もしかしたら後でもうちょっと怒られるのかもしれない。
「よろしく、お願……っあー嘘だろほんとなんでだよ……AAって、だって、あのAAでしょなんで気が付かなかったんだ俺……」
「まあ、僕の部屋には基本的に、僕の趣味の絵しかないからね。僕は絵を描くことは好きだし仕事も嫌いじゃないけど、特別ゲームが好きってわけでもなくて、単にタイミングが合って仕事をもらえて、たまたま他人の目に触れて評価されたのがゲームとかカードとか、ファンタジー系のイラストだっただけだから。そういうもの、僕の部屋にはないし。でもヨナの部屋のラックには、『エアーストーリーズⅡ』も『ウィザード・ウォーズ』も『ビギッグ』も全部揃ってるのに、アートワークスが僕だってなんでわかんなかったんだろうね?」
「もっと早く言って……帰ったらサインください……」
「書き慣れてない僕の名前でよければ、いくらでもどうぞ」
そういえば誰かにサインをしたこともほとんどない。ヨナの言葉に続き、事務所の端々から『自分も』と声が上がる。ちなみにアボットがこの事務所に足を運び最初にしたことは、ヤギサワの奥方宛にサインを書く事だった。彼の妻は漫画家をしていて、ひどいゲームオタクでAAのファンだという。
そうか、顔を出して仕事をするという事は、外の世界と付き合う事なのだなぁと改めて実感する。慣れない事も増えるのだろうなと思うが、今は目新しい事がすべて面白いと感じるので、とりあえず障害にぶつかって首を捻る時が来るまでは、このまま突き進んでみようと思っていた。
新しい事は少し怖い。けれど、少しどきどきする。
勝手に感動しているアボットの前で、未だに眉が寄ったままのヨナは、今度はその顔をヤギサワに向けた。
「つかチーフ、どこでアボット引っかけてきたんすか……コネがあったってのはガチだったんすか……?」
「チーフじゃなくてシャチョーだから。コネってなんだよコネがあんのはむしろお前だろ。こんな出来たてほやほやの会社っつーより事務所借りた集まりみたいな団体が、天下のAAに直談判なんかできるかよ」
「え。じゃあなんで……」
「理由なんざ知らないけどな、ある日突然カリフォルニアのコミック・マネージメント会社から電話があったんだよ。おたくのゲームにAA参加させてもらえません? ってよ」
「…………アボット……」
「え、何。駄目だった? 一応ちゃんと、僕の会社通したんだけど。ええと、まあ、結構我儘言ったけどきちんとした仕事だしヨナも許してくれるかなって思ったんだけどなぁ……」
「いや、そら、確かに、AAのイラストはものすごい嬉しいし、個人的にもファンだし、そんなすごいものを提供してもらえるなんて最高だけど」
「いいじゃないの姫野。持ってるコネは使ってナンボだろ」
大きな欠伸をしながら口を挟んだのはヤギサワだ。
「そりゃあ実力でAAレベルの世界的イラストレーターに依頼できんのが理想だけどさ、現実問題金がないしまだなんも始めてないから当たり前だが実績もゼロだ。使えるもんは使ってこうぜ。ただ、ありがたいなーわーい、なんておんぶにだっこじゃなくてAAの実績に泥塗らないもんつくりゃいいじゃん」
「チーフ……」
「シャチョーだっつってんだろ。まあ、納得できないならできるまで話し合ってもいいよ俺は彼を使わせてもらうけどなー。そんなわけで姫野、しばらく通常業務にプラスで通訳な」
「通……は!?」
「AAがそれなりに日本語理解できても、こっちが英語理解できなきゃ意味ないじゃん。それなりに聞き取りはできるけど仕事の話バシバシするレベルじゃねーんだよわりーな高卒で。つか英語レッスンする時間があるなら新しい企画考えるわって話よ。幸いお前は普段からバンバン意思の疎通してんだろ? 任せたぞ翻訳ルーキー。その分給料は弾むからそのつもりで稼げるだけ稼いどけ。もう昼だからどっか食ってきていいぞ。あ、午後からミーティングな」
ヨロシク、と声をかけたヤギサワの後頭部を暫く眺めていたヨナだったが、結局何も言わずにため息を飲み込んだようだった。
もしかして、ヨナの負担になっているのだろうか、と不安になり始めたアボットだったが、ランチに行こうとアボットの手を取る彼は怒っている様子も、疲れている様子もなかった。
小さな出来立てのゲーム会社の事務所は、決して便利とは言い難い場所にあるらしい。外に出ても民家ばかりで、食事処が近場にあるのかも疑わしいが、この便利な国ならばほんの少し歩くだけで、きっと小腹も満たせるのだろう。
「……ヨナ、怒ってる?」
たぶん、否という答えが返ってくるとは思っていても、問う声は少し小さくなる。アボットの手を引くヨナは振り返らずに、あの美しい歌うような声を放った。
「怒ってない。……たぶん、わくわくしてる」
「そう。なら僕と一緒だ」
「アボットも、わくわくしてんの?」
「しているよ。だって僕は、初めて自分のクライアントと自分の声で話をした。これから、初めてのミーティングだ。僕の仕事はキミたちが作ったゲームに絵を付けることだけど、でも、わくわくする」
林檎の絵を描く事とは比べることはできないが、アボットは林檎だけではなく、絵を描く事自体が好きなのだと実感した。
「あーもう、今日予定があるとかいうから例の叔母さん関係とか弁護士とかそれともまた帰国しちゃうのかとか色々考えてアーアーしてたのに……こんなの最高じゃん、っあーうそだろめっちゃわくわくする……!」
「ヨナ、ゲーム好きだもんね。アレ始めると、僕に全然かまってくれないもんね」
「アボットだって絵描き始めると俺が何しようが気にしなくなるじゃん」
「前はね、そうだったけど、最近は十分に一回くらいヨナを探しちゃうようになったんだよね。すぐそこに居てくれると安心してそのまま描き続け――」
「待って何それ知らない。あと道路の真ん中で口説くのやめて。痒い話は家に帰ってから……あ、職場でも禁止ね。なんかうっすら気付かれてるだろうけど、俺、八木沢さんの前では気ぃ抜いて仕事するわけにはいかないから」
「わかった。ヨナが困ることはしない。しないから、僕と一緒にお仕事してくれる?」
かくん、と首を傾げるアボットの方をちらりと振り返ったヨナは、いつものように目を細めた照れた顔で、頷いた。
ここがアメリカならば、他人の視線など気にせずに抱きしめてキスをしたいくらいに可愛い。しかし、生憎と二人が歩くのは、愛していると伝えるにも、何枚も薄い絹を被せるような表現をする国だ。
キスをして抱きしめる代わりに、アボットはヨナの手をぎゅっぎゅっと握りしめた。大股で歩くヨナの、赤い耳が可愛らしい。ヨナは本当に、何をしていてもアボットの全てを落とす。
恋に落ちたのは万有引力のせいではなくて、では結局理由は何なのか、アボットにはいまいちよくわからないままだ。それでも、落ちてしまったものは戻らないし、落ちてよかったと思う。
「あ、そうだ、言い忘れてた」
「何?」
ちらりとこちらを見上げるヨナに、アボットはずっと言おうと思いつつもタイミングを逃していた言葉をするりと吐いた。
「貴方に恋をしています」
忘れてはいなかったのだけれど。毎日恋をしているのだけれど。つい、言葉にしていなかった。かわいいとか好きだとか食べたいとか大切だとか、そういう言葉はかなりたくさん口にしていたので、本当に今さらだ。
今さらながらのアボットの言葉に、ヨナの足が止まる。
「僕の恋人になってくれる?」
ぶわり、と赤くなった可愛い人の泣きそうな顔が、答えだった。
こちらこそ。そう小さく呟き俯いてしまったヨナの額にほんの少しキスを落としたら、外だからと足を踏まれてしまったけれど。
「いたい……」
「日本人は外で愛を語らないんだよ」
「じゃあ家でもう一回やろうかな。僕もヨナに恋人になってって言われたい」
「なにそれ恥ずかしい死にそう。つかいい加減物件決めようよ……もう面倒だから一緒に住めばいいじゃん俺今アボットの家に居候してるみたいなもんじゃん……」
「ミスター・タブチがまだたまに来るから仕方ないよね。ヨナが引っ越すのは確定だけど、うーん、でも、お隣さんっていうの、ちょっと好きなんだよなー」
「同居人より隣人の方がいいの?」
「壁の向こうに好きな人がいるって、ちょっとそわそわするでしょ?」
一緒に住んでもいいのだけれど、キミの部屋をノックしてキミを起こしたい、と思った事をそのまま述べたアボットは何故かまたヨナに足を踏まれた。
いつの間にか、午後の風は涼しい。日本の夏が終わるのだろう。初めての夏の後に待っているのは初めての冬で、やはりアボットは少しわくわくとした。
愛や恋は思っていた程重くない。落ちた所は無重力のように、いつもふわふわと甘いような温かいような心地だった。
「ヨナー」
「……何だよ、もうすぐ着くってば牛丼屋」
「あー。アレ、おいしいよね。しょっぱくて。キスしていい?」
「だめにきまってるだろ馬鹿……」
三度目に踏まれそうになった足を避難させながら、アボットは気が付かないうちに、笑い声を零していた。
end
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