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第9話

「ヒューウ。英語ぺらっぺらじゃん姫野」  耳に当てていた携帯電話を切ったタイミングで喫煙室に入って来たのは、ぼさぼさ頭と眼鏡の上司だった。  今日の八木沢は伸びきったティーシャツに、くたびれたカーディガンを羽織っている。清永の記憶に間違いがないのなら、確か昨日も同じ服装だった気がする。  電話をしているうちに、無意識に新しい煙草に火をつけてしまったようで、清永の手にはまだほとんど吸ってない煙草が残っていた。  席を立つタイミングを逃した。本来ならばもう退社している予定だったが、アボットの乗る飛行機が悪天候で出発が遅れたため、残業をして時間を潰していたのだ。  部屋にいても落ち着かないのは目に見えている。そわそわと隣人の帰りを待つくらいならば、少しでも積んでいる作業を減らした方が建設的だ。 「彼女外国人?」  特に笑うでもなく、眠そうな欠伸をした八木沢は乱暴に言葉を投げてくる。煙草一本分は雑談に付きあう覚悟をして、仕方なくため息を飲み込んだ。 「……彼女じゃないけど電話の相手はアメリカ人です。カリフォルニア、サンディエゴ出身。いま空港についたそうなんで国内通話ですけど」 「うっへー飛行機とか一生乗りたくないねー俺は。彼女じゃねーなら彼氏?」  ぽん、と降って来た言葉に思わず、息が止まりそうになった。慎重に、甘い煙を吐く。一瞬反射で取り繕おうとしたが、誤魔化すのも面倒になって素直に眉を寄せた。 「…………八木沢さんは、そういうくだらない噂には関わらないタイプだと思ってました」  対する八木沢は怯まない。長い足を組み直し、いつもの猫背でいつものように煙を吐く。 「くだらない噂には関わんねえよ。今のはだってお前が悪いだろあんな恋人ともうすぐ会えるねうふふ、みたいな電話の切り方したらそら勘ぐるし、姫野が女相手にあんな強い言い方するとは思えねーなー相手は男かー? って思っただけ。学歴オバケしか英語できると思ってんじゃねーぞーっつっても聞き取りしかできねーけど」 「………………すいま、せん?」 「いや謝んなくていいだろ。煽ったの俺だし。マジこの会社業界内じゃそれなりにブラックじゃない方だけどさ、オタク系産業括りなのに社員のノリがうぜー大学か糞みたいなスーパーのパート店員みたいだよなー。ちょっと女社員と喋ってると『好きなの?(笑)』みたいな事言われるしああいうのほんとうぜーしほんと解せないわーって俺も思ってるよ。仕事だっつーの。職場だっつーの。つか正直姫野はそういうの気にしてねーのかなって思ってたな」 「え。何でですか。面倒くさいでしょあんなん」 「ふはっ、おま、笑わせんなそんなキレーな顔してガチ切れみたいな声出すなおもしれーから」 「顔は関係ないじゃないですか……」 「あるよ。あるある。俺はさーお前そんな小奇麗な顔でイケメンで、その上受け流しもうめーし、別ジャンルの人間だと思ってたんだよ。あのイカれたノリの奴らにちやほやセクハラされて、それなりに楽しいのかなコイツすげーなオタサーの王子かなるほどって思ってた」 「オタサーの王子……」  あまりに言われように絶句している清永を置き去りに、八木沢はつらつらと言葉を吐き続ける。 「ジャンル違う人間っているじゃん? なんかそういう奴らって考え方ちげーし、もう言語ぎりぎり通じないんじゃねーのこれって感じだし。昔なんかの本で読んだけど、『もしライオンが人間の言葉を話せても意思の疎通はできないだろう』ってやつ、まさにそれだよなって感じ。同じ言葉使ってても、考え方が違うと、受け取り方が違う。生まれる感情も違うし想像力だって別物だ。そんなんコミュニケーションとれねえよこちとら全知全能の神じゃねーんだ」  言っていることはわかる気がする。受け取る側の感覚が違うだけで言葉は別の意味を持つ。  言葉が通じなければコミュニケーションは成り立たない。恐らくこの会社の人間と八木沢は、言語感覚が違う別の人間なのだろう。 「常々くだらねーことで他人をからかうのがコミュニケーションだと思ってんのクソだなって思ってたんだよなー。それで円満に楽しく仕事できんだったらどうでもいいけど、俺は合わねーなってやっと踏ん切り付いたわ。なんかこう、作りたいものの路線も最近ちげーなって感じだしなー」 「え。……八木沢さんもしかして辞めるんですか」  不穏な会話の流れに、思わず煙草を吸う手が止まる。隣の男は何度目かわからない欠伸をしてから、珍しくにやりと笑った。 「んだよ。嬉しくねーの? 姫野、俺の事嫌いだろー」 「いや……苦手ですけど嫌いじゃないですよ苦手ってか、怖いですけど……基本正論で怒ってくるんであんま近寄ってボロだしたくないだけで。だって八木沢さん居なくなったら誰があの量の仕事的確に捌くんですか……」 「さーな。まあ、企業の中でコイツかいないと会社潰れるみたいな人間なんてそうそういねーよ。環境がよくなるとか悪くなるとか、そういう差はあるだろうけど。なんとかなっちまうだろどうせ。……つか姫野、最近わりと素を隠さなくなったよな。前からそんな委員長ヤンキーっぽかったか?」 「何ですかその委員長ヤンキーって」 「柄悪いけど真面目で固ぇってかんじ」  言われて納得してしまうのも癪だったが、確かに最近はセクハラめいた冗談に対しふんわりと笑って流す事をしなくなった。同僚達の態度は元々不快ではあった。それに耐えなくてもいいのではないかと思い始めたのは、アボットと出会ったからに違いない。  あの林檎が好きな変人は、確かに変人だけれど他人を見下したり物事に対してマイナスな事を言ったりはしない。狭い日本が好きだと言う。真面目な日本人が好きだと言う。日本の美しい正しさが好きだと言う。大げさな言葉ではなく、淡々と綴られる彼の肯定的な英語はそれこそが美しく、清永の日常を少しずつ明るくしていく。  何をもらっても嬉しいありがとう、と笑う童話の夫人のように。清永もそうでありたいと思うがしかし、柔らかい人間への第一歩は同僚の不快な冗談に苦笑いで応じることではないと気が付いた。 「いや、なんかこう……無理して笑って気にしてませんよーって態度作るの疲れたっていうか、面倒くさくなったっていうか……俺、糞真面目でつまんないって言われたのが結構トラウマだったんですけど、最近はキミの真面目なところは長所みたいな事言われてそれで調子乗ってんのかもしんないです」 「えーのろけかよーやめろよー俺他人のコイバナとか最強に興味ないけどシンデレラわりと好きだからクソみたいな同僚とストーカーの営業吹っ切って王子様とゴールイン! とかメシウマだからいいぞもっとやれって気持ちでいっぱいだわー。そんな前向きな姫野にちょっと激動なお話あるんだけど」 「……え……なんですか改まって……気持ち悪い……」 「うはは。お前のツンわりといいぞ。まあそう言わずに聞けよ三秒だから。俺が立ち上げるおニューな会社のスタッフになりませんか」 「………………は?」  煙草を吸いきった清永だったが、席を立つわけにはいかなかった。思わず相当間抜けな顔を晒してしまった。更に口から出たのは間抜けな声で、今ここに誰もいない事を幸いに思う。恐らく、八木沢は誰もないタイミングを狙っていたのだろう。 「え、ちょ……それ割とガチな話……?」 「ガチじゃねー話しねーよ冗談言い合う仲かよ。誤解あるかもしんねーけど俺別にお前の事嫌いじゃないからな。ちゃんと反省すんじゃん。他の奴見てみろよ俺が何言ったって『またうぜー八木沢がうぜーこと言ってる黙ってハイハイ言ってればいいんだろハイハイ』みたいな顔しかしてねーよ。ミスを指摘されてキレるのは論外。へこんで悩むならそいつは真面目な奴だろ。つか齢二十四でハイパーで完璧な社員とかいてたまるか。いじめとかシゴキとかは俺は嫌いだけどさ、ミスしてへこんでなんぼだろ若造」  まあ詳細は明日話すわこれから外人さんとデートだろ、と言い捨てた八木沢はひらひらと手を振り、清永があっけに取られているうちに喫煙室を出て行ってしまった。残っているのは染みついた煙草の匂いだけだ。  どういう気持ちになったら正解かもわからない。嬉しいのか恐ろしいのかそれとも迷惑なのか。すっかり八木沢にはどんくさい新人扱いされているものだと思っていたが、彼の中ではどうやら自分の会社にスカウトしてもいいレベルの後輩だったようだ。  仕事に関しては一言も褒められていない。八木沢の話を総合すると『話が通じて感覚が近い奴』と判断されたのだろうか、と首を傾げる。それにしても唐突で、情報と感情がうまく整理できない。  しばらく煙草も持たずにぼうっとしてしまったが、消灯の放送が入りハッと気が付いた。そろそろアボットが最寄り駅についてしまうのではないか。  とりあえず仕事の件は置いておくことにして、清永は煙草の箱をしまい、デスクに戻ると身支度を整えそそくさと会社を後にした。お疲れさん、と声をかけてくる八木沢はすっかりいつもの顔で、先ほどの少々熱い言葉が嘘のようだ。  転職という文字が頭の中をぐるぐると巡り、興奮と動揺が混ざって訳がわからない。とにかく早くアボットに会って、おかえりと言って、彼の話を聞いて、それから相談しよう。そう思いながら心ここにあらずな状態で電車を降りた清永は、自宅最寄り駅の改札を抜けたところで足を止め小さな悲鳴を洩らしてしまった。  そういえば、自分は割と面倒な問題を抱えていて、それは恐らくまだ解決していなくて、いい加減どうにかしなくてはと毎日嫌になるほど悩んでいたのだ。  その問題の原因が、駅の改札口前に立っている。  もしかしてアボットが待っていてくれるかな、などと浮かれた事を考えていた自分が馬鹿らしい。 「こんばんは、姫野くん」  ちょっと話があるんだ、と俯く田淵はいつもより神妙な表情で、本能的に後ろに下がりそうになる。どう見ても恋人の別れ話のような雰囲気ではあるが、そもそも清永と田淵は付きあってすらいないので、彼が俯く理由がわからない。 「……田淵さん、あの……この辺になんか用でもあるんですか? ああ、彼女さんが、住んでるとか?」  改札前で立ち止まっているわけにはいかない。走り出せば振り切れるかもしれないがしかし、いい加減この人ともきちんと話をしなければいけないと思ってはいた。  今がチャンスなのかもしれない。小さく覚悟を決めた清永は、寂れた駅の出口のポスト前に移動し、嫌々ながらも田淵と対峙した。 「真面目な話なんだ。茶化さないで聞いてほしい、姫野くん」 「いや茶化してなんかないですよ……なんでここにいるのかって聞いてるだけですし」 「君に用事があるからだよ。そんなことわかり切っているじゃないか……本当は会社で話せたらいいんだけど、八木沢がうちの課長と懇意らしくて……全く、コネを使って人のプライベートを妨害するなんてたいした男だよね。本当に酷いよ」  この返答に更に眉を寄せたのは清永だ。八木沢が田淵に苦言を呈していたという話は初耳だった。しかし何事も効率を重視する八木沢ならやりそうだ。  仕事中にプライベートを優先するのもどうかと思うし、八木沢は単にうちの仕事を邪魔するなと言っただけなのではないか、と予想は付いたが、余計な事は言わずに今は言葉の先を待つ。 「そんな酷い男に、姫野くんは付いていくの?」 「……喫煙室での話、聞いてたんですか?」 「偶然だよ。八木沢がいる限り、君のデスクには顔を出せないし、僕が君と会える場所は限られているし」  それは偶然とは言わず、待ち伏せと言うのではないか。言いたいことは山ほどあって全て喉元まで這い上がってくるものの、口に出す前にどうにか飲み込む。たぶんこの人はライオンだ。同じ言葉を使っていても、コミュニケーションが取れないタイプの人間だ。  本当に尊敬していたのに。本当に好きだったのに。アボットの静かな言葉が耳に蘇り、清永は涙が滲むのを堪えた。  愛していたものを嫌いになるのは、疲れる。心がぐっと、重くなる。 「やっぱり八木沢は浮気していたんだな……こんな風に姫野くんを引き抜くなんておかしい。君たちが付きあっていたから、きっとこんな結果が生まれてしまったんだね……僕はどうして気が付いてあげれなかったんだろう。きっと君も、八木沢に騙されていたんだよ。目を覚ましてほしいんだ、姫野くん」 「――は? 浮気? ……田淵さん、何言ってんですかちょっと、日本語話してください」 「落ち着いて聞いてほしいんだ。いいね? 君は八木沢に騙されているんだ。あの男は、五年前に結婚していて、先月子供も生まれている。君が、八木沢について行っても、結局は捨てられるだけなんだよ」  言葉が出なかったのは、驚愕していたからではない。単に、田淵が何を話しているのか理解できなかったからだ。  押し黙ったままどうにか頭を動かし辻褄を合わせようとしてみたが、そういえばこの一年程、八木沢はやたらと早退が多かったし寝不足らしきひどい顔の頻度も多かった。奥方が身重で、初めての子供が生まれたとあれば、それは清永には想像もできない程大変な日常だったのだろう。  八木沢が結婚しているという事実には確かに驚いたものの、特別プライベートを話す男ではない。同僚達の私生活を揶揄するような冗談の数々も、八木沢をターゲットにすることはないので、どんな私生活を送っているのかは確かに謎だった。  毎日よれよれの服を着ていたせいで独身だと思い込んでいたが、嫁がいるからといって毎日パリッとした清潔な服を着て来ないといけないということはない。共働きなら各自自分の服くらいは自分で、という家庭もあるだろう。  しかし、何故重大な秘密を告白するかのように、八木沢が既婚であると告げるのか、その理由はさっぱりわからない。別に清永は、彼が既婚でも子供がいてもどうでもいい。むしろ守るべきものがある男の方が、新しい会社の上司としては信頼できるのではないかと思う。 「酷い男だよね……君を振り回しておいてさ。大方妻とセックスレスになったのが不満だったんだろうね。僕をダシにしたのかな? 確かにぼくは君に付きまとうような事をしてしまったけど、少しでも多く会いたいと思ったからなんだよ。それをあいつは、横から攫うような真似をして……わかるよ、ちょっと嫌な奴が、優しい言葉をかけてきたら、すぐに好きになるよね。初期値が低いと、優しさのハードルがすごく下がるよね。でもそれもすべて君の勘違いなんだ。八木沢は君を愛してなんかいない」  ここまで聞いて、やっと清永は田淵の勘違いの予測がついた。どうも彼は、八木沢が既婚を隠し清永と恋人関係にある、という事を前提に話しているようだ。その前提がどこから出てきたのかわからない。わからないが、自分と恋人であると誤解されるのならばアボットである、と思っていた清永は、上司の汚名に慌てて口を開いた。 「ちょ、いやちょっと待って、ください田淵さんなんかすんごい勘違いしてんですけど……! どうして俺がチーフとどうこうなんて話になってるんですか。いや別に前程チーフの事嫌いじゃないですけど今だって割と苦手だし、引き抜きの話だって今日聞いて嘘だろなんだよマジかよって感じで、俺がその話承諾したとしても別にチーフと付き合ってるからとかじゃないし、つか、付き合ってたらあんな喫煙室とかでそんな話しないでしょ……」 「浮気なんて最低な行為だよ。折角あんな美人と結婚したっていうのに、家に閉じ込めてあの男は最低だ。なんであんな男にみんな騙されるんだ。たぶん、仕事を独り占めしてるんだよ。だから手柄がひとり占めになるんだ」  駄目だ、全く聞いていない。意思の疎通どころか、清永の言葉はただのひとつも田淵には届いていない。 「元々嫌な奴だった。僕を意識して、嫌がらせばっかりしてさ。姫野くんのことだって、先に目をつけたのは僕なのに――」 「目を付けたって言い方、好きじゃないなぁ」  絶望していた清永の頭の上に、降って来た言葉があった。それは英語で、とても静かで滑らかな砂のような声だった。 「アボット……っ」  待ち望んでいた人の登場だった。反射的に涙腺が緩みそうになった清永だったが、どうにか気力で持ちこたえる。悔しいとか怖いとか、そんな感情よりもパニックと絶望が大きく、そして今泣きそうになったのは安堵からだった。 「ただいまヨナ。取り込み中みたいだったけど、僕が割り込んだらまずい話じゃないよねって判断して勝手にお邪魔するね。困ってる? なんてわざわざ訊かなくてもキミは困ってるものね、どう見ても」  数日一緒に居なかっただけで、すっかり懐かしい声になってしまっている。後ろから登場したアボットは、ごく自然に清永を抱え込むように腕を回し、すっぽりと抱きしめた。  ほんの少し毛羽立ったサマーセーターの感触まで懐かしい。安心してうっかり腰が抜けそうになり、アボットに寄りかかってしまっても、後ろの彼は無表情で支えてくれる。  田淵は一瞬狼狽えたそぶりを見せたが、気を取り直したように一歩前に踏み出る。それに合わせるように、後ろから回ったアボットの腕がぎゅっと清永を抱きしめた。 「僕は知っているよ、姫野くん。彼は、君の隣人だろう? たぶん、八木沢に入れ知恵されたんだよね? 田淵を巻きたいなら恋人役を誰か作れってさ……まったく、自分が表立って君と会えないからって、弄ぶようなことばかりして最低だよ。あなたも、もうそんな演技はいいんですよ。いくら取引先の人間だからって、そんなに気を遣うことはないんですから。システム開発課の癖に、なんであいつはそんなコネばっかありあるんだ……」 「……ヨナ、僕は彼が何を言ってるのかちょっと良くわからないんだけど、あー、もしかしてヨナの会社ってサンライフ・インク?」 「え……そうだけど。アボットうちの会社となんか関係あんの?」 「僕の今の仕事は確かにサンライフ・インクの依頼だった気がするけど。でも仕事依頼の管理とか連絡とかは全部、アメリカの本社とマネージャーのサイモンが間に入ってるから、僕からキミの会社に出向いたり関わったり直接メッセージが来たりすることはないけどね。彼が勝手に怒ってるヤギサワとかいう人も、初めて聞く名前だし。誰?」 「俺の上司……」 「あー。そうなのか。へー。それで、彼何を勘違いして怒ってるの? ヨナとミスター・ヤギサワが恋人関係だって言ってるの? なんだかよくわからないけど、とりあえず僕はキミにキスしたらいい?」 「……実力行使より先に言葉で頑張んない……?」 「えー。だって、言葉ってちゃんと通じる人しか通じないんだよ。同じ言語っていうのは、言葉の種類じゃなくて感情と感覚なんだから」  八木沢と似たような事を言ったアボットは、悪びれもなく清永の頬にキスを落とす。一瞬で赤くなった清永の耳の上で、確信犯な林檎男は静かに甘い声でかわいい、と囁いた。 「ねぇ、ミスター・タブチ……で合ってるのかな? あなたが何に怒っていて、何を望んでいるのか僕にはちょっとわからないし、想像できるほど情報もないんだけど。もし僕がヨナの偽物の恋人役だって思ってるなら、それは違うよって証明してもいいよ。僕はヨナを、自分でもびっくりするくらいに愛しているんだからね」  きっぱりと言い放ったアボットは最後に清永に向かって、彼英語わかるかな? と首を傾げたが、正直それどころではない。  耳元でアイラブユーを宣言された清永の心中を察してほしい。両手で顔を覆いたい。できればしゃがみ込んで穴があったら入りたい。そしてここが自室かアボットの部屋だったなら、自分もそうだとすぐにアイラブユーを返せたのにと、ますます田淵を恨めしく思った。  田淵が英語を理解しなかった場合、まさか清永自身が今の言葉を翻訳しなくてはいけないのか、と危ぶんだが、どうやら言葉はきちんと伝わったらしい。そうだ、田淵は頭がよかった。知識もあった。様々な雑学は面白く、感心しながら酒を飲む事が多かった。  それなのに、彼は後ろばかりを向いているように思える。  八木沢とどんな確執があるのかは知らない。同い年だという事しか知らないが、もしかしたら同期なのかもしれない。普段の田淵の仕事内容は知らずとも、八木沢がいかに功績を上げている男かどうかくらいは知っている。そして八木沢は他人を気にしない。ライバルだ、と目くじらを立てて名指ししても、きっと彼は馬鹿にしたように笑って煙草の煙を吐き『何言ってんのお前馬鹿じゃねーの仕事しろよ』と言うだろう。この想像はたぶん、間違っていない。  どこから田淵は間違えていたのだろう。どこから清永は間違えていたのだろう。清永に声をかけてきたのも、八木沢に対する嫉妬や対抗心からなのだろうか。清永に迫ったのも、それは清永に対する愛情や憎悪ではなく、八木沢への当てつけや優越感からなのだろうか。  まだ、愛しているからストーカーをしています、と言われた方がマシだった。  張り詰めていた感情が一気に萎んだように、ただなだらかな脱力感が清永を襲った。それでも立っていられるのは、アボットが支えてくれているからだ。 「……俺もなんか、田淵さんが何考えてるかとか、何を誤解してんのとかわかんないし、もう面倒くさくて言い訳する気もないし、あんたが今まで何をしたとかそういうの追及する気もないけど。……八木沢さんに拘るのやめたら? って思うよ。あと、俺は、モノでもコマでもゲームのNPCでもなくわりと色々考えてどうにか生きてる人間だから。勝手に決めつけて哀れまれたり振り回されたりするの、嫌なんで、もう俺の前に出て来ないでください」  もう疲れたくない。それしか気持ちは残っていない。  何かを言いたげに口を開いた田淵だったが、それを聞く前にアボットが清永の手を取って歩き出した。 「ちょ、アボット……っ」  握った手が珍しく力強く清永を引っ張る。もつれそうな足をなんとか叱咤し、清永は速足のアボットに引きずられた。 「帰ろう、ヨナ。話が通じたとしても、説得したり和解したりする必要、たぶんないよ。それにこれ以上あそこで喋ってたら、ヨナが泣いちゃいそうだし」  泣かないよとは言い切れないのが悔しい。ちらりと振り返った先には、もう田淵はいなかった。追いかけてきているわけでもないので、さっさと駅に戻ったのだろうと思う。自分の言葉など、彼に対してはほとんど効果の無いものかもしれない。そう思うと平らになったはずの感情が、まだ少し沈み込むような気がした。 「……俺、アボットの前で泣いてばっかだなぁ」 「そんなことない……あー、いや、そうかな? そうかも。でも、ほら、僕だって泣いたよ。人生で何回あるかないかってくらいの涙を、ヨナにだけ晒したんだから、お互い様だね。……ヨナまだ顔赤いね」 「日本人は君だけとか限定とかそういう希少モノに弱いんだよ勘弁してよ……」 「あなただけだよ、にときめいちゃうのは、わからなくもないなぁ」  ふわふわと、まるで駅の一件などなかったかのようにアボットは夜空を見上げて歩く。いつもの、なんでもないような一時過ぎて、彼が親族の葬儀から帰国したばかりだとか、八木沢が独立するだとか、田淵と不毛な言い争いをしたことだとか、そういうことがまるでなかったかのようだ。  清永にとっての何もない平和な日常というものに、アボットはすっかり組み込まれてしまっているのだ。彼が隣で手を繋いでいてくれると、清永はいつでも、当たり前の日常に幸福を感じる事が出来た。 「……こんな風に、手をつないでドキドキすんの、アボットだけだよ」  思ったことをそのまま口にするのは恥ずかしい。それでも、愛してると言ってくれたこの人に返す言葉を探したのに、当のアボットはぎこちない仕草で顔ごと視線を逸らした。  怪訝に思った清永だが、彼が照れているのだと気が付いた時、清永まで赤くなってしまった。アボットは、予想通りに格好良くて、予想外に可愛くて、ずるい。 「…………日本にはアイラブユーがないから、もっと別の方法で愛を伝えてくるって、誰かが言ってたんだけど……ちょっと、思いもよらず、どきどきしすぎて、どうしていいかわから……ちょ、ヨナ、やめて、僕いまひどい顔してるんだたぶん」 「え。なにそれかわいい。見せてよ。見せろってば。いいじゃん、ほら、こっちむいて?」 「嫌だってば……なんなの、もー。キミは、何をしていても僕の心臓を殺してくる」  だから嫌だとか悔しいとは言わず、アボットはだから好きだと自分の顔を隠すように素早く清永にキスをした。  アパートはすぐそこだ。啄むようなキスを繰り返した後に、首筋に抱き着いた清永は安堵のため息をついた。 「……そういえば言い忘れてた。おかえりなさい」  ほんの少しの間の後、ただいまと笑ったアボットはひどく魅力的で、アパートを待たずに清永はまたキスに興じそうになり、かすかに残った理性を総動員して耐えた。  扉を開けたらキスをしよう。そんな不埒な事を考えながら階段を登る時間のじれったさに、恋というものを感じた。

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