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第8話

 湿気っていたような思い出の中の風景は、実際はからりと乾いてしまって、さらさらの感情は肌に心地よく、心には張り付かない。  そうか思い出ってやつも、時間の経過で乾くんだなぁと思いながら、アボットはすっかり片付いた部屋の椅子に座った。  曇天だった。降りそうで降らない空はどんよりと重く、少女時代から晩年までを病院で過ごした義母の一生を、奇しくも表しているようにも思えた。  彼女が見上げた薄暗い天井の色は、今日の雲よりも暗かったのだろうか。ほとんど会話らしい会話をしなかったアボットには、想像することもできない。  サイモンならば『病院の壁は病院の壁以外の何物でもねーよ雲とは別物だろうがポエミーしてねえで仕事しろ』と言うだろう。実際に先ほど葬儀に出席したサイモンに似たような話をしてみたら、想像通りの答えが返って来た。さすがに仕事をしろとは言われなかった。それよりも大丈夫なのかと五分に一回は言われた。  ヨナなら何と言うだろうか。彼女の見つめた天井を、どう表現するだろうか。そんなことを考えているうちに、静かな葬儀はあっけなく終わった。  疲れた顔の父は記憶の中よりも随分と痩せこけていた。落ちくぼんだ目の暗さは、長年の看病のせいか、それとも義母の死を嘆き悲しみすぎたせいか、判断はつかない。ただ、父は葬儀中泣くことはなかった。  泣かないのだろうなと思っていたアボットもまた、涙を流す事はなかった。  久しぶりに袖を通したスーツが堅苦しい。ぎしり、と軋む椅子は記憶にあるままで、葬儀では出なかった涙がほんの一滴こぼれそうになった。  義母の葬儀はジュリアンで行われた。本人がそれを望んだのだという。少年時代に夏を過ごした思い出の家には、今は叔父の妻であるミルズ夫人が住んでいるだけだ。義祖父母の葬儀の知らせは受け取ってはいたが、アボットは適当に理由をでっち上げて出席しなかった。  叔父の部屋は、元々ものが少ない。寝室ではなく書斎のような空間ではあったが、彼はここを秘密基地のようなものだと言っていた。この小さな部屋で、叔父は何を思い、何をしていたのか。何となく、家族から逃げられる場所が必要だったのではないかと、想像することくらいしかできない。  この部屋の木のドアは立て付けが悪く、ほんの一センチでも開けば、キィ、と乾いた音がする。  アボットは振り返らずに、扉が開ききるのを待ち、そして彼女が木製の古い脚立に腰を掛けるのを待って口を開いた。 「あなたには感謝しているんだ。まずは、それが最初かなって思う。母に、何も言わないでいてくれて、ありがとう」  アボットは両親に、心中事件の事は何も言わなかった。幸いアボットは怪我も無く無理心中から逃れたので、事の真相はジュリアンの一家しか知らない事だ。  そしてまたミルズ夫人も、彼女の義理の姉であるアボットの義母には、何も言わなかった。 「どこが悪かったのか、たくさん病気がありすぎて、僕はあんまり把握してないんだけど。たしか、心臓も悪かった筈だから。義母さんと言ってもほとんど他人だけど、弟が僕を道連れに死のうとしたなんて知ったら、それこそ病院で自殺しそうな人だってことくらいは知っていたんだ。だから、感謝します」 「……あなたに感謝されるいわれはない。私はあなたを作ったあの男の事すら憎いけれど、義姉さんに罪はないわ。義姉さんは、私とウィリアムの結婚を祝福してくれた。笑うと本当にそっくりで、眉毛が下がるところが瓜二つだった。私は義姉さんを愛していたから、あなたのせいで彼女が泣くのを見たくなかっただけよ」  アボットのせいではなく、全ての原因はほとんど叔父なのだが、今そんな訂正を入れても意味はない事を知っていた。夫人の中では事実が歪んでいる。都合のいいように、自分が一番辛くないように、アボットが一番の悪になるように。  今アボットが殺されないのは、義姉の葬式という場を汚したくないというそれだけの理由なのではないかと思う。背中から突き刺さる憎悪に満ちた視線を受け、アボットは息を吐いた。  憎しみを受け続けたせいで、もう、彼女がどういう人なのかもわからない。記憶の中にうっすらと残る彼女は、アップルパイを持って微笑んでいた。しかし乾いてしまった思い出に、懐かしいという感情はない。いい人だとかいやな人だとか、そういうレベルではなくて、危険な人という以外の感想がない。  椅子を跨ぐように、くるりと振り返り腰を下ろす。その先には、やはり憎しみだけをぶつける女がいる。長じて背も伸び、様々な国で生活して少なからず人生経験を積んだつもりでいた。今なら、彼女に多少なりとも反撃できるのではないかという期待が少々あったが、それが間違いであったことに気が付いた。  彼女の憎悪は複雑で、歪曲的で、そして身勝手で膨大で、とても、アボットの声など届きそうになかった。  説得できなくても、話くらいはできるのではないかと思っていた。それも、無意味だと知る。  気づかれないように長い息を吐いたアボットは、改めて正面を見た。  そこにいる女は、もう叔父の妻ではなく、親類でもなく、ただの敵だと言い聞かせた。 「義母さんが死んだので、もう、僕は誰かに秘密にすることもない。このままあなたと鬼ごっこをする生活も、そろそろ慣れたし不便はないんだけど。でも、ちょっと、巻き込みたくない人ができたし。なんなら今まで巻き込んじゃった人たちも、安心して僕なんかに気を遣わず仕事してほしいなって、そんな真っ当で当たり前の事を今さら思ったから。だから僕は、あなたと戦おうと思う」 「……戦う?」 「うん。戦う。接触禁止令をとりあえず取る。できることならドイツのアパートの窃盗事件も罪に入れてもらいたいけど、海外の犯罪って面倒くさいからどうかな……でも、証拠を集めていけば、あなたの動きを封じてしまうことくらいは、できると思うから」  今までそれをしなかったのは面倒だったというのが一番ではあるが、やはり、義母に知られたくなかったからだ。  義母が安らかに旅立った今、アボットが気を遣うべき人はいない。父がどう思うのかは少々不安があるところだが、ほとんど一緒に過ごしてこなかった親族よりも、自分を慮りサポートしてくれた数少ない友人や同僚の方が大切だ。彼らにもう手間をかけさせない為に。そして異国の思い人であるヨナと少しでも安心して過ごせるように。  アボットは人生で初めて法というものを頼る事にした。 「僕も、あんまり詳しくないから、まあ詳細はぺらぺら喋らないけど。とりあえずはお金払って専門の人に頼んであるので、近々何か知らせが行くと思うよ」 「あなたが、あの人の事を諦めたらそれでいいのよ。法の裁きなんか必要ない。裁かれるならあの人を殺したあなたじゃないの」 「……そう、思っていてもいいけど。誰が悪いかなんてことは、僕たちには決められないことだから」  じゃあねと手を上げて、アボットは椅子から立ち上がる。さすがにすれ違う瞬間は緊張したがしかし、彼女が動く事はなく、アボットは傷ひとつなく家の外に出ることに成功した。  緊張で握りしめていた手から力を抜き、息を吸ってゆっくり吐く。懐かしい土の匂いを感じている最中、唐突に背中を殴って来たのは今日一日そわそわと煩い同僚だった。  さっぱりした短髪をきっちりとセットした眼鏡の男は、電話越しと変わらない威勢のいい罵声をリアルに叩き込んでくる。八年ぶりに生身で会ったサイモンは相変わらず真面目でそして口が悪かった。 「おい無事か大丈夫か死んでないか生きてるか全く何考えてんだお前馬鹿か……!」 「サイモンはあれだよね、二言目にはとりあえず詰ってくるよね。別に嫌じゃないけどね。もっと優しく心配してくれるとちょっと嬉しいかもしれない」 「十分優しいだろもっと感謝していいんだぞマジで……! つかマジで馬鹿なのかよ林檎野郎、なんでわざわざしなくていい接触したんだよお前が本人に話してどうすんだよ逃げられたらどうすんだ。弁護士にまかせとけよそういうのは!」 「えー……いや、ちょっと言葉が通じればいいなって思ってさ、チャレンジしてみたんだけど」 「通じるわけねーだろうが。よくお前殺されなかったな。俺達の苦労が水の泡かと思ってほんとくそかよって思ったわ」 「ごめんなさい。でも、なんか、喋ったらふっきれたっていうか、あー……逃げてるの、馬鹿らしくなったなぁ」  本当に、馬鹿らしくなった。こんな人の為に色々な人間を巻き込んでいるのが馬鹿らしくなった。そう思ったら売らなくていい喧嘩を売ってしまったような気がするが、言ってしまった言葉は戻せない。引力で落ちた林檎は、元の木に戻れない。時間は逆行しない。落ちたものは、もうどうしようもない。 「いやでも、お前ほんとジャパニーズボーイにお熱になってからちょっとなんつーか感情戻って来たってか、芽生えてきたってか、へんなとこでストレートになったよなとは思うわ。今までもうちょっと人生とか生死とかに興味なかっただろ。やっぱ恋ってのはすげーのな。恋するととりあえず明日が来るの楽しいもんなわかるぜマイフレンド」  すべてがうまくいけば、サイモンの一日十五分の生存確認時間も無くなるだろう。本当はアメリカに帰った方がいいのは百も承知だが、今のところヨナの隣人という立場を放り投げる気はない。  サイモンの言葉で思い出し、アボットは彼の携帯をしばし拝借した。時計を見るのを忘れたが、ヨナは何時でもいいから必要なら電話をしろと三度も念押しした。何度か言わないとアボットの頭に入らない、という事を早くも彼は心得ている。 『……もしも……えーと、ちがう……ハロー……? それとも、グッドモーニング?』  電話越しに聞こえる声は、少し掠れてセクシーだ。顔を見ないで話すとき、アボットは何故かいつもくすぐったいような気持ちになる。 「こっちは夕方だよ。グッドモーニング、ヨナ。起きてた? 寝てた?」 『起きてたよ馬鹿。眠れるわけないだろ馬鹿』 「僕の友達はみんな第一声目に僕を罵倒するんだけど、なんでかな。その軽口が愛情だったら嬉しいんだけど、そうじゃなくてもヨナの声を聞いてるだけでちょっと嬉しいから不思議……どうしたのヨナ? なんか変な声が聞こえたけど」 『……耳に直でクるからやめてほんと。お葬式終わった?』 「終わったよ」  そう口にした後に、続く言葉を探して沈黙が降りた。話したいことはたくさんあるのに、うまく言葉が出て来ない。ヨナの声を聞きたい、と思って電話をしたのに、いつもはあれだけ無駄に溢れる言葉が、喉のあたりでつまっているようだ。  帰るのは明日になるよ。たぶん着くのは夜だ。キミはちゃんとご飯食べた? ミスター・タブチは大人しくしている? そういえばお土産は何がいいか聞いてなかった。ジュリアンのアップルパイは保存がきかないから、アップルパイ以外で何か欲しいものはないか訊かなきゃいけない。  こんなにも言うべき事があるのに、どうしてか、一言も喉から出て行ってくれない。押し黙るアボットの代わりに、何気ない風に囁いたのはヨナだった。 『……Is everything alright?』  困ってる?  と、その声は耳に届く。それは先日、アボットがヨナに向けて言った言葉だ。  言葉が、意味を持って身体に染み入る。たった一言で、今までずっと乾いていた瞳がじわりと潤み、どうしてキミの言葉はこんなに強いのかと、俯いた。 「……困ってる、かもしれない。僕は、ずっと、いろんなものに興味がなくて、それは他人もそうだけど家族とか、友人とか、果ては自分もその対象で、要するにちょっとというか、かなり無神経で冷たい人間だったんだね。だから、別に……可哀そうだとか、大変だなとは思うけど、それは世界のどこかで誰かが死んだよって言われるようなものと一緒で、義母が死んだって言われてもぴんとこなくて、そうか、って思ってただけで。今日も、ぼんやりしているうちに葬式は過ぎていくんだろうなと思ったんだけど」  こらえていたものが、ぼろり、と頬を伝って落ちる。  涙を流すこと自体が本当に久しぶりで、実際泣いた記憶が思い出せない。久しぶりすぎて、目が熱くて笑ってしまった。 「……なんだろう。悲しいとか辛いとか可哀そうとか明確な感情はない筈なのに、息が苦しくて涙が出る。ほとんど会うことも無い人だったけど、そういえば、僕が顔を見せるとちょっと笑ってくれる人だったな、なんて思い出して、息が苦しくなる。正直言うと、彼女が死んでほっとしたところもあるのに。やっと、叔母と縁が切れたって思ったのは、事実なのに」  暗い空の下、温い風がアボットの横をすり抜けた。 『どうしたら、あんたの涙を止められる?』 「…………もう泣いてないよ」 『あ、そうなの? じゃあ俺は何もしなくていい?』 「うそ。うそだよ僕は今すごく号泣している。だから、えーと、キスはちょっと遠いよね……何キロあるのか知らないけど、とりあえず時差は十六時間だ。ヨナに抱きしめてもらえたら、喉の奥に詰まった重い息も全部綺麗に溶けちゃうと思うのに、距離が恨めしいよ。……ええと、だから、……なんだろう。わからなくなっちゃったな。本当はたくさん話したいことも、ききたい言葉もある筈なのに。キミとおしゃべりしていると、ふわっとどうでもよくなっちゃうな」  空を見上げながらぐるりと回転し、アボットが告げた言葉に、電話向こうのヨナは悶絶しているような気配があった。彼のツボは、正直アボットにはよくわからないが、ヨナが自分を好いてくれる要素が少しでもあるならば、それが何であろうがどうでもいい。  日本は狭い国ではあるが、狭くてすぐに手が届くから好きだ。日本はとても狭いから、ほんのちょっと、扉を開けて歩くだけで、好きな人の部屋のドアの前につく。十六時間の時差も、太平洋を越える距離もない。二メートルで会えるあの場所に、アボットは早く帰りたいと思う。 「顔見て泣いたらごめんねヨナ。僕はどうやら、最近ね、安心って言葉を覚えたみたい」 『……だめ、俺が泣きそう。泣いたらごめんって俺も言っとく』 「空港で泣いちゃう男二人はちょっとだけ恥ずかしいから、ただいまとお帰りは、アパートまでお預けしなきゃね」  生まれた町と、育った町を後にして、アボットは半年前に出会ったばかりの国に帰る。ただいま、と声をかける瞬間を想像して、また涙が出そうになったのはヨナには内緒にしておいた。

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