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第7話

 コーヒーカップを二つ持ち、片方を差し出す彼はいつも通りの静かで滑らかな声で、いつも通りの抑揚や感情が最小限の言葉遣いで、何事も無いように一言、『母が死んだって』と言った。  玄関先のキスを遮ったのは携帯の着信音だった。最初は無視をしようとしていたらしいアボットだったが、清永が電話の音を指摘するとひどく億劫そうに歩きそれを手に取った。  十分ほどの通話だった。アボットはほとんど頷いているだけで、また後で連絡が欲しいと言って切ったように思う。そして彼は無言でインスタントコーヒーを淹れ、先ほどの言葉を無造作に投げて寄越した。  なんと返していいかわらかず、清永はベッドにもたれて座ったまま押し黙った。  どういう顔をしていいのかすらわからない。例えば相手が既知の友人なら、慰めの言葉を口にしただろうし、職場の知り合いならお悔やみの言葉を口にした筈だ。しかし隣に座って珈琲を啜る男はあまりにもいつも通り過ぎて、反応に困った。  二口程珈琲を飲み込んだアボットは、困惑する清永の様子に気が付くと、ほんの少しだけ表情を崩した。笑うわけではないけれど、ふっと眉のあたりの力が抜けた。 「いや、あのね……ごめんね、説明しないと、気を使わせちゃうな。あー。ちょっと長くなるかもだけど、僕の話をしようか。というか、僕は今キミに、僕の大して楽しくもない人生の話を聞いてもらいたいな、なんて、思ってるんだけど……でも、今度にしようかまだ目が赤――」 「え、話してよ俺のことなんてどうでもいいよマジで。てか、俺はほら、ちょっとびっくりしてワーッって走ったらパニックになっただけだからさ。気にしないで。ほんと気にしないで俺はアボットの話が聞きたい」  今まで散々世話になって来たし、アボットが何かを求めてくることは珍しい。  いつも彼は、清永に手を差し伸べるばかりだ。具合が悪くて倒れた時も、電話番号をくれた時も、駅から手を繋いで歩いてくれた時も。最近は夕食をよく提供してくれる。ゴキブリに打ち勝つことができたのはヨナのお陰だ、などと言いながら、彼はいつでも清永に手を差し伸べてばかりだった。  つい先ほども、パニックになった勢いでとんでもない要求をしてしまった。しかし情熱的に応えてくれたアボットの熱い舌や体温や息遣いは、清永に期待を持たせるものだった。  もっと踏み込んでいいのなら、もっと関わっていいのなら、もっと知っていいのなら、と、貪欲になってしまう。  しばらく天井を眺めたアボットは、珍しく悩んでいる様子で唸った。 「うーん……どこから、話そうかな。最初に、これだけは言っておくけど、僕は今悲しいとか辛いとかあんまり思っていなくて、なんならキミが隣に座ってくれて嬉しいな、くらいの気持ちだからあんまり真剣にこう……慰めなきゃとか、レスポンスしなきゃとか思わなくても大丈夫だから、その辺はそういう気持ちでいてくれていいよ」 「……隣に座ってんの、嬉しいの?」 「え、嬉しいよ。僕の話を聞いてくれるのも嬉しい。でも、本当にあんまり楽しい話じゃない筈だよ。僕はあんまりというか、かなり感情の起伏みたいなものがなくて、ていうかもう、感情みたいなものがわりと薄くて、だから自分の境遇がどれだけ同情を誘うものなのかとか、いまいちわからないんだけど。……まあ、大概の人が眉を寄せて同情の言葉を口にするから、そういう感じなんだろうなぁと理解している」  そう前置きして、アボットは薄い珈琲で喉を湿らせながら、少しだけ長い話をするために口を開いた。 「僕の故郷はカリフォルニアのサンディエゴで、多分普通の家に普通に長男として生まれた。兄弟はいない。父は病院に出入りする備品の販売業者だった。実母は何をしていた人なのか良く知らないうちに病気で死んでしまったんだけど、僕が五歳だか六歳だかの頃に父は再婚して、そしてその義母も結局何をしていた人なのか良く知らない。義母は父に会った時にはすでに入院していて、そしてそれからずっと僕の家に住むこともなく病院で暮らしていたからね。……さっきのは一年に一回喋るかどうかわからない父からの電話でね、向こうは夜明け前で、そして義母がついに病院のベッドの上で長い生涯を終えたっていう電話だった」  あまり、実感がない、とアボットは首を傾げた。確かにこの話を聞けば、義母と言ってもほとんど他人のようなものだろうと思う。  特にここ二年ほどは調子が悪く、意識もあったりなかったりという状態だったらしい。 「子供の頃は結構お見舞いに行ってたけど、向こうもいきなり子供ができても何もできないわけだし、ごめんねって謝らせてばかりだったから、そのうち行かなくなったかなぁ。父は仕事に行く時間以外はほとんど病院にいるのが当たり前で、僕はサマーバケーションの間、義母の実家があるジュリアンっていう町に預けられて過ごすのが恒例になった」  後にネットで調べた清永は、ジュリアンはアップルパイが有名な林檎の町だという事を知った。  アメリカの夏休みは長いと聞いたことがある。人生の中で少なくない時間を、アボットはその田舎町で過ごした筈だ。 「ジュリアンの家には、義母の両親と、義母の弟とその妻が暮らしていた。僕にとってはええと、義理の祖父母と、叔父夫妻かな。朗らかで気のいい人で、ちょっとみんな心配性のところがあったけど、まあ、義母が大病を患ってベッドの上から動けない生活だからね。そりゃ、そういう風になっちゃうのかなと思う。僕は夏前になると当たり前のようにジュリアンに行き、新年度前にサンディエゴに帰ってくる生活だった。最初に、おかしいなぁと思った日の事は覚えていないけど、アレを見た日の事は覚えているよ。たぶん僕は十歳で、独立記念日の翌日だった」  アボットは祖父に言われて納屋の鍵を探し、いつもは立ち入らない物置の扉を開けた。  そこで彼は、隣家の少年の腹を舐める叔父の姿を見てしまった。  少年は前日のお祭りではしゃぎ疲れ熱を出し、シングルマザーの隣人から預かって寝かせていた。日付は思い出せるのに、この時何を言ったのかは思い出せないという。  その夏が終わらないうちに隣人は引っ越し、そしてアボットはいつのまにか叔父に悪戯されるようになった。 「悪戯、って、ええと、あのー……」 「うん。まあ、キミが想像しているやつより、ちょっとだけマシだろうとは思うけど、要するに性的虐待だよね。別に痛くなかったし、大体は膝の上に乗せられて撫でまわされるだけだったけど、それでも普通の人からしたらまずい行為だったとは思うよ。叔父は、少年愛の人だったみたいだね。誰でもよかったわけではないみたいで、それも、性的欲求を満たす為の行為というよりは、生ぬるい好意って感じだったから、わりと本気で僕は彼に恋をされていたのかもね。実際に叔父は時々触ってくる以外は優しかったし、触るといっても撫でるようなものばかりでいやらしさはなかった。少なくとも僕の記憶の中ではね」 「……叔父さんは、今も?」 「死んじゃった。僕が十六歳の時に。僕と無理心中をしようとして、失敗して一人で死んだんだ。……ああ、ほら、そんな顔しないでってば。ええとね、当時はそれなりに、僕だってかなり、色々考えたけど。結局僕は叔父さんの事が普通に人として好きで、だから死んでしまったのは悲しくて、でも触られるのはやっぱりちょっと嫌だったし、なんていうか、あー……まあでも、昔のことだから」 「でもアボット、殺されかけたんでしょ?」 「うん。死ななかったけどね。怖かったけど、それ以外の感情はなかった。もしかしたら僕はその当時から少し感情が壊れていたのかもしれないし、その時に壊れたのかもしれないけど、結局思い出せないからどうでもいいかな。感情なんて後からどうにでも改ざんできちゃうものね。人間の記憶なんてひどく曖昧で身勝手なものだから」  そうは言っても、清永にはあまりにも壮絶な過去に思える。当時から彼が今のように飄々としていたとしても、十六歳の少年であることは間違いない。病気でほとんど会ったこともない義母。看病の為に家に居つかない父親。長い夏の間は血のつながりのない田舎の家で過ごす。その家で彼を待ち受けていたのは世間一般から見れば虐待で、そして十六歳のアボットが体験した事は、清永の想像もできない事件だ。  抱えていたコーヒーカップをテーブルに戻し、清永はアボットの手をぎゅっと握る。驚いたようにこちらを見たアボットは、三度程瞬きをした後に清永の手を握り返してきた。 「……キミの同情ってかわいくていいな。大概この話をすると、もっと怒れって呆れるか、同情しながら一歩後ろに下がるかだよ。そういえばこれを最初に話した地元の友達は、馬鹿みたいに怒って一時間くらいありとあらゆる言葉を使って僕の家族に文句を言ったなぁ……普段は無口な奴も、珍しく怒鳴ってた。彼らが怒ってくれたから、僕はどうでもよくなっちゃったのかもしれない」 「俺は、なんていうか……怒るっていうか、なんだよそれって思ってはいるけどさ。アボットが昔のことだよって淡々と話すから、なんか、怒る気持ちとか辛い気持ちとかそういうの、全部あんまり実感わかない感じする」 「昔の話だからね、実際。感情って、たぶん水っぽくてどろどろしてて湿気で満ちているんだけど、時間が経つと乾いちゃうんじゃないかなって思うよ。カサカサになって、ぽろぽろって崩れていく感じ、かな」  だから今はそういうことがあったな、ってたまに思い出すくらいだとアボットは言う。彼は怒ることも泣くこともなく、その乾いた感情の上に立っているのだろう。 「それで、えーと。ここまでが、僕の昔の話。それでね、ここからがまあ、今の僕の話になるんだけど、今までのが前提。僕は少年愛趣味の叔父にどうやら愛されちゃって、無理心中未遂の末僕は助かったけど、叔父は死んじゃった。それで、ええとね…………うーん、結論から言うと、あの日から僕は、叔父の妻であるミルズ夫人に因縁つけられて追いかけられて、国を跨いで逃げてるんだよね」 「…………は?」 「いや、まあ、そういう反応になるよね。わかるよ、流石に。僕も別に、完全に引きこもって生きているわけじゃないし、友達とか同僚とかにも同じ話をしたし、その度にまあ、第一声は『What did you say?』だよね」  まるで言いなれた冗談のように肩をすくめるが、清永は自分のリスニング能力に難があるのかと耳を疑う思いだった。  ただ、辻褄は合う。  どうして各国を転々としているのか、興味がないわけではなかった。例えば各国を飛び回る事自体が仕事、というわけでもないらしい。絵を描いていると言っていた気がする。外出することも稀なアボットが、わざわざ他国に来て仕事をする意味は何だと考えても、うまい答えは浮かばなかった。  逃げている、というのは納得できる答えだ。  きちんと英語を聞き取る準備をして、清永は詳しい話を促した。 「その、ミセス・ミルズは、えーっと、アボットを、何で追いかけて……」 「本人とちゃんと喋ったわけじゃないけど、祖父母の話だと、どうやら僕を殺すくらいのつもりらしいね。彼女の中の僕は、夫を誘惑して死に導いた悪魔らしい」 「いや、でも、旦那の心変わりや少年愛主義を批判したり悲しんだりするならまだしも、アボットは巻き込まれただけじゃん」 「まあね。僕的にはそうなんだけど。あの人の中では、やっぱり僕は、愛する人を奪った男なんだろうね。その上まだ僕が、叔父の事を愛していると信じているみたい。急に祖父から電話がかかってきたのはハイスクールの卒業式の日だったかな。どこでもいいから逃げろって言われて僕は家には帰らずにサンフランシスコ行きのバスに乗った。そのまま、そういえば一度もうちには帰ってないなー」  父親からは時折電話が来るという。アボットの居場所は彼が所属する会社がすべて管理し、それはごく一部の人間にしか知らされない。 「そんな感じで世界を転々としてるわけだけど、僕はとにかく生きる事に関して信用されてなくて、仕事の用事はメールでいいのに一日一回生存確認の電話が入る生活だよ。別にいいけどね。そうやって僕の身を案じてくれることに、すごく感謝しているし、いい会社といい同僚に出会ったと思う。まあ、これが大体僕の現状だけど……大丈夫ヨナ、頭痛い?」 「…………頭パンクしそうだけど痛かないよ平気……」 「ほんと? 具合悪いなら寝てもいいよ。僕は仕事がちょっと残ってるから作業するけど、パーテーションで区切っちゃうから気にならないと思うし思う存分ベッド使っていいから寝――」 「大丈夫だって。つかアボット、それじゃあ帰れなくない? お義母さんが亡くなったの、勿論実家の方にも連絡行くよね? ってことは、葬式にミルズさんの御夫人は参加するよね?」 「うーん。それがね、僕ちょっと一回帰ろうかなって思うんだよね」 「…………は?」 「あ、ちょっと、ヨナ顔が怖いね。あーでもその顔もわりと、なかなか……キミってば赤いとキュートだけど剣呑な顔だとすごくハンサムでちょっとドキッとしちゃ――」 「帰ったらやばいだろ!」 「……どうかな。どうだろう。まずいかな。うーん。でも、そういえば僕は面倒くさくて勢いだけで逃げていたけど、あの人とちゃんと喋ってないなーって思ってさ。それと、面倒くさくて逃げる生活は別に個人的には嫌いじゃないんだけど、ちょっと僕は、日本に長めに滞在したいなって思うから、すごく今さらなんだけど、まあ、これも節目かなって思ってさ。せっかく好きな人ができたのに、僕の都合でサヨナラなんて切ないじゃない」  好きな人、という単語に思わずどきりとしてしまう。  わかりやすく反応してしまい、アボットにちらりと横目で見られたのがわかった。握った手がひどく熱い。しかし、離すタイミングを失ってしまった。 「以上、僕の過去と今とこれからの予定の話。……好きな人の話もする?」 「……あんまり、聞きたくない……」 「そう? ……耳赤くてかわいいね。ハンサムなのにかわいくて、真面目なのに柔らかいから、ヨナは、いいよね。すごく好きだなって毎日思う」 「好きって言ってる。好きって言っちゃってる……っ」 「愛してるじゃないからセーフだよ」  しれっと言い放ったアボットは、小さな動物にするような軽いキスを清永の額に落とす。さらりとした気障な仕草に、身体を離そうとしたら捕まってしまう。痛くないギリギリの力加減で腕を掴まれ、悔しさと恥ずかしさで目に力が入ってしまった。  アボットはかわいいというけれど、清永の外見は少女的でも少年的でもない。ごく普通の成人の体格だし、中性的と言っても丸みやコケティッシュな印象はない。  それでも彼がキュートと連呼する気持ちは、清永にはわからなくもない。清永にしてみれば、ゴキブリに怯えて思わず部屋を飛び出す様も、ぼけっと天井を眺めてどうでもいい事を自問自答している様も、醤油とめんつゆの違いが判らず唸っている様も、どうしようもなくキュートに見えるからだ。  アボットは清永の額に自らの額をくっつけると、至近距離でふっと笑う。近すぎて顔が見えないのが悔しい。今のは絶対にかっこいい顔をしていたのに。 「ヨナは、僕のこと嫌いかなー。それなりに、好かれていると嬉しいなと思っているんだけど」 「嫌……いや、嫌い、じゃないけど」 「じゃあ、好き」 「…………声は、好き」 「声。声か。あんまり言われないな。平坦でわかりにくいからもっとアップダウンを付けて喋れって言われるけどな」 「でも、気持ちいい声だよ。なんていうか、冷たいさらさらした砂みたいな。滑らかで、落ち着いた感じですごい気持ちいい待て待てチューするそれ以上近づいたらチューする!」 「だめ?」 「訊き方。訊き方に難がある。俺が、その、うわーってなっちゃうから、駄目……」 「残念。じゃあ、抱きしめるだけ。ね?」  いいとも言わないうちに、アボットの長い腕に捕らわれ思い切り抱きしめられた清永は、息もできない程胸がつまり気を失ってしまいそうだった。  その上アボットはあの滑らかな声で、清永の耳元に囁きかける。 「僕が頑張るのは、ただひたすらに、僕の事情で、僕がそうしたいからそうするだけなんだけど。でも、ちょっと疲れちゃうんだろうなって今から結構不安だから。帰ってきたらキスしてハグして出迎えてくれる?」  そうしたら頑張れると甘い声を零すアボットに、清永が首を横に振れるわけがなかった。

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