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第6話

 隣人に恋をした、と告げた相手は電話口で二秒黙ってからおまえは馬鹿かと怒鳴った。 「……予想外。祝福されるかと思ったのに。サイモンは散々早く結婚しろって言ってたじゃないか」  いつも三センチは離しているスピーカーをさらに二センチ程離すが、それでも耳に響く声はうるさい。  夫婦二人きりのバカンス休暇から帰って来たサイモンは土産話もそこそこに、何か変わった事はないかと切り出した。そしてアボットは至極素直に報告した。なんとなく解せない気持ちでスケッチブックに赤い色を塗りながら、アボットは電話を近づけ持ち直し、サイモンの押し寄せるような言葉の波を理解する努力をする。 『それは相手が女の場合だこのいかれ林檎野郎。隣人ってやつは男だって話じゃなかったか? いいか林檎野郎よく聞け、野郎ってのは雄、つまり男ってことだ。要するにおまえは男だ。そして相手も男だ。同性で結婚できる国もあるにはあるはずだがそういう問題じゃないんだよ家庭をもてっつってんだ俺は。そら、同性でもパートナーとして末永く幸せになる選択肢はあるだろうよ。だが俺や会社やその他おまえの周りが納得しても一番納得させないとやばい奴はどう考えてもホモフォビアだろうが……』  彼の言い分に関しては同意する。  しかし今までは特定の女性に愛情を懐くこともなく、結婚などという面倒くさそうなことを考えたことはなかった。 『お前が人生の大半を使って巻き込まれている例の問題の着地点で、一番安直で楽で平和なものが『結婚』なんだよ。当たり障りない女と円満な家庭を築いてカントリー映画みたいな仲睦まじい姿を見せつければ、あの人も納得して諦めてくれるかもしれないんだ』 「僕とヨナだってもしかしたら恋愛小説もびっくりの壮大なラブロマンスの果てに、誰もが羨む最高のカップルになるかもしれないじゃないの」 『ヨナ? 隣人は日本人だろ?』 「日本人。あだ名がヨナ。かわいいよね、紅玉の名前の由来はヨナタンっていうんだよ。アメリカ生まれのアップルパイに最適な林檎だ。ヨナは一見クールでハンサムだけど、ちょっとおっちょこちょいで、失敗するとすぐに赤くなってまるで林檎みたいで――」 『落ち着け。落ち着けアボット。わかった、お互いの主張は後ですり合わせるとして、とりあえず現状確認させてくれ。お前のかわいいヨナタンは、お前にすっかりお熱なのか?』 「全然」 『…………くそ。怒鳴ることにもつかれたよ。よりにもよって、日本で男に片思いだなんて、あー……』  お願いだからストーカーにだけはなるなよ、と弱々しい声を出すサイモンは、本当に疲れてしまっているらしい。もしくは一旦考えることをやめたのかもしれない。口よりも真面目で仕事熱心なこの男とのつきあいはもう八年程になる。すっかりアボットのことを熟知しているサイモンは、これ以上なにを言っても疲れるだけだ、という線引きを心得ていた。  自分では自覚はないのだが、アボットは割合頑固な上、人の話を聞かないらしい。確かに、忠告やアドバイスをもらっても、大概は聞いてすらいない。生返事を繰り返す頭の中では、どうでもいいような別のことを考えている場合が多い。  注意力が散漫で、そのくせ集中するとなにも聞こえなくなる。付きあいにくい人間だろうなぁと人事のように思う。そんな自分に根気よくつきあってくれるのはサイモンくらいなもので、彼も半分は仕事の都合で連絡を取っているようなものだ。友人や恋人というものになんと縁のない生活なのだろう。  縁がないせいで、どうやって友人を作ったらいいのか、どうやって想い人にアプローチしたらいいのか、さっぱりわからない。  さすがにいきなりキスをするのはまずいだろうと思う。最初に無茶な理由で唇を奪ったのはアボットの方ではあったが、あれは恋に気が付く前だ。かわいい、愛おしい、キスをしたい、とアボットが大いにヨナを意識し始めたのはその夜の事で、酔っ払って寝てしまった彼の滑らかな肌を眺めながら、人生で初めて理性というものと戦った。  もう一度ヨナの唇に触れたい。しかし、どうすればその願いが叶うのかわからない。まさか挨拶がてらに濃厚なキスはできない。酔っぱらったクラブの中のアメリカ人なら許してくれるかもしれないが、ここは日本だ。謙遜と恥じらいと、そして正しい美しさの国だ。  自分の欲望や思いを押し付けていきなり行動に及ぶことは、美しくない。しかし美しい口説き方どころか、ふつうの人間がどうやってデートの約束をしているのかすら、アボットにはわからない。  とりあえずはもっと話したい、というのが目標だがそれもうまくいっているのか謎である。ヨナは毎日仕事が忙しいらしく、三日に一度はぐったりした顔で帰ってくる。疲れている彼に、自分の都合で話しかけるのはどうなのだろう。せっかく多少は話してくれるようになったのに、面倒くさいうざい外国人だと思われたらつらい。  結局アボットはヨナが比較的早めに帰宅したタイミングを狙って、夕飯の誘いをかけることくらいしかできなかった。 『……うそだろ』  比較的静かに現状の説明とアボットの苦悩を聞いていたサイモンが絶句する。やはり、自分のアプローチはおかしいのかと珍しく青ざめそうになったアボットだったが、次のサイモンの言葉を聞いて詰めていた息を吐いた。 『全うすぎて泣きそうだ。お前が? あのアップル・アボットが? 好きな人ができたから時折夕飯に招いて食卓を囲みながら親交を深めて告白するタイミングを狙っている? うそだろ、全うすぎて信じられない。俺はバカンスの帰りの飛行機で別の時空にきちまったのか?』 「ちょっと前の僕だったなら、別世界に行くなら親族がいない世界がいいなぁと思っただろうけど。今は、ヨナがいる世界じゃないと困るかな」 『ごく普通に恋する男になっちまって寒気がするよ……。その、なんだ、まあ、落ちちまったもんは仕方ないし、愛でも恋でもいいけどな、新しい企画書には目を通しておいてくれよ。あとは……あー、なんだったっけな。この前もらったポスターのデータの直しの件でなんかあった気がするけどお前がなんか沸いた話するからぶっ飛んじまった……まあ、思い出したら連絡する』 「思い出したらって、そっちはもう夜中の、えーと……一時くらいじゃないっけ?」 『二時だよ、ハロージャパニーズ、こっちはサマータイムだ。バカンス明けに後輩がどでかい外注ミスやらかして徹夜なんだよ。日本人じゃあるまいし徹夜で残業なんかくそくらえだけどこればっかりはどうしようもない。まあそんなわけで電話出……いや最近は出てるなお前』  ヨナに連絡先を渡してから、アボットは電話のベルに気を配るようになった。アボットの電話を鳴らすのはほとんどサイモンではあったが、五日に一度くらいはヨナから、スーパーマーケットにいるけれど何か必要なものはある? と電話がくる。  円について理解することを放棄し、クレジットのみで生活しているアボットの購買店は実はかなり限られている。という話をどのタイミングでしたのかは覚えていないが、時折振舞う夕飯のお礼だと言って、ヨナはよくお使いを頼まれてくれた。  国が違えば文化も違う。特に島国の日本は独自に発達してしまった不思議な習慣も多く、それはトイレから噴き出す水のようにアボットを困惑させた。いままでどこの国に行っても一人でどうにか生きてきたが、それは必要最低限死なない程度に食べて寝ることはできる、というだけで、快適な生活をしようと思えばやはり文化を勉強するか友人を作るしかない。 『女に恋して結婚しろとは思うけどアボットが若干人間に近づいた事に関しては隣人男に感謝してるよ。じゃあな、熱上げすぎてストーカーになるなよ。ああ、あとひとつ、悩める恋する林檎馬鹿に偉人の格言を授けよう』  恋に落ちるのは万有引力のせいではない。  アインシュタインの言葉だよと言ったカリフォルニアの同僚は、深夜でハイになっているのか、妙にテンションの高い挨拶を残して通話を切った。  べったりと赤いアクリル絵の具を塗りつけた林檎の絵を壁の隙間に貼り付け、暫く眺めてからさて、と時計を見上げた。  昨日も一昨日も、ヨナの帰りは遅く、声さえかけてない。変質的かと思いつつも壁に寄り添い気配を窺ったところ、シャワーもそこそこに寝てしまったようだった。相当仕事が立て込んでいるらしい。  ヨナが何時に帰宅するのかはわからないが、もしタイミングがあえば夕飯くらいは差し入れしたい。何も一緒に食べなくてもいい。疲れている人にかける言葉をアボットはあまり知らない。気を使わせてしまうくらいなら、夕飯を共にできなくても構わない。 「…………変わるもんだね」  サイモンが驚くのも頷けるし、正直自分でも不思議に思う。  自分はいつ、恋なんてものに落ちてしまったのだろう。何度も首を捻るが、明確なタイミングは思い当たらない。恐らくキスがきっかけではあっただろうが、本当にあの時のアボットにはやましい感情など一切なく、ただヨナの甘い煙草の味を知りたかっただけだ。  気が付けば落ちていた。ヨナが居るとつい目で追ってしまう。隣にいるとそわそわするし、何を喋ろうか考えているうちに何故か妙に不安になる。ヨナは楽しいだろうか。こんな変人の自分といて、つまらなくはないだろうか。  林檎は引力で地面に落ちる。けれど恋は万有引力のせいではない。では恋とは、何が原因で落ちるものなのだろうか。  ぼんやりとヨナの事を考えていたアボットの耳に、アパートの廊下を走る音が聞こえてきた。  ヨナが帰って来たのだろうか、と耳を澄ませていたアボットだったが、足音は隣室で止まらずにアボットの部屋の前まで一気に走って辿り着き、チャイムを連打されてびくりと飛びのいてしまう。ノックの合間にアボットの名前を呼ぶのは間違いなくヨナの声だ。  慌てて鍵を開けると、まるで外の空気から逃げるように部屋の中に滑り込んできたヨナは、早く閉めてとアボットを急かした。 「え、ヨナ、急に何……ああ、いや、とりあえずいいや。まず落ち着いて、息した方がいいね。真っ青だけど、どこから走って来たの」 「……っ、は…………ふ、……駅、から……」 「……歩けばまあ遠くはないけど全力疾走する距離じゃないよね」  玄関先でへたりこむヨナを立たせるのは酷に思えて、アボットは同じ視線になるようにしゃがみ込む。全身で息をするヨナは、急に運動したせいか、最初にアボットが介抱した日のような酷い顔色をしていた。  背中を軽く叩きながら、ヨナが落ち着くのを待った。そのうちにアボットはやっと、ガラス玉のような瞳が涙で濡れている事に気が付いた。  かける言葉に迷い、アボットは口を開いた後に何度か閉じ、そしてやっと、目の前で震える男に言葉を落とした。 「Is everything alright?(困ってる?)」  ヨナの呼吸が一瞬、止まったような気がした。その後に大きく息を吸って吐いた彼は、ゆっくりと頷いた。  キミが困っているならば、助けなくてはいけない。その理由は少しだけ邪で、大部分はお節介な親切だ。 「……気のせいかもしれないけど、例の『嫌な客』の人が、駅にいた気がして。なんか、もう無理って思ってそのまま走って振り切って、きた……筈、だけどもしかしたら追いかけてくるかも……しんない……」 「本当に遠慮のない嫌なお客さんだね。まあでも、キミの部屋は今無人だし、もしこちらに気づいても僕が扉を開けなければいい話だ」  怖い事は何もないよ、と額に張り付く髪の毛を払うアボットに対し、少しだけ息が落ち着いたらしいヨナはふと、笑うような息を零した。 「……あ。今の、ちょっと子供に言うみたいだったかな? ごめん、つい、ええと、キミが子供っぽいとかそういう意味ではなくて、なんていうか、大丈夫だよって言いたかっただけなんだけど」 「わかるよ。別に、怒ってない。ただ、あー、俺、そっか、怖かったんだって思って、なんか、大人で男だけどそんなん関係ないな怖いよあんなんって思って。……アボットに、怖くないよって言われて、今すごく、安心して涙出てきた、あー」  ダサい、とヨナは呟く。それは日本語で、アボットの知らない言葉であったが、たぶん情けないとかそういう意味のスラングなのだろうなと見当がつく。  ぽんぽんと背を叩く手は止めずに、アボットはタブチという名の憎い男の事はなるべく考えず、目の前のヨナの事だけ考えるように努めた。嫌な人間の事を考えると、どうしても、心が重くなる。 「どうしたら、キミの涙を止められるかな」  安心したらタガが外れてしまったのか、ヨナの涙はだらだらと止まらない。何度も擦るせいで真っ赤になってしまった瞳で見上げるヨナは、どうしてか驚いたように目を見開いた。 「え。僕はそんなに変な事言ったかな」 「いや、……なんか、アボットの言葉はいつも丁寧できれいだから、ちょっとどきっとする……」 「綺麗。綺麗? うーん、きれい、かな。僕はよくわからないけど、そういう風にヨナに言ってもらえるのはうれし……いや、いやいや、違う。僕が喜んでどうするんだ。僕が、ヨナの為にできることが知りたいんだ」  喜ぶこと、と呟いたヨナは、赤くなった目元をまた擦る。止まりかけの涙がじわりと滲んで、ヨナの手の甲を濡らしていく。 「じゃあ、キスして」  予想外の言葉だった。  人生で、こんなに顕著に心臓が縮む感覚を覚えたのは、初めてかもしれない。  手が震えていたらどうしよう。顔は赤くないだろうか。そんなことを考えつつ、アボットの手はヨナの細い顎に触れる。涙でぼろぼろの顔でも、ヨナはかわいい。かわいそうな程真っ赤なのは、たぶん、走って身体がおかしくなっているからだ。  ヨナが目を瞑る。それを合図に、アボットの唇が重なる寸前、隣室のドアチャイムが鳴った。  あの無機質な電子音は、思いのほか壁越しに響く。  びくり、と身体を揺らし怯えを見せるヨナの頬を両手で挟みこみ、アボットは息を感じるような至近距離で囁いた。潜めた声は少し掠れ、半分程空気が混じり、音にならずにアクセントだけが残る。 「…………怖い事は何もないよ」  チャイムがもう一度鳴る。彼の怯えが触れた手から伝わってくる。あまりにもかわいそうで仕方がないのに、ヨナが自分を頼って扉をノックしてくれたことが嬉しい。なんと最低な男なのだ、と思う。今の自分はちっとも正しくも美しくもない。動揺しているヨナを立たせて、背を撫でて、暖かい飲み物を振るまうべきなのに、ヨナの頬にかけた手を放すことができない。  息を飲むヨナが何かを言う前に、アボットはその震える唇を塞いだ。  ヨナの息は熱い。唇は少し冷たい。  不安も涙もすべて食べてしまえればいいのにと、思いながら、息を食べるようにキスをした。外の音などもう聞こえない。ヨナの体温と息しかわからない。 「…………っ、……ふぁ…………」  可愛くて辛くてかわいそうで、アボットまで涙が出そうだった。ぎゅっと袖をつかんでいた手がアボットの背に回り、抱きしめるように体が密着する。  どこまで深いキスをしたらこの人を食べてしまえるのだろう。  そう思うアボットが更にヨナの舌を求めようとした時、それを阻んだのは再度鳴るチャイムの音ではなく、アボットの机の上で震える携帯電話の音だった。  ぼんやりとした理性で、サイモンだろうかと考えるが、キスを止めることができない。そういえば先ほど、また後で連絡するような事を言っていたような気がする。電話に出ろ、とまた怒られてしまう。  何度目かのキスの後、それでも鳴り続ける音に耐えきれなくなったのはヨナの方で、仕方なくアボットは電話を取った。  そしてアボットは、世の中の理不尽は、わりと固まって押し寄せてくるということを知る事となった。

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