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第5話
「姫野さー、禁煙でも始めたの?」
データに保存をかけつつ帰り支度を始めた清永は、突然後ろからかかった声にびくりと肩を揺らしてしまった。
「……そんなびびんなよ、上司の雑談じゃん」
「いや……その、急に後ろに立たれてびっくりした、というか……」
「いや俺五分前からここで鈴木さんと喋ってたよ。お前今日まじで注意力散漫って感じだけど、なんかあったのか。煙草ドクターストップでもかかった?」
「え。いや、ええと、別にそういうわけでは……ない、ですけど。ちょっと、煙草吸いに行くタイミングなかっただけで」
「ふーん」
妙に目ざとい男で困る。確かに清永は今日、一回も喫煙室に行かなかった。大量の仕事をさばきながら、よく他人の喫煙ペースまで見ているな小姑かよ、とちらりと思いはしたが、今は八木沢に文句をつけるような余裕はなかった。なんなら一日中、仕事すらも若干上の空だった。
一日怒涛の仕事に追われ、やっと煙草の存在を忘れかけていたというのに、八木沢の不用意などうでもいい雑談で清永の努力は水の泡となってしまう。
慣れ親しんだ甘い匂いを思い出してしまい、なんとも言いがたい気持ちが腹の底から湧きあがり、内臓を圧迫しているような感覚になる。けれどこれは胃の痛みではない。もっともどかしく、とても久しぶりで、更に言うならあまり歓迎したくない感情だった。
自販機のカップ珈琲をぐるぐる揺らす八木沢はまだ何か言いたそうだったが、パソコンの電源が落ちた事を確認した清永は、それじゃあお疲れ様ですと言い捨てるように頭を下げて、フロアから飛び出した。
今朝から、全く散々だ。
何が悪いとか誰が悪いとか、そんな風に原因を見つけるのならば悪いのは自分だった。まず、隣人を部屋に招いた清永が悪い。お茶がないからと言って普段は飲まない酒を出したのも悪かったし、自分も飲んでしまったのがとにかくダメだった。
清永は笑ってしまうほど酒に弱い。吐いたりはしないものの、とにかく気分がよくなって、すぐに判断力が鈍る。いっそすぐ具合が悪くなって寝てしまうような酔い方の方がマシだ。それならば、酒を飲んだ翌日に後悔するようなこともきっと、少ないだろう。
隣人の林檎好きが、思っていた以上に病的だったことに思い至らなかったのも、清永の誤算というか、想像力不足だった。見た目が好きだとか、絵が好きだとか、その程度の愛好家だと思っていたが、彼はどうやら味や匂いまで網羅したい偏執的なコレクターのようだ。
キスを迫ったのはアボットだが、結局許してしまったのは清永だ。相手はアレをキスだと思っていないのはわかっているし、酔った過ちの内だと思っているので、ショックだとか嫌だとか怖いとか、そういう感情もない。
実のところ清永は、昨晩の記憶があやふやで、ふんわりとしか覚えていない。どこかのタイミングで寝落ちたらしく、気が付いたら朝だった。
ほんの十センチ先で横になるアボットに、おはようと言われた時に、思わず素直におはようと返してしまってから、若干残っていた記憶が一気に押し寄せて掛布団の中に潜り込んでしまった。
酔っていた。判断能力が底辺だった。完全に快感に流された。アボットの声は心地よく、悔しい事に彼のキスは我を忘れる程気持ちよかった。
キスをしたのはいつぶりだろう。今の会社に入社してからは、恋人を作っている暇などなかったし、大学時代はゲームばかりしていて、デートの記憶すらない。見た目はそれなりだという自覚はあるので、モテないこともないのだが、よくよく考えるとセックスやキスの経験は少ない方だ。
久しぶりのキスは、清永の理性を見事に溶かした。
腰を抱き、顎にかかった男の手を思い出すだけでも、赤面しそうになる。清永と同じくらいにはインドアそうなアボットは、やはり筋肉質ではなかったが、人種の差なのか元々の骨格のせいか、寄りかかっても縋ってもびくともせずにしっかりと清永を支えた。
抱きしめられたら気持ちよさそうだな、などと考えてしまい、電車の中で変な声が出そうになった。朝、どんな顔をしてどんな事を喋って出てきたのか、実は半分くらいは覚えていない。
ゴキブリのせいでまだ部屋に帰る勇気がないらしい彼に、自室の鍵を放り投げて逃げるように部屋を出た。昨日までの清永はアボットの事を『関わりたくない変人外国人』として認識していたが、今は別の意味で関わりたくなかった。
恋や愛や、果ては友情まで、他人に対する関心のようなものがすべからく欠如していそうなのに、キスが甘いだなんてずるくて困る。
昨日までとはまた違った意味合いのため息を漏らし、どうか今日はアボットに会いませんようにと祈った清永の願いは、改札を抜けたところで早々に打ち砕かれた。
「…………アボット?」
自宅に近い裏口改札を抜けた先のコインロッカー前に佇むのは、今日一日清永の頭の中を占拠していた外国人だった。
「やあ、おかえりヨナ」
いつもの何も考えていないような無表情で片手を上げる。どんな顔をして会ったらいいのか、と思ってはいたが、驚いたせいで赤面することさえ忘れたのは幸いだった。
改札を抜ける人々の合間をぬい、アボットに駆け寄った。仕事帰りの社会人と帰宅途中の学生の中で、見るからに普段着の外国人であるアボットはやたらと目立っている。
「え、どうしたのこんなとこで。買い出し? 薬局なら、信号の向こう側じゃない?」
「えーあー、うん。その、一度はそっちに行ったんだけど。商品がありすぎてどれがいいのか全くわからなかった。日本は便利だけど、ちょっとびっくりするくらいに便利すぎてモノが多いよね……申し訳ないけど、ほんのちょっとだけ僕に付きあって、アレを退治する武器を買う手伝いをしてもらえないかなぁ、と思って」
「別に、いいけど……あー、俺も夕飯買い忘れたし、ちょっと歩くけどでっかいショッピングモール行く?」
「どこにだって行くよ。キミが、虫なんかに怯えてるダメな僕に、素晴らしい武器を紹介してくれるなら、何時間だって歩ける」
肩をすくめたアボットは、おどけた雰囲気をすぐにひっこめ、なだらかな声で『ありがとう』と付け加えた。
「正直、申し訳ない気持ちでいっぱいだよ。ヨナはただ、僕の部屋の隣に住んでいるだけで、別に友人でもないのに、こんな風に些細な買い物までつき合わせてしまって、感謝の言葉をどれだけ並べ立てても足りない」
「いや、べつに、そんな迷惑だとは思ってないから……。迷惑だったら俺は自分の部屋には入れないし。最初に助けてもらったのは、俺だから」
どんな顔をして会ったらいいのか、と思ってはいたが、彼自体が迷惑というわけではない。
アパートとは別の方向を目指しながら、清永は隣に立つアボットをちらりと仰ぎ見た。隣立って歩くと特に歩幅の違いを実感して、多少腹が立たないこともない。
「キミは、本当に四角くて正しいね」
ぼそりと、あの平らで心地よい声で、アボットは呟く。
四角い、というのは『くそ真面目』という意味のスラングだと思い当たった清永は、揶揄されたのかと思い眉を寄せた。しかしアボットは細く長い指を揃えて、手のひらを顔の前にかざした。
「ああ、違う。ええと、悪口じゃない。本当に、いい意味で、四角いというか……四隅が、きちっとしている感じがする。キミだけじゃなくて、この国がね。息が詰まるという人もいなくはないけど、僕は、結構気に入っているんだ。この国の、四角くて正しい人たちは、なんていうか……そう、アメリカ人みたいに正しい事が気持ちいいとか正義が好きなんじゃなくて、正しいことが美しいと思っているんじゃないかな」
正しいことが美しい。
アボットの言葉をもう一度、口の中で呟いた清永は、隣を歩く異国の男を見上げた。
不思議な人だと思っていた。変人なのだろうと今でも思う。けれどアボットの言葉は妙な具合に柔らかく、ストレスまみれで何も考えたくない清永の頭にもスッと馴染む。
「清潔な国だよね。考え方も、生き方も清潔だ。悪いのがダメなんじゃなくて、汚いのがダメって感じがするから。まあ、千差万別ではあるんだろうけどさ。現に僕はアメリカ人だけどそれほどピザとコーラは好きじゃないし、キミは机の上の整理は苦手そうだし」
「……あれでもマシな方。会社のデスクはもっとひどくて上司にいつも小言食らう」
「え、アレより? ……ヨナ、ちょっと片付けのお勉強した方がいいんじゃない? だって机の上、取れたボタンとか絶対使わないような果物ナイフとか素のDVDとか色あせた領収書とかあとコショウの瓶もあった気が――」
「ストップアボット。いい。知ってる。俺の机の上が美しくないのは知ってる。改善したいと思ってる」
「ヨナはすごく美人なのに、片付けが苦手なところはキュートだよね。キュートだけどあの中から黒い例の虫がでてきたら怖いからやっぱりもうちょっとモノを少なくすると素敵な机上になると思う。ところでヨナが頭を悩ませている例の嫌なお客さんは、スーツに眼鏡で黒髪でさっぱりした感じの髪型の人?」
かわいいだの美人だの言われ何と反応していいか迷って慌てていた清永だったが、アボットが突然口にした話題に思わず足を止めそうになった。しかし隣を歩くアボットが小さな声で、歩いて、と耳打ちする。
「――何、急に」
「振り向かない方がいいかも。駅から、キミを追いかけている人がいるみたい。あれ、たぶんヨナに告白した人だよね? 僕はこっちに知り合いはいないし、心当たりもないし」
確かに先ほど挙げられた特徴は、田淵の外見と一致する。黒髪眼鏡の知り合いならば八木沢という可能性も考えられるが、内勤のシステム開発課は全員私服出勤で、先ほど社で別れた八木沢もよれたティーシャツを着ていた。スーツとティーシャツを見間違えるとは思わない。
内臓の奥が、ぞっと沈み込むように重くなる。血が引く、というのはこういう感覚なのだろう。どうでもいいような雑談でついリラックスし始めていた清永の肩が強ばり、頬は緊張で引きつった。
あからさまに緊張する清永とは対照的に、アボットはいつも通りにフラットに言葉を放つ。
「ヨナ、手を繋いでもいい?」
あまりにフラットすぎて、何を言われているのかよくわからなかった。まじまじと顔を三秒も見つめてから、どうにか渾身の力で『What?』と声を出せた事を褒めてほしい。
本当に、急に訳の分からない事を言い出すから困るし、その訳のわからない言葉に、熱が上がってしまうから尚困る。
「ヨナは、照れると赤くなるのがキュート――」
「ちょ、いや、説明。説明して、何で俺が、アボットと手を繋いで買い物にいかなきゃいけないのか、その説明を」
「うーん。ヨナが、困っているのかなと思ったから。だって後ろからついてくる人の事、ヨナはあんまり好きじゃないんでしょ? 恋人がいることにして、断ったって言ってたよね」
「俺昨日そんなことまで話したっけ……?」
「僕の記憶があやふやじゃなければの話だけど、多分正確だと思うよ。ヨナがあの人を迷惑だと思っていて、振り切りたいと思うなら、僕を恋人の代わりに見立てちゃえばいいんじゃないかなーと思っただけ」
「いいの? 巻き込んじゃうんじゃない?」
「別に。僕は、迷惑だとは思わないよ。キミにはたくさん助けてもらっているし、それに僕は、キミと手を繋ぐことが決して嫌じゃないから」
後ろからついてきている田淵への演出か、アボットは珍しくほのかに笑みをこぼした。
あまりに違和感なく笑う彼は、まるで既知の恋人のようにさらりとした動作で当たり前のように清永の手を握る。強すぎない思いやりに満ちた力で指を絡められ、一度引いた血が今度は沸騰しそうになった。
「ヨナはなんていうか、夏なのに、指先がちょっと冷たいね。血行が悪いのかな。デスクワークだよね。ゲーム会社の」
「……昨日の俺、どんだけアボットに個人情報垂れ流したんだよ……」
「悪用しないよ大丈夫。ちょっと僕の頭の中に蓄積されるだけ。なんたって地面の穴だからね、僕は。キミがお酒に弱い事も、キミが酔うと林檎みたいに赤くなって笑い始めてその後泣くことも、寝ている時はちょっと口が空いていることも、死ぬまで誰にも言わないと誓う」
「わかった。俺の秘密を完全に守るにはアボットを今すぐに殺すしかないってことがわかった」
「……わお。予想外の展開だ。僕はラブコメディを狙ったつもりだったんだけど、まさかのサスペンスホラーだね。ヨナはサイレントヒルとか好きだもんね」
「え、なんで知ってるの?」
「実は僕はテレキネスの持ち主で、キミの心の声はいつでも筒抜けなんだ、って方向に行けばSFかな? 昨日サイレントヒルシリーズは四作目がとにかく好きだって寝るまでずっと喋ってたよ」
「ごめ……え、ほんとごめん……俺何か他に迷惑かけてない……?」
「何度かキスをねだられたけどさすがにどう見てもべろべろに酔っている人の誘惑に乗るのはよくないかな、と思って我慢した」
「…………穴があったら入りたい」
「それ、恥ずかしい隠れたいって意味? かわいい表現だね」
アボットは割合よく喋る。慣れない英語を聞き取ろうとするため、彼が滔々と喋っている間は集中してしまい失念しがちだが、そういえばこの外国人の声はひどく心地よいことを思い出した。
低くもなく、高くもない。イントネーションのふり幅が少ない言葉の羅列は歌と言葉の中間のようで、旋律がない詩のようにも聞こえる。その声でキュートと言われる度に、喜んでいいのか怒ったらいいのか、よくわからなくなる。
抑揚がなく感情が読み取れないアボットの声は、揶揄っているのか真面目なのか、判断が付きにくい。
そして彼は、不思議なテンポで急に言葉を放り投げる。
「愛していたものを嫌いになるのは、とても、疲れることだよね」
何度か耳の中で反芻し、その言葉を翻訳した清永は涙をこらえた。
田淵の事を尊敬していた。友人として、先輩として慕っていた。苦手だと思うようになったのは清永の勝手だけれど、それでもやはり好きなままでいたかったと思う。
愛しているものを嫌いになるのは、とても疲れる。
その言葉をもう一度繰り返し、清永は涙を堪えた。つないだ手がひどく熱い気がする。自分の感情の高ぶりが、アボットの言葉のせいなのか、それとも羞恥のせいなのかわからない。
「ああ、それと、キス、いきなりしてごめんね」
信号で止まった際に、隣から聞こえた声で思わず変な声が出そうになった。アボットの向こうに見える主婦らしき女性が、怪訝な顔で視線を寄越していたがそんなものはこの際どうでもいい。
「キ、え、何……」
「あー。さすがに昨日の僕はひどかったな、って反省したんだよ、これでもね。すごく今さらだけど。気持ち悪かったら申し訳ないなって」
「……気持ち悪かったら、多分俺は酔っぱらっていても他人にキスをねだったりしないよ……」
「それって、僕とキスすることは悪くないって意味?」
こんな恥ずかしい問いかけに、真顔で言葉を返せる人間がいたらたぶん清永とは相入れない人間だ。なんとか蚊の鳴くような声で『YES』を告げると、暫くアボットに見つめられた気配がした。顔など見れるわけもないので、気配でしか判断がつかない。けれど彼がいつもどおりの、あの感情のわかりにくい顔でこちらを見ている事はなんとなくわかった。
「なんだ。じゃあ僕は、一生懸命我慢しなくてよかったのか。残念」
それは一体どういう意味か、などと野暮なことは流石に訊けず、ただ清永は熱くなる頬を隠すように顔をそむけることしかできなかった。
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