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第4話

 何もないよと言ったヨナの部屋には、思いのほか何でもあった。 「日本はほんとうに、些細な便利さで溢れているよね」  ぐるりと部屋の中を見渡したアボットは、フローリングの床に直に置かれた薄手のクッションの上に、指示されるまま腰を下ろした。 「トイレとかさ。すごいよね。僕はトイレで尻を洗おうなんて考えたこともなかったし、手をかざして水が流れるシステムが当たり前だなんてちょっとだけ、笑っちゃったくらい。びっくりするくらい清潔が好きな国だと思ってたし、まさか、こんなに綺麗なアパートに、ローチが出るなんてさ……あー。もう、ほんと、ちょっとサイズ感が小さめだったのがまだ救いだったあれがサンディエゴサイズだったら僕は五年ぶりに叫んでいるところだった」 「向こうだとやっぱでかいの?」 「三インチくらい」 「えーと、一インチが、二センチ? 三センチ? うっわ、こっわ。つか、さくっと逃げてきちゃったけど、どうやって退治すんの? えーと、薬局行けばたぶん燻煙式の殺虫剤も売ってるけど、アレってアパートで使うときは気を付けろみたいな事言われた気がするなー……あとは毒餌みたいなやつ仕掛けるとかだけど」 「とりあえず、明日対策を考えるよ。清潔で便利で安全な国の底力を僕は信じている」  まさかヨナに殺虫剤を買ってきてくれと頼むわけにはいかない。詳細は後でネット検索することにして、今は先ほどの黒い悪魔の事はなるべく考えない事にした。  ヨナの部屋は、アボットの部屋と全く同じ間取りだ。ほとんど家具などなく、壁は一面林檎の絵で埋められているアボットの部屋とは比べ物にならない程、彼の部屋は生活感に満ちている。案外掃除が苦手なタイプなのかもしれない、などと若干失礼な事を考えていたアボットだったが、ふと見覚えのある林檎の絵を見つけ、思わず口を開いてしまった。 「林檎の絵、気に入ってくれたの?」  もので溢れているキッチンのホワイトボードに貼ってあったのは、先日メモ代わりに使った林檎の絵だった。  そもそも絵を渡そうとしたわけではなく、連絡先を書く紙が必要だっただけなのだが、捨てずに絵の面を表にして貼ってあるということは、多少なりとも目障りな絵ではないということだろうか。  アボットは林檎が好きで、林檎の絵を描くことが好きで、できあがった絵を見てもらうことも好きだった。  何もないと言いつつも冷蔵庫の中をあらためているヨナは、気まずそうに声のトーンを少々落とす。 「あー……その、クレヨンの色合いが、なんかこう、すごいと思って……アボットが描いたんでしょ? 何かの挿し絵?」 「そう。アンデルセンの童話。あれは日本語でなんていう話なんだろう。元々はデンマーク語だからそれぞれの国にあわせてタイトルは変わってきちゃうんだろうけど。僕が知っているタイトルは、『What The Old Man Does Is Always Right』」 「えーと、『老人のすることはいつも正しい』……かな。どんな話なの?」 「たぶん、わりと地味な話なんだよ。そうだな、簡単にまとめると、老いた夫婦の買い物の話、かな。馬を一頭引き連れておじいさんは市場に出かけるんだよ。途中馬を牛に、牛を羊に、羊をガチョウにってどんどん交換して行って、最後は腐った林檎がたっぷり詰まったずた袋を持って家に帰るんだ」 「……それ、奥さんに怒られない?」 「そう思うよね。ところが奥さんはこうやって迎える。『あなたは本当に素晴らしい、今私はネギを分けてもらいにお隣に行ったら「ウチには腐った林檎の一つもない」と追い返されたの。ねえうちにはあなたのお陰で腐った林檎がたくさんあるわ。お隣さんより上等よ!』ってね。そして彼女はおじいさんにキスをするんだ。随分短くしちゃったけど、とにかくおじいさんは奥さんを慮ってどんどんモノを交換して、奥さんはそれに対していちいち素敵だわすばらしいわって感動する、なんだか不思議でかわいい話だよ」  僕の説明ではたぶん言葉不足だからあとで検索でもしてみて、とアボットは締めくくる。冷蔵庫を漁りながらアボットの話を聞いていたヨナは、缶ビールを二本取り出し、ローテーブルの上に置いた。 「探してみるよ。ちょっと気になる。アンデルセンってもっと可哀そうな話ばっかりだと思ってた。……ごめん、さっきお茶は全部飲んじゃったし、コーヒーも紅茶も見事に切れてた。もらいもので申し訳ないんだけど……ビールは嫌い?」 「僕はアルコールには割合強いしふつうに好きだよ。ありがとう、ローチの恐怖から救ってくれた上にこんな好待遇をされちゃ、キミの株がどんどん上がっていくばかりだ」 「いや、そんな、だって俺も介抱してもらったし」 「そういえば、そうだったね。キミは肌が白いタイプの人なのかな。まだちょっと、顔が青林檎のような気がしないでもないけど……体調は万全?」 「……まぁ、なんとか」  歯切れの悪い返事をしたヨナは、長い睫を伏せて曖昧に笑ったようだ。日本人はあまり表情が変わらずわかりにくい、と聞いていたが、そんなことはないとアボットは思った。万年人形のようだと言われるアボットよりも、ヨナの方がよっぽど表情豊かだ。  俯いた表情は感傷的で弱々しい。まるで悲恋映画の主人公のような儚さに、アボットは珍しく目を奪われた。 「キミが胃を痛めている原因は、この前の『嫌な客』かな?」  ヨナは缶のプルタブを開け、舐めるように少しビールを口に含む。唐突なアボットの言葉に対し、目を丸くした表情は、怯えた草食動物のようだ。 「いや、別に、僕は、キミのプライベートに口出しをするとか根掘り葉掘り質問するとか、そういう趣味はないんだけど。例えば僕は、キミにとって、たぶん友人でもないし、まだ知り合いと言った関係ですらないし、人種も違うし、たぶん歳も……ヨナ、いくつ?」 「え。二十四」 「それじゃそんなに変わらないな……僕はたぶん、今年で二十七歳だ。たぶん。計算が間違ってなければ。まあ歳は近くても、僕とキミはかなりの部分で別のカテゴリーの人間で、ただ部屋が隣でたまたま名前を知ったくらいの関係でしょ? だから、なんていうか、友達とか家族とか同僚とか、とにかく親しい人には言わないようなことだって、もしかしたら口にできるかもしれない、って考えるのはどう?」 「……信用できない他人だから無責任に愚痴っちゃえよ、ってこと?」 「そう。自慢じゃないけど僕は友達がいないからね。キミが何を話そうと、僕はそれを誰かに横流しする宛もないし、キミの弱味を握ったからと言って、キミから巻き上げたいものもない。こう見えて割と稼いでいるし、僕の興味は大概例の赤い果実以外には向かないからね。ヨナが王様の耳の秘密を零しても、僕は地中に掘った穴のようにただそれを聞くだけだよ」 「ロバの耳を持ってる知り合いは、流石にいないけど。……あー、でも、なんかこう、わりと情けないっていうか女々しいっていうか俺が格好悪いだけの愚痴なんだけど」  ヨナは観念したらしく、至極言いにくそうに言葉を選ぶ。遠慮なくビールを頂く事にしたアボットは、少し苦い馴染みのない味の液体を飲みつつ、ぼんやりと彼の全てを観察していた。 「簡単に言うと、『会社の先輩に告白されて断ったのに付きまとわれて毎日会いに来るし家までついて来ようとするしもういい加減面倒くさい』みたいな……いやちょっと待って、これ流石に俺が屑っぽくない?」 「え、そう? 僕はそれ、割と嫌だなって、思ったけど」 「あ、嫌、っていう気持ちはおかしくは、ない?」  不安そうにアボットの方を窺うヨナに、自分でも驚く程きっぱり『ない』と答える。 「だって嫌だよ。貴方とは恋人にはなれませんって言ってるのに、家まで来ちゃう人でしょう? 嫌というか、迷惑だなぁって、たぶん思う。その人の原動力が好意でも、愛情でも、友情でも、どんな前向きな感情だとしても、毎日呼んでもないのに会いに来るのは、きっと僕ならうんざりするだろうね」 「ほんと? 俺冷たくない? 人として屑じゃない? だってさぁ、最初に、仲良くしてくださいって言ったのは俺の方なのに、いざ好きです付きあってくださいって言われたら、嫌です、だなんてさ」 「だって、それはもう、仕方ないことだよ。友情と恋情は別のものでしょう? キミの感情が傾かないのは、誰のせいでもない」  求めていない好意は、ほんの少し面倒くさい。好いてもらえるのはありがたいが、必要以上に押し付けられると少々うんざりしてしまう。  面倒だと思う事が悪いかどうかの判断はつかないが、まあ、そう考えても不思議ではない、という旨をあまり雄弁ではない言葉で淡々と訴えるうち、ヨナの顔色も少しずつ明るくなっていく。と思ったが、恐らくヨナの血色がよくなってきたのはアボットの言葉のせいではなく、単にビールに酔っているのだと気が付いた。  よく見れば、頬がふんわりと赤く色づき、瞳も少々潤んでいるように思える。ヨナはかなり酒に弱いようだ。  まあ、酔って楽しくストレスが解消できるならそれに越したことはない。酔えないビールを流し込み、アボットはふと疑問に思った事を、いつもの通り特に何も考えずに口にした。 「相手の人は、男の人?」 「え。なんでそう思うの?」 「なんとなく。この前僕が聞いた靴音はパンプスじゃなかったし、軽いスニーカーでもなかったから。あとは、そうだなぁ。キミはすごく甘い匂いがするから、変な虫が寄ってきそうなイメージなのかも」 「なにそれ詩的……あまいにおいって何……っあ、煙草だ!」 「煙草?」  零れそうな勢いでビールの缶を置いたヨナは、四つん這いで床の上を移動すると、鞄の中から小さな箱を取り出した。手のひらに収まるサイズの黄緑色の紙箱は、どうやら煙草のケースらしい。 「そういや俺今日も甘いだのなんだの文句言われたなって思い出した。たぶん、甘い匂いってこれだ」 「キミが吸ってる煙草?」 「そう。アーク・ロイヤル・アップルミント。俺、吸い慣れちゃってるから気にしたことなかったけど、多分ちょっと甘い感じの香りがするはず」 「アップルミント……へぇ。林檎のフレーバーの煙草なんだね。そんなものもあるのか……すごい、面白い」 「吸ってみる?」 「あー……いや、僕煙草吸ったことないからなぁ……ちょっと、勇気がいるよね。でも味は気になる。林檎の味する?」  ヨナの細い指が、ケースから取り出した煙草を挟み口元に運ぶ。ライターから火を移された先端がじり、とオレンジに萌え、確かに覚えのある甘い匂いが漂った。 「林檎の味、かなーこれ。どうだろう。吸えないなら食ってみなよってわけにいかないからな、こればっかりは――」 「味見したい」 「…………え、ちょ、」 「味見したい。駄目?」 「いや、あの、アボット、ちょっと、その、駄目、なわけじゃないけど、待っ、待て待てあんたちょっと、何する気――落ち着けってちょっとオイ林檎野郎待て、酒が零れる……っ」 「僕の方はもう全部飲んだし、ヨナのお酒はテーブルの上だから零れないよ。僕はね、多分、本当に本格的に頭が変で、自分でも訳がわからないくらい林檎っていうキーワードが好きなんだ。大概のものは、なんとなく把握しているんだけど。煙草は初めて見た。すごく味が知りたい。でも僕は煙草が吸えない。だからヨナ、ちょっと口開けて、ね?」 「いやいやいやいや、おかしい、この体勢もその理論もなんかおかし……アボット、酔ってんの?」 「酔ってないよ。あーでも、ほんと甘い匂いの煙だね。ふわふわしてて、でもアロマとか香よりは、やわらかめで、不思議だな。……酔ってないけど、酔った事にしたらヨナの口の中を舐めさせてもらえるなら僕を酔っ払いにしてもらってもいい」 「いや何言ってるか全然わかんないから落ち着けほんと……口の中舐めるとかそれつまりキスじゃんか……」 「ああ。まあ、そうだね。キスかな。あーキスだとちょっと、うーん、ヨナは困っちゃうのかな。えーでも、味知りたいなぁ。だめかな。ほら、犬とかに、鼻とか口とか舐められる感じあるでしょ。あんなもんだと思ってもらって……愛とか恋とかそういう、重くて面倒なものは、一切ないから」  酷い言い草だ、と自分でも思う。実際アボットは少々酔っていたのかもしれない。  普段、ビール程度では微塵も酔わないが、そういえば日本は甘くない飲料水の種類が豊富で、あえて酒を飲む機会はなかった。久しぶりのビールに酔ったに違いないと思う程、この時のアボットは積極的にヨナに迫った。  ずりずりと後退るヨナを追い詰めるように、アボットはローテーブルを避けて迫る。彼が右手に挟んでいた煙草は危ないので、テーブル上の灰皿らしきものの中にひとまず突っ込んだ。  ふわりと甘い匂いがする。見上げてくるヨナはひどく赤い顔をしていて、熱い頬を両手で挟み込むと、ぎゅっと目を瞑った。 「…………っ、ふ……」  唇が触れる。爽やかな甘い匂いの後に、アボットの舌は、苦いような不思議な甘さを感じた。これが煙草独特の味なのか、それとも直前までヨナが飲んでいたビールの味なのか、わからないが。確かにふんわりとアップルフレーバー特有の味がする。  当たり前だが本物の林檎の味ではなく、それっぽく似せたような匂いと味だった。ひとしきり煙草の味を堪能したアボットは、一度は身体を退こうとした。しかし、離しかけた舌はもう一度、ヨナの熱く濡れた舌に絡んでいた。 「……っ、は……ん、……ちょ、……、アボット、……」 「うん?」 「………………もうちょっと、ゆっくりが、いい」 「……うん」  真っ赤になった顔で、素直に口を開けて絡まる舌に熱い息を吐き、アボットの服を掴んで縋るこの青年は、恐らく酒に酔っている。自分も彼も、アルコールが回っているに違いない。それにこれはキスではなく、ただの味見なのだから、やましいことも面倒なことも何もない。  大丈夫、僕は虫ではない。  彼の甘い匂いに引き寄せられた害虫ではない。  アボットはささやかな理性で、どうにか彼の名前を甘く呼ぶことを我慢した。

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