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第1話

 満たされてから死のうと思った。  生憎酒は手に入らなかった。世の中の自殺者がどのような手順で死ぬのか、そんなことすら知らない。それでも酔っていれば、苦痛は少ないような気がした。  酒と麻薬は慣れ親しんだ友人のようなものだ。彼らは理性を眠らせ、本能を揺さぶり起こす。そのついでのように、痛覚や感情も麻痺させた。  李雨沢は、まだ若い青年だった。李には年齢を指折り数えてくれる家族などいなかったので、正確な歳はわからない。おそらく二十二歳か三歳か、そのあたりだろう。  その短くも無知な人生の中で、酒と麻薬の優秀さはすっかり身体に染みついた。  身体は当たり前のように冷え切っていた。心など、いつから死んでいたのかもわからない。本来ならまだ蒸し暑い季節である筈なのに、この国の秋はあまりにも冷たい。  雪が降る手前のような底冷えする寒さの中、安物のジャケットすら持っていないのだから、凍え死んでもおかしくない。それなのに、結局寒さは死を招いてはくれなかった。  目が覚めることなく死にますように、と祈りながら眠りにつく事に嫌気がさしたのだ。  死のうと思う事は簡単で、いざ死ぬ事も簡単だ。一瞬の苦痛に耐えるだけで、これから待ち受けているすべての絶望から解放される。その為にはできれば、酒か麻薬が欲しかった。感情を麻痺させる友人を手にすることができれば、寒さに凍えたままでも容易に命を断てそうだった。  食料品店に押し入り、二週間ぶりに腹を満たしてから手首を切ろうか。それとも、酒場でたらふく酒を飲んでからトイレで首を吊ろうか。どちらも思案した先から却下した。  ここは寒い異国の地だ。見知らぬアジア人がうろうろしていては、目当ての商品にたどり着く前に通報されて追い出されてしまいそうだった。  結局、身売りの文言を手に持ち、冷たい街角に立つことを選んだ。  誰かに抱きしめられてから、死のう。そう思った。  愛を囁いてほしい、とは言わない。勿論できることならば、甘い言葉を耳に吹き込まれたい。貴方はとても綺麗ねと讃えてくれた人々の声が耳の奥に蘇る度に、枯れた涙を思い出しそうになる。そして過去は遠いものだという事を思い知り、せめて誰かの体温だけでもと縋るような気持ちでプラカードを抱え直した。  ゴミ捨て場から拾ってきたプラスチックの板に、錆の浮いた鉄で書いた文字は英語だ。『寂しい私を買ってください』という言葉を、翻訳することができなかった。  英語と広東語しか話せない李には、この寒い土地の住人が口にする、吐き捨てるような響きの言葉が、ほとんどわからない。  英語が通じる人間がいない訳ではない。しかし英語を学ぶ若い人々は、くたびれた李の服装を見て眉を顰め、言葉が聞こえる程近くには寄ってきてくれない。  親切な老人が差し出す親切な申し出は、全て異国の言葉だった。  誰も知らない場所に行こうと、彼女は言った。  誰も知らない場所に行こうと、李は応えた。  その願いは確かに、現実のものとなった。この寒い土地には誰一人として、李と彼女の事を知る人間はいない。  明るい筈だった未来が寒く冷たい絶望に染まった原因は、何だろう。何が悪かったのか、と考え始める度に、答えの出ない疑問だと思い直し思考を止めた。考えた所で、人間の感情などわからないという事に気が付いた。  所詮自分は人形だったのだ。人形は、ご主人様に放り出された。初めて自分で選んだ主に、捨てられた。一人で生きていくことを知らない人形は、たとえここが北極の異国でなくとも、どうせ野垂れ死ぬ運命に違いない。  風が吹いた。思わず肩をすくめ、白い息を長く吐く。  寒くて、もう皮膚に感覚がない。耳が痛くて、常に耳鳴りがしているような気がする。時折記憶が飛ぶようになった。早く命を消したい。一刻も早く死にたい。満たされて終わりたい。  そんなことを考えていたせいか、それとも注意力が全く無くなっていたせいか。李がその男に気が付いた時、彼は驚く程近くに立っていた。  背の高い白人の男だった。  これほどの長身は、アジア人ではめったに見かけない。薄暗い夜に紛れる瞳は、深いグレーに見えた。暗い色の上着の中に、黒いシャツが見える。足元の靴まで真っ黒だ。  黒く背の高い白人男性は、低い声で何かを言ったが、それはやはり李の知らない言葉だった。  寒い空気に、白い息が舞った。彼の息は酒臭く、人間の匂いがした。  男は李の抱えたプレートを指さし、一言ずつゆっくりと言葉を並べる。しかし、どんなにゆっくりと話してもらっても、李にはやはり理解できない。 「英語で、お願い」  李のしばらく使っていなかった声帯は、まだ声を忘れていなかった。  Englishとpleaseくらいは、ほとんどの人が理解してくれる。震える声を聞いた男は、しばらく思案した後に酒臭い息をゆっくりと吐いた。 「…………金?」  拙い発音だが、確かに彼は『money』と言った。恐らく、いくらか? という質問なのだろう。素直に首を横に振ろうとした李は、すぐに思い直し、指を二本立てた。  自分の看板に対して男性が立ち止まる事を考えていなかったが、身体を満たしてくれるのならば、性別などどうでもいい。そうかこの国でも、男が男を買う事もあるのか、と思った程度だ。  金は要らないから閨を共にしてほしい、などと言うアジア人は、とんでもなく怪しいのではないかと思ったので、指を立てた。  正直通貨の単位など知らないが、適当に勘違いしてくれた値段でいい。金を稼ぎたいわけではない。自らを売るその代金は恐らく、何にも姿を変えることはなく、李の数少ない所持金として遺体と共に回収される筈なのだから。  案の定勝手に思案を始めた男は、しばらく後に決意したかのように、李の手を取った。  彼の手は暖かく、冷え切った李には熱い程だった。  しばらく無言で歩き、たどり着いた家は、他の家と同様にやけにカラフルで、縦長い。一階は四枚の硝子扉がしっかりと閉まり、二階に上がる階段が外付けされていた。  考える事が面倒で、李はひたすらにおとなしく、彼の後をついていった。  言葉が通じれば何か会話をしたのかもしれない。しかし生憎この男には李の英語は通じず、そして李には彼の言葉が通じない。  ボディーランゲージを用いてまで話したい事は一つもない。言葉などいらない。愛などいらない。そんなものは見たくない。必要なのは誰かの体温だけだ。  階段を上がってドアを開けた男が靴を脱いだので、李も同じように靴を脱いだ。  部屋の中は冷えていた。しん、と静まった闇が、ガラス窓から侵入してくるようだった。それでも、外よりはマシだ。  スイッチ一つで灯った室内照明はオレンジ色で、見ているだけでも暖かそうに思えた。  手を引かれた李は、シャワールームに案内された。鏡のない簡素なガラス張りのシャワールームでは、自分がどんなみすぼらしい恰好をしているのかはわからなくても、臭いと汚れくらいはわかる。  すっかり傷んで絡んでしまった髪にお湯をぶちまけ、少々適当に身体を清める。ゆっくりと泡を堪能している間に、彼が心変わりをしてしまったら困ると思ったからだ。  シャワールームから出て、用意されていた清潔なタオルで身体を拭いた。垢が取れたかはわからない。けれど臭いはマシになっただろうと思う。汚れた服に袖を通し直す気にはなれなかったので、そのまま全裸で男を探した。  部屋はすっかり温まっていた。裸で動いても、寒さはあまり感じない。ずっと南にある故郷の冬の方が、よっぽど寒いと思える。  男はジャケットを脱いでソファーの上で項垂れていた。何かに酷く悲しんでいるか、それとも疲れているような様子だった。例え言葉が通じても、『何かあったの?』と声をかけるような関係ではないので、李はただ黙って彼が顔を上げる時を待った。  男はやはり黒いシャツに黒いパンツで、まるで葬式帰りのようだ、と思う。誰か親しい人間が亡くなったのかもしれない。そうだとしたら、大切なものを無くした人間同士、体温を求めあうのは自然なことのように感じた。  李の場合は、誰かを亡くしたわけではない。ただ無くしただけだ。  今彼女は何処にいるのか、生きているのかもわからない。もし死んでいたとしても、それはただのアジア人女性の死体でしかない。  李の中の彼女はあの日別れた時に無くなった。李の中から、すっかり消えて無くなってしまった。そして自分は、何に体温を求めたらいいのか、わらかなくなった。  寒い国で、涙は凍ってしまったのかもしれない。  温めれば少しくらいは泣けるかもしれない。泣いて、そうして死のう。何度かわからない決意をして、李は男を待った。  顔を上げた彼は、全裸の李を見ても咎める様子もなく、感情の読み取れない顔でしばらく茫然としていた。そして彼は立ち上がると、李の腕を取り壁際まで追いつめた。荒いキスをした。壁に押し付けられるように腰を撫でられ、膝で足の間を撫で上げられる。  それはすべて李が求めていたものだ。  暖かくて熱い彼の愛撫と体温は、李を期待していた以上に満たした。荒々しく求められ、はしたなく声を上げた。男は決してセックスに関して堪能ではなかったが、ひたすらに熱を貪り合うような行為は十分に李を満足させた。一時間も過ぎた頃には、自分の放つ言葉が、広東語なのか英語なのかもわからなくなっていた。  壁に押し付けられるように一度身体を開かれ、ほとんど気絶した状態だった李は抱えられながら階段を登り、三階のベッドの上で更に気絶するほどの快感を貪った。  男は精力的で荒々しく、けれど乱暴ではなかった。腕は逞しく身体は熱く、求めているものを全て与えてくれた。言葉のないセックスは、確かに凍え切った李を満たした。  これで死ねると思ったら枯れた涙があふれ出た。  彼の熱から解放され、死んだように眠り、目が覚めたのは早朝だった筈だ。夜の長いこの国の朝は暗く、窓から差し込む月明かりが薄く室内を照らし出していた。  しばらく声もなく泣いた李は、暖かいベッドから抜け出した。  二階まで静かに降り、昨日脱いだままの汚れた洋服を身に着けた。見つかった死体が全裸では、自分を満たしてくれた男に迷惑がかかるかもしれない。冷たい池にでも飛び込むつもりでいたが、せっかく温まった身体を再度冷やす気にはなれず、三階に戻ると窓を開いた。  死ねる高さだろうか。もしかしたら死ねないかもしれない。飛び降りて死ねなければ、今度こそ冷たい水に飛び込んだらいい。  書き残すことも言い残すことも何もない。幸せでも、不幸せでもない人生だった。虐げられたが、愛されなかった訳ではない。ただ、寒すぎてここでは生きていけないと判断しただけだ。感情なんてものは、いつも李の一番遠いところにある。  世界にも自分の人生にも言い残す事はないが、昨日抱いてくれた男には感謝している。彼に何か、せめて申し訳ないと書き残すべきかもしれない。自分が自殺だという証拠を残すことは大切だ、と今さらながらに気が付く。  遺書が必要だった。彼が英語を理解しなくても、警察の人間は英語を知っているだろう。ペンと紙を探さなくては、と思い窓辺から振り返り、李は思わず息を飲んだ。  寝ていたはずの男が、李から数歩の位置に立っていた。 「Det er farlig」  相変わらず、低く聞き取りにくい声だった。そして、李には理解できない言葉だった。  何をしているのかとか、そこは危ないとか、きっとそのような意味なのだと思う。彼の顔が酷く真剣だったので、寝起きの愛の言葉やジョークではないことは確かだった。そもそも、軽口を叩きあうような気安い関係ではない。  遺書を紙に書きつけている暇はなかった。今すぐ飛び降りなくては、命を断てない。  彼の手に捕まればおそらく、ベッドに戻されてしまうだろう。その後に冷たい水の中に飛び込む勇気が湧くとは、到底思えない。あのベッドは暖かすぎるし、彼の手は熱すぎた。 「ごめんなさい。迷惑をかけてしまう」  彼がまた何かを言ったが、李はどうせ聞き取れないのだからと無視をした。  男が一歩踏み出す。李は背中の開いた窓の外を意識し、上体を透明な壁に預けるように後ろに倒した。  最後の言葉など考えていなかったので、何も言葉はでなかった。申し訳ないと思ったのは本当だったので口にした。  頭から、落下する。  不安の中に落ちるような感覚の中、李が次に感じたのは、自分の足首を掴む男の熱い手の感触だった。

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