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第2話

「打撲と捻挫だな」  スヴェンの言葉は端的で、そしていつもヨーゼフを的確に救ってくれた。  苛々と自分の肘を叩いていた中指のリズムを止める。頭痛と吐き気がマシになったのは、朝一番に駆けつけてくれた親友のお陰だ。  彼への感謝を口にしたヨーゼフは、大きく息を吐いた。 「……良かった。このまま死んでしまったらどうしようかと、本気で思っていた」 「俺は専門家じゃないし、ここには最新のレントゲン設備はないし、脳みそ輪切り機械もないから、正確に絶対に、という保証はできないぞ。足と腕の骨はたぶん大丈夫だとは思うが、筋が痛んでいるかもしれないなぁ。しかしどうして、こんなところから落ちたんだ」 「僕に聞くな。目が覚めた時にはもう彼は窓辺に居た。向かいのオルセンさんの犬の鳴き声に驚いたのかもしれない。あそこの息子は最近ずっと朝帰りだから、犬が吠える」 「頭から落ちたわけじゃないんだろう?」 「足を掴んで、それから、どうにか膝まで引き上げて手を掴んだところで落としてしまった。たぶん、足と腰あたりから落ちている筈だ」 「それならまあ、うーん……様子見でも問題はないか……。彼の容態がもし急変して大病院に緊急搬送されることになっても、『トロムソの産婦人科医が太鼓判を押した』なんて言わないでくれよ」  忠告はしたぞ、と自らの口髭を撫でる彼は、今も昔も一貫してヨーゼフに甘い。  愛猫が死んでやけ酒をして泥酔してアジア人を買った、と素直に告白したヨーゼフに対し、親友は三回ほど首を横に振っただけで、咎める言葉は何一つ零さなかった。  言っても無駄だ、と呆れられている可能性もある。ヨーゼフは自分が思っているよりも面倒で、そして人の話を聞かない人間らしい。  スヴェンとの付き合いは十代の中盤からで、友人関係は二十年経った今も比較的良好に続き、今やお互いに認める親友となった。その親友すらお前は少々面倒な人間だと苦笑いをする。  自分の性格を見つめ直そうとは一切思っていなかったが、流石に昨日の夜の愚行は反省せざるを得ない。 「しかしどこで拾ったんだ、アジア人なんて」  呆れた声を隠そうともせず、スヴェンは愛用の黒縁メガネを押し上げる。その視線の先には、ヨーゼフのベッドがあった。  窓から落ちた青年は、朝方は何かしら英語で訴えていたようだったが、しばらくすると大人しくなり、今はベッドの上で眠っていた。スヴェンがいつもより小声なのは、彼を気遣ってのことだろう。  ヨーゼフは何度目かわからないため息を吐く。 「ウルハーレンの……あー、裏だったか、向かいだったか。とにかくあのあたりに立っていた。彼は酷い服装で、その上酷く震えていて、貧相で笑えないような手作りのプラカードを抱きしめていた」 「彼はノルウェー語が操れるの?」  ヨーゼフが英語を得意としない事を知っている親友は、片眉を上げて尋ねる。  男性にしては背が低く肥満気味なスヴェンと対峙するとき、ヨーゼフは首が痛くなる程下を向かなくてはならない。二人並ぶとコメディアンのようだと笑われる事もある。しかし誰が笑おうが、ヨーゼフはスヴェンが自分を思い切り見上げる様が好きだし、彼を見下ろす事が好きだった。  思い切り下を向いたヨーゼフは、先ほどのスヴェンの問いかけに対して首を振る。勿論縦ではなく、否を表す横方向に、だ。 「言葉が通じていたら、こんなに頭が痛い思いはしていない」 「だろうな。ヨーゼフ・ハルヴォルセンがノルウェー語以外に明るいなんて話は、生まれてこの方聞いたこともない。しかしアジアも広いからなぁ。パッと見東アジアっぽいと思うが。中国、韓国、うーんモンゴル人じゃないだろうな。ひょっとすると、日本人かもしれない。彼は何語を?」 「僕の大嫌いな英語だ。抱えた看板の文字も英語」 「酒で酔っぱらったキミは、英語で値段交渉ができるスーパーガイに生まれ変わったわけか?」  皮肉が籠ったスヴェンの苦笑に、ヨーゼフは思い切り顔を顰めた。 「誰でもよかったんだ。悪かったと思っているし反省しているし、もう二度と同じ過ちは起こさないと誓う。二日酔いで頭が痛いし胃がもやもやするっていうのに、横になるベッドは怪我をした異国の人に譲らなきゃならない。まったく最低な朝だ」  彼を病院に担ぎ込む勇気はなかった。どう見ても正規の旅行者には見えなかったし、ノルウェー人にも見えなかった。  路上で身体を売っているような異国人が、治療費を持っている訳がないし、何よりヨーゼフとの関係性を説明できない。まさか友人に対する説明と同じように、道端に立っていた彼を買ったと言えるわけがない。  彼が頭から地面に叩きつけられ、その命を終えていたとしたら、ヨーゼフは今頃警察に取り囲まれているか、庭に穴を掘っているか、そのどちらかだったと思う。  ヨーゼフは、三階の窓から滑らかに落ちた青年の手を掴む事はできなかった。  しかし伸ばした手は彼の足首を掴んだ。とっさのことで、何が起こったかなど理解できていなかった。  もしヨーゼフの睡眠がもう少し深ければ、もしヨーゼフがスヴェンのように背が低くお世辞にも鍛えているとは言い難い身体だったなら、彼を掴むことはできなかっただろう。いざ足を捉えても、そのまま一緒に落下していたかもしれない。  足を掴んだは良いが、うまく持ち上げる事が出来なかった。結局青年は三階の部屋に戻る前に、地面に打ち付けられる結果になった。ただ、勢いを付けて頭から落ちたわけではない。  大した高さの家でもない。高層ビルや鉄塔ならまだしも、所詮民家の窓だ。あのまま頭から落ちていたとしても、器用に首の骨を折らなければ命に問題はなかったのではないか、と思う。それでも、ヨーゼフはあの時手を伸ばした事だけは悔いていない。  昨日の自分は最悪だった。悲しむことしかできず、それを受け止める心の深さが無かった。溢れた悲しみの行き場を酒に求めた。普段ほとんど飲まないアルコールは常ならば陽気を運んでくる筈なのに、昨晩はただ悲しみを深めるばかりだった。  涙が枯れた後に身体が求めたのは水ではなく、体温だ。満たされたい、という思いばかりが先走り、気が付けば誰かもわからない人間の手を引いていた。  ヨーゼフに特定のパートナーが存在するのなら、何の問題もなかった話だ。恋人の部屋をノックし、慰めを求めればいい。  しかし残念な事に、ヨーゼフに恋人はいなかった。愛などいらない、恋などまっぴらだ、と公言しているヨーゼフには、恋愛関係を仄めかすような人間など一人もいない。  両親もすでに他界しているヨーゼフにとって、一番身近な存在が愛猫のレグンだった。その次が、今目の前でこめかみを押さえているスヴェンと、その妻のアニータだろう。自宅の一階フロアで日用品店を営むヨーゼフに顔見知りは多いが、友人となると、数える程もいない。  三十五年の人生で、ベッドの供を探して徘徊したことなどない。。ヨーゼフがストレートならばまだ、探しようがあるのかもしれないが、生憎と彼はゲイだった。  冷たい闇の中に立つ青年を、どうやって見つけたのか。正直なところ、昨晩の記憶は大概があやふやで、まるで不出来な幻想映画のように断片的なイメージしか残っていない。  思い出そうとすると頭痛と吐き気を感じてしまう。その上、手繰り寄せる記憶は順序などお構いなしに、青年の裸体までもフラッシュバックさせる。  どうやって彼を口説いたのか思い出せないのに、彼の細い腰やしなやかな筋肉は鮮明に蘇る。思わず頭を振ってしまいそうになり、ぐらりと揺れる視界にまた吐き気を覚えた。 「……大丈夫か? 今日のDEILIGE KJEKSは臨時休業だな」  ひょうきんな仕草で肩を竦める親友に対し、ヨーゼフは顰めた顔のまま手を振った。 「僕の店は午後から開ける。どうせ座っているだけだ」 「キミは本当に、なんというか……クソ真面目なのにどうして、生きる事には不真面目なんだろうな」 「褒めてる?」 「大いに褒めて呆れているよ相棒。もっと自分を大切にしてくれ。昨日は悲しい日だった。レグンは最高の友達だった。なぁ、いっそハウスシェアの広告を出したらどうだ。うちだって、上の階には漁師を引退したじいさんとその御夫人が住んでいる。案外悪くないもんだ」 「勘弁してくれ。他人と住むなんて、考えただけでうんざりする……僕の母親が残した唯一の愛情がこの家と店だ。癇癪持ちの子どものように、自分の家を独り占めしたいってわけじゃない。せめてこの場所では好きなように生きたい」 「ああ、まあ、そりゃ……そうだな。まあ、生きていればそれだけでもマシだな」  諦めたように、スヴェンは息を吐いた。  また呆れられたのかもしれないが、その長く静かな息の中には、ほのかな苦笑が混じっていた。彼はやはり、ヨーゼフに甘い。  眠ったままの青年の診察を終え、簡単なテーピングを施した産婦人科医は、必要な事を全て終えるとコートを羽織った。 「俺はそろそろ行くよ。何かあったらまあ、電話してくれ。アニータは今日パートの仕事がないから家にいる筈だし、そっちに連絡してくれてもいい。何もない事を祈るよ」 「助かった。ありがとう、スヴェン」 「いいんだよ、ジョゼ。友達だ。ああ、それと、若干臭うのが気になるな。キミじゃないならあのアジアの客人だ」 「……昨日、シャワールームに突っ込んだ筈だけど」 「『水をぶっかける』のと『石鹸とスポンジで洗う』のは同じ行為じゃない筈だぞ? 午前中の仕事を休むなら、彼を風呂にでも入れてやれ。右の足と腕が痛むだろうから、風呂には介助が必要だ」  じゃあなと手を上げて、スヴェンは階段の下に姿を消した。  試しに鼻を鳴らしてみる。確かにすえたような汗の臭いがする。昨日は酒で感覚が死んでいたし、朝からは動転していてそれどころではなかった。  彼の汚れた服を洗うついでに、本人も洗ってしまうべきかもしれない。窓からスヴェンを見送っていると、背中から声が掛った。 「…………ジョゼ?」  怯えた動物のような声だった。震えていて痛々しい。  スヴェンの去り際の言葉を聞いていたのだろう。  優しく笑いかけるような気力はなく、また自分はどう頑張っても優しい笑顔が似合う男ではないという事を承知していたので、ヨーゼフは考える事を止め、いつも通りの感情を殺した顔で彼と向き合った。  感情がないのではなく、顔に出ないだけだ。それでも数年に一回は『あなたは笑わないから怖い』と言われる。まだ若い頃はコンプレックスでもあったが、最近は省エネな自分の表情筋も悪くはないと思っている。  昨日、自分はどんな顔で彼を口説いたのかわからない。それを尋ねることもできない。なぜならば彼の言葉とヨーゼフの言葉は、今のところ交わる事はないからだ。  すたすたと背筋を伸ばして歩いたヨーゼフは、ベッド横の椅子に腰掛ける。サイドテーブルの上には、彼が起きたら渡すようにとスヴェンが用意した英文の手紙があった。  英語は嫌いだ。いくら簡単だから貴方も覚えた方がいいと言われても、それに従おうと思えない。しかしいくら苦手で読めない言語でも、自分の名前が書いてある事くらいはわかる。  紙を手にしたヨーゼフは、スヴェンの大雑把な字で記された『Josef Halvorsen』の文字を指さした。 「ヨーゼフ、ハルヴォルセン」  次に自分の胸を差す。  上体を起こして手紙を受け取った青年は、手早く英文に目を通すと、詰めていた息をゆっくりと吐いた。その息に含まれていた感情が、希望なのか絶望なのか、ヨーゼフには生憎とわからない。  必要な事は全て手紙に書いてあるだろうし、自分の話すノルウェー語は理解できない筈だ。それでも一応、と思い、ヨーゼフは彼の目を見て口を開いた。 「ここは、ノルウェーの随分と北の街だ。街の名前はトロムソ。僕の名前はヨーゼフ・ハルヴォルセン。友達は僕が英語嫌いだと知っていて、ジョークで『ジョゼ』と呼ぶ。ヨーゼフの、英語読みがジョゼフだから。キミがもし僕の名前を呼びたいと思うなら、ヨーゼフでもジョゼでも好きな方で呼ぶといい」 「……ジョゼ?」 「うん。まあ、悪くない発音だ」  キミの名前は何だと訊くには、どうしたらいいのだろう。  そう思っていると、サイドテーブルからペンを手に取った青年は、紙の裏に見慣れない文字を書き始めた。 「……それは漢字というやつだな? それがキミの名前?」  楓の葉を逆にしたような字の隣には、窓から眺める雨のような字が続く。最後の三文字目はなんとも形容しがたい点と線の木のような字だった。 「リィ、ユィ、ズィ」  ゆっくりと、彼は発音する。しかし慣れない音は耳に新しすぎて馴染まず、どうやって口を動かしているのかもわからない。 「ルィー? イージー?」 「No! That means "easy."」 「……違う、と言っているのはわかるけれど、キミの名前は僕には難しすぎる。イージーと呼んでは駄目?」 「…………イージー?」  若干不服そうに自らを指さす青年を、他に呼ぶ術がない。何と読むのか正確にはわからない文字を、ヨーゼフは勝手にイージーと読むしかなかった。 「さて、あー……イージー、それじゃあ、だいたいは僕の友達がその手紙で説明した通りだ。僕は昨日キミを買った。そしてキミは窓から落ちた。キミの事は何もわからない。けれど、僕には君を招き窓から落としてしまった責任がある。それにキミは怪我をしている」  理解できない筈だが、イージーは真剣な面持ちでヨーゼフの声を聞いた。  スヴェンは出来る男だ。何事も完璧にこなすし、余念がない。彼の手紙にはきっとすべてが書いてある。だからヨーゼフは安心してノルウェー語で続けた。 「キミの怪我が治るまで、僕はキミの面倒を見る事に決めた。だからまずは最初に、風呂に入ってくれないか?」  バスルーム、という英単語をどうにか思い出したヨーゼフを見上げる目は、驚く程綺麗なアーモンド形だった。  そういえば、昨日はとても暗い夜だった。  寒さと悲しみと酒に溺れていたヨーゼフは、暗闇の中のイージーの顔を、きちんと見ていなかった。  すっきりと顔の中心を通る鼻筋は美しく、薄い唇の形もいい。美しい猫のような瞳に見つめられ、思わずヨーゼフは視線を逸らした。  頭が痛い。吐き気は収まったが相変わらず身体はだるく胃が重い。外は雨が降っていて、これから暗い冬の季節が来る。  まったく、憂鬱な事しかない。  それなのに更に憂鬱な感情が湧きあがりそうになり、ヨーゼフは今日何度目かわからないため息を吐いた。

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