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第8話

「ねぇジョゼ、来週末は暇?」  いつものように夕刻前に顔をだしたアニータは、開口一番ヨーゼフの週末の予定を訊いた。  彼女は何故か、とても浮足立って見えた。  暇つぶしに編んでいた毛糸から顔を上げ、勿論暇だと答えた彼にアニータが提示したのは、ネットプリントしたと思しき紙だった。 「……ホテルの予約画面か? なんだ、キミは来週末、スヴェンと旅行に行くのかい?」 「そのつもりだったのだけれど、彼、仕事で手が離せなくなっちゃったっていうの」 「またか。あのワーカーホリックはいい加減、可愛い妻を思いやることを考えるべきだよ。まるでドイツ人か日本人のようだ。それでキミは、僕のところに彼の愚痴を言いに来たの?」 「まさか! 忙しい彼を愛しているわ。だから旅行が取りやめになってもいいの。ただホテルをキャンセルするときって、なんだかすごく寂しくてもったいない気持ちになるでしょ? もし、ジョゼが暇で、ナルビクまでドライブしてもいいというのなら、このホテルの予約をあなたに譲りたいの」 「ナルビクか……また、随分と遠いな」  ナルビクはトロムソから南に下った位置にある。と言っても、ノルウェーは地球に対して縦に長い上に、トロムソはその北の端と言ってもいい場所にある為、ほとんどの都市は南にあった。  ナルビクに特別な思い入れがないヨーゼフは、さてあの街には何があっただろうかと頭をひねる。戦争博物館があったような気がしたが、あとはめぼしい観光名所は思い当たらない。  一体そんな街に何をしに行くつもりだったんだ、と訊いたヨーゼフに、アニータはにっこりと笑った。 「ポーラパークに行くつもりだったの! わたし、一度でいいから狼が見てみたかったのよ」 「ああ。それで」  最北の動物園という触れ込みのポーラパークは、確かにトロムソから南に下り、ナルビクにたどり着く手前に位置していた。北極の動物をほとんど野生の状態で観察できるという触れ込みで、オーロラとセットでツアーを組む観光客も居るらしい。それなりに有名な場所なのだろう。  水族館にも動物園にも、特別な興味のないヨーゼフにはその程度の知識しかない。しかしふと、イージーの顔が頭に浮かんだ。  異国の青年は、本物の狼にどんな反応をするのだろう。先日ホエールウォッチング特集のテレビ番組を食い入るように見つめていたから、動物には割合興味があるのかもしれない。  ヨーゼフは、彼を家の中に閉じ込める事を止めた。サイズの合ったコートと靴を身に着けたイージーは、先ほども夕飯の買い出しに行くと言って出かけたばかりだ。  しかし彼の行動範囲は、小さいトロムソの街がせいぜいだ。  ヨーゼフは元来インドアで、暗い冬でなくとも出かけることは少ない。特別な用事がなければ外に出ることもないのだから、この機会を『特別な用事』にするのも良いのではないかと思う。 「本当に譲ってもらってもいいのなら、ぜひお願いしたいところだが……いいのか? なんなら、キミとイージーの二人で行ってきてもいいんじゃないのか?」 「あら、ジョゼは可愛い恋人が、他人と旅行しても構わないの?」 「キミは他人じゃないからね。僕の友達で、そして彼の友達だ。できれば僕も同行してキミたちの話を盗み聴きたいけどね」 「それはそれで楽しそうだけど。やっぱり今回は二人に譲るわ。ねえ、イージーをデートに連れて行ってあげて。うちの車を使っていいし、ホテル代はわたしが受け持つわ」 「いや、それは流石に……イージーの分も含めて、勿論僕が払う」 「いいの。ねぇジョゼ、これはね、わたしからこっそりあなたとイージーに贈る賄賂なのよ。実はね、わたし、あなた達二人に頼みたい事があるの。まだ、全部が不確定だから、詳しいことも何もかも秘密なのだけれど……絶対に、あなたとイージーにお願いしたいから、だからわたしは今から手を回して、二人を買収するのよ」 「……その秘密の予定ってやつが、今日のキミの上機嫌の原因?」 「うふふ」  人差し指を唇の前に立てたアニータは、これ以上は秘密だと言わんばかりに笑った。どうやら、お願いごとの中身はまだ教えてもらえないらしい。  このところの彼女は少し憂鬱そうだった。イージーは毎日彼女のため息の数を数えては案ずる言葉を零していた。きっと、ささやかな悪意が彼女を攻撃していたのだろう。アニータの過去は正しいとは言い難いし、彼女の周りの環境も明るいとは言い難い。  アニータの憂鬱と、それを心配するイージーを案じていたジョゼは、彼女の陽気な声に安堵する。  二月に入り、暗い季節ももうすぐ明ける。憂鬱な暗期は過ぎ去り、白い雪が日差しを受けて輝く眩しい晩冬が訪れる。その後に迎い入れるのは、暖かとは言い難いが緑芽吹く春だった。  冬が終われば、人々は途端に憂鬱な仮面を脱ぎ去るものだ。  アニータの憂鬱が春の前に晴れるのならば、それに越した事はない。彼女の笑顔を早くイージーに見せてやりたいものだが、そういえば彼が出かけてからもうずいぶんと経っている事に気が付いた。  ふと時計を見やれば、もう店じまいの時刻が近い。完成間近なセーターを片付けたヨーゼフは、どうせもう誰も来ないだろうと怠慢に判断して、店のドアを施錠するために腰を上げた。 「あら、もうそんな時間? いやだわ、わたしも帰って夕飯を作らないと!」 「忙しい医者なんか放っておいて、うちで食べて行ってもいいんだよ」 「……まぁ、珍しいこともあるのね。ジョゼが夕飯に誘ってくれるなんて……スヴェンが聞いたら泣いて喜ぶ台詞だわ」 「ちょっと前なら僕のとんでもない味の料理を振舞うなんて、相手にとっては拷問だと思っていたからだ。今は腕のいいシェフがいる」 「あなたの可愛いシェフさんは、まだお買い物中?」 「そう。もうそろそろ帰ってくる頃だと思ってはいるんだが――」  トロムソの街は迷うほど大きくはない。道に迷ったとは考えにくい。  そうなると、何か他のトラブルに巻き込まれたのだろうか。それとも、ただ食材を吟味しているうちに、時間を忘れてしまったのだろうか。外国人観光客だと思われて絡まれているのかもしれない。  店を閉めたらアニータを送りがてら、イージーを探しに行こうか。  ヨーゼフが思案しつつ扉に手を掛けたところで、表の道を走る軽やかな足音に気が付いた。  顔を上げたヨーゼフの前にいたのは、肩で息をする小さな少女だった。 「…………やぁ、キミは、あー……映画館の裏の、……」  顔はわかるが名前が出て来ない。よく母親と一緒に買い物に来ている少女だ。彼女の母親は、やたらとタラコペーストを買っていく。  眉を寄せるヨーゼフの後ろからひょっこりと顔をだしたアニータが、こっそり耳打ちしてくれた。 「トーネよ」 「……そう、トーネだ。どうしたんだ、トーネ。タラコペーストのチューブがまた底をついたのか?」 「タ、タオル! タオルと、お風呂と、毛布……っ!」 「…………何だって?」 「おにーちゃんが凍えて死んじゃう!」  よく見れば、息を乱す少女は涙ぐんでいた。一体何がどうしたというのか、さっぱりわからず混乱するヨーゼフは、雪のせいで仄明るい夜の奥から姿を現した人物に気が付くと、思わず言葉を忘れて息を飲んだ。  アニータの素っ頓狂な声が聞こえる。  その後に彼女は慌てて室内に戻り、階段を駆け上がった。  冬の道を歩いてきたのは、全身ぐっしょりと水に濡れたイージーだった。真っ白な雪景色の中で、彼の吐く息が凍るように白く漂う。青い唇は情けなく苦笑いを作っていた。 「ええと……ただいま……ごめんなさい、服、汚しちゃった、かも……」  ヨーゼフは彼が目の前に立ってから、やっと正気に戻った。そして慌ててその身体を抱きしめ、あまりの冷たさに、ああ、と息を洩らした。 「――一体どうしたって言うんだ、こんな……、いや、まずは中に入って。キミは一体……」  そしてヨーゼフは、彼から海の匂いがすることに気が付いた。イージーは水を被ったのではなく、海の中に落ちたのだ、と気が付いた時、ヨーゼフは眩暈のような恐怖を覚えた。  ノルウェーの海は凍らない。暖流のせいで冬もその表面に氷が張る事はなく、湾は常に船が行き来できる。  しかしいくら北極圏の中では温暖だと言っても、冬の気温はマイナスまで下がる。日中も太陽が登らない為に温まる事はない。  寒いものはやはり、寒いのだ。人々はその寒さに慣れ、この街で生活することに長けているだけだ。真冬の海に落ちれば、即死はしなくとも確実に体温は奪われる。  引きずるように店の中に連れ込んだイージーに、毛布を被せたのはアニータだ。三階まで駆け上がって持ってきてくれたらしい。息を乱す彼女の隣で、小さな少女はごめんなさいと涙を流した。 「トーネの帽子を、取ってくれたの。風で、飛んじゃった帽子を、おにーちゃんが……、そしたら、海に落ちちゃって……っ」 「……いけるかなーって思ったぼくが、悪いんだよ。その子は悪くないし、落ちた時は、うわって思ったけど、本当に死ぬほど冷たいわけじゃなかったから大丈……っくし!」  毛布の端を掴むイージーの手は、痛々しくも寒さで震えている。もう一度毛布の上から抱きしめて、ヨーゼフは毛糸の帽子を掴んでいるトーネを見下ろした。本当は屈んで声をかけるべきだが、ヨーゼフには今そんな余裕がない。 「トーネ、ここまでイージーと一緒に来てくれてありがとう。もう大丈夫だ。彼は怪我をしているわけでもないし、どこか悪くしたわけでもない。だからもう大丈夫。……アニータ、彼女を家まで送ってやってくれるか?」 「ええ。ええ、勿論、いいわ。イージーは、平気?」 「今言った通りさ。震えているが寒いだけだ。水銀の沼に落ちたわけじゃないから、暖めれば素直に解凍されてくれる」 「……あなたは……」  平気? と、アニータは心配そうにヨーゼフを覗き込んだ。  長く息を吸い、ゆっくりと静かに吐く。冷たい毛布の塊を抱きしめ、ヨーゼフは平気だよと答えた。彼女はスヴェンの妻で、スヴェンはヨーゼフの親友で、そして彼らはヨーゼフが抱える思い出したくない過去を知っていた。  それでもアニータは、ヨーゼフの言葉を信じてくれた。落ち着いたころに電話をするわ、と彼女はイージーを抱きしめるヨーゼフごと抱きしめてから、トーネの手を引いて帰路についた。  ヨーゼフはイージーを抱きかかえていこうとしたが、彼は歩けると言って階段を登った。  毛布のオバケのようになったイージーをソファーに座らせ、暖房を最大まで強くする。ホテルのようなバスタブがないことが悔やまれる。彼をお湯に沈めて温めることができない。  とりあえず冷たく濡れた服を脱がせようとコートのボタンに手を掛けたヨーゼフは、自分の手が震えている事に気が付いた。 「――……ごめんなさい」  震えには気が付かないふりをした。イージーもきっと気が付いていない筈だ。しかしコートを脱がせた後に彼の口から出たのは、再度の謝罪だった。  ヨーゼフは、彼に謝られる謂れはない。  イージーは少女の帽子を助ける為に、善意の行為の末に海に落ちた。少々軽率だったかもしれないが、ヨーゼフは彼に謝罪を求めてなどいない。 「どうして謝るの?」  ブルーのセーターを脱がし、濡れた服を放り投げる。海水に浸かってしまった洋服は、色が落ちてしまうかもしれないが、仕方ない。  本心からの疑問を口にしたヨーゼフだったが、イージーは尚も申し訳なさそうに視線を落とした。 「服も、毛布も、汚してしまったし……」 「珈琲をぶちまけるより幾分もマシだ。洗えば塩の匂いなんてすぐに取れる。キミは絵の具の海にダイブしたわけじゃない。それに僕は、キミがどれだけ洋服を汚そうが破こうが、キミが無事ならそれでいい」  すっかり濡れた服を脱いだイージーの肌は、恐ろしい程冷たかった。出会った頃より伸びた髪をざっくりと結んでやり、抱き上げて浴室に運んだ。イージーは嫌がらず、おとなしく四角い壁の中に入ると、ゆっくりと時間をかけてお湯を浴びた。  すっかりふやけた頃合いで浴室から出てきたイージーは、それでもまだ寒そうだ。手早く乾いたタオルで拭いてやり、抱え上げて三階に運んだ。毛布はまだ予備がある。いつ仕舞ったかも忘れてしまった古い毛布を引っ張り出して、ベッドの上の彼に巻き付け、ようやくヨーゼフは安心して息ができるようになった。  真っ白だった顔は血色が戻ってきている。けれど、体温が戻りかけているイージーの表情はまだ暗いままだ。 「ジョゼ、やっぱり、怒ってる?」 「……怒ってないよ。そんなに僕は不機嫌に見える?」 「不機嫌、っていうか。――なんだか、ぼくより、寒そうに見えるから」  彼は、ヨーゼフの表情の硬さが、いつもの凪いだような無表情とは違う事に、気が付いてしまっているようだった。  ほんの少し、長い息を吐く。その後にヨーゼフは、毛布に包まるイージーを抱きしめた。 「…………僕は、昔、友達を海で殺した」  暗く辛い過去の告白だった。  イージーはほんの少しだけ目を見開いて、動揺を表した。 「――ノルウェーの、海で?」 「うん。そうだ。冬の、冷たい海だった」  ヨーゼフはまだ二十歳を超えたばかりだった。あの頃の記憶は曖昧で、思い出すためには苦痛に耐えなければならない。 「僕は昔から父親が嫌いで、父も僕の事が嫌いだった。僕がゲイだったからだ。だから僕は生まれ故郷のトロムソではなく、トロンハイムで生活していた。まだ若かった。トロンハイムの大学で、僕は恋をした。相手は友人で、彼は友人として僕を好いてくれていたから、実るような恋ではなくても僕は満足だった。でもある日を境に、急に僕に余所余所しくなった」  ヨーゼフはその理由がわからず、毎日眠れぬ夜を過ごした。もし何か友情を壊すような過ちをしていたとしたら、話し合いたい。自分の誠実な心を証明して釈明したい。顔を見るのも嫌だと言われれば、それは仕方ないので納得して消えるしかないけれど――。  ついにぎくしゃくした関係に耐えられずに本人に問いただすと、思いもよらない事が原因だった。  彼がヨーゼフと距離を置いたのは、ヨーゼフが同性愛者だと知ったからだった。そしてその原因は、ヨーゼフの父の密告だった。  今となっては、誰の口から告げられた所で、想い人は結局ヨーゼフと距離を置いたのだろうと思える。しかし当時は、離れて尚自分の人生を脅かし壊していく父親の存在がたまらなく憎かった。 「僕は結局、僕の恋を殺すしかなかった。憎い、とか、もうそんな言葉じゃ言い表せなかったよ。殺してやりたいと本気で悩み、思いつめ、その方法まで模索して、あまりにも強い憎しみに僕の方が先に疲れてしまった。そして僕は父親を憎む事に疲れて、救いを求めた。……それが国教会や、他の趣味や友人や酒なら、まだマシだったのかもしれない」  ヨーゼフが心酔したのは、そのどれでもない。  自分の醜い心に嫌気がさし、俗世から離れたいと願った彼が縋ったものは、とある新興宗教だった。  すべての悲しみと憎しみから解放される世界。欲もなく、愛もなく、それ故に争いがない世界。そんな無を求めるような団体は、今も探せば世界に無数に存在するだろう小さなカルト団体の一つに過ぎない。  愛も性も悪も善もない、ただ生きているだけの生活は、楽だった。しかし、人生に疲れたと嘆く入信者は日に日に増え、結局集団の中でも感情の摩擦が起き始めた。  ただ生きるのは難しい。すべての感情から解放されるには、死ぬしかないと提案したのは、ヨーゼフだったように思う。記憶は断片的で、それが事実なのか妄想なのか、もうわからない。  海での集団自殺を図ったヨーゼフは、死ぬ事ができなかった。一緒に海に入った者の内二人は死んだ。それだけは確実だった。 「自殺未遂? ジョゼが?」 「そうだよ。そうだ、僕は、自分を殺そうとした。しかも、他人を巻き添えにして。僕は運よく、命を取り留めてしまったけれど、それからも惰性で生きているようなものだった。父親が死んで、母がトロムソに戻ってこいと手紙をくれて、旧友のスヴェンがしつこいくらいに僕の元に通って説得してくれたから、やっとこの街に戻って来た。母が死んでからレグンを……猫を飼って、やっと、人生というものは悪い事ばかりじゃなくて、小さな幸せってやつもあるんだと気が付いた」  それでもヨーゼフは、普通の人に比べれば生きる事に不真面目だった。  ヨーゼフの自殺未遂の過去を知るスヴェンは、彼がぼんやりと海を眺めているだけで悲しそうな顔をする。自分を確実に愛してくれている人間はもうスヴェンとアニータくらいのものだ、という事は信じているので、ヨーゼフは彼らの前で海を眺める事を止めた。 「今はもう過去の事ではあるけれど、僕は、まだ海が怖いと思う。今日のキミは、全く何も悪くない。悪いのは、海が嫌いな僕だ。そしてこれは、僕の勝手な我儘だ。――僕はキミまで、海で失いたくない」  思うままに、手加減など忘れてイージーを抱きしめた。少し苦しそうな声を洩らした後に、イージーはヨーゼフの背中に手を回して抱きしめ返してくれた。  腕の中の愛しい人を抱きしめている時だけは、ヨーゼフは憂鬱を忘れた。 「……僕の暗い話はここまでだよ。そういうわけだから、僕は海が嫌いだし、今日さらにまた嫌いになった。僕は怒っているわけじゃなくて少し悲しくなっているだけだ。今日はもうさっさと寝てしまおう」 「え。でも、ご飯作らなきゃ……」 「馬鹿を言うな。何か食べたいなら店からシリアルとチョコレートバーを取ってくるからそれで我慢してくれ。あとは、インスタントのスープでもいい。キッチンに立つなんてとんでもない。キミは今日、ベッドの上の住人だ」 「怪我もしてないし、まだ、風邪もひいてないのに?」 「これから風邪が猛威を振るうかもしれない。風邪予防に大事なのは免疫を高めることだ、と、いつかスヴェンが言っていたよ。とにかく暖めるんだ。ほら布団を被って。……僕の楽しくない昔話につき合わせた事を謝るよ。なにかこう、楽しい話をしながら寝よう」 「ジョゼ」 「うん?」  腕の中のイージーは、もう一度ヨーゼフを抱きしめる。 「ぼくは、あの日、すごく寒かった。だから、満たされてから死のうと思った。でに、本当に満たされたら、もう死ぬ気なんてなくなっちゃったんだ」 「…………ああ、」 「今、ジョゼは満たされてる?」  その問いかけに、ヨーゼフは深い愛情と感傷を持って頷いた。そして腕の中の人に向けて、震える声を隠して言葉を落とした。 「キミは、満たされている?」  勿論、と答える声は、涙で濡れていたが、ヨーゼフもイージーも、お互いに気が付かないふりをしてただ、お互いの体温を感じていた。

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