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第9話
朝からすべての出来事が夢のようだった。
毎日比較的素直に寝付く事が出来るイージーは、旅行の三日前から興奮して眠れなくなっていた。目を閉じるとどきどきする。誰かとどこかに行く、というそれだけの行為がこんなにも待ち遠しいのは生まれて初めてだ。
子供の頃は眠ることが嫌だった。明日になれば今日と同じ最悪な一日がまた始まることを知っていたからだ。物心つき、イージーが美しい青年に育つと、彼の持ち主は替わった。それからの日々はただ食事をしてセックスをして寝るだけの毎日で、眠る事に恐怖はなくなったものの、明日に対する期待など持ったことはない。
ジョゼと会った日から、そしてあのクリスマスの夜から、イージーの人生は大きく変わった。
感じた事のない感情を知ることになった。料理を覚え、言葉を覚え、ニュースを知り、勉強するということを覚えた。友人ができた。彼らとの会話の難しさと楽しさを知った。友人にかける言葉は難しい。本心をそのままさらけだせばいいというわけではなく、かといって嘘ばかりでは不誠実だ。
他人を思いやるとはそういうことだ、とジョゼは言う。
優しさは気遣いと少々の嘘と、誠実な気持ちだという彼の言葉が、イージーはとても好きだ。そして彼の言葉を聞きながら、それに相槌を打ち言葉を返す夜がとても好きだ。
芸術を知らなかったイージーは、最近は映画と音楽に夢中だ。
そういうものが存在していたことは、勿論知っている。以前縁があった『客人』の中に、映画監督だという男がいた。彼が勧めるので、イージーは二度ほど映画の撮影に連れていかれた事がある。
イージーは、俳優の代わりにトラックの荷台から飛び降りた。そういう行為を、どうやらスタントと言うらしい。
世界に興味のなかった自分は、それが一体何の映画の撮影かはわからない。しかしあの現場で彼女に出会った筈なので、きっと、彼女の名前を調べればスクリーンに映る自分の姿を見ることもできるのだろう。
ジョゼの書斎にあるディスクは犯罪映画ばかりで、派手な爆発があるような映画は一つもない。
忘れてしまいたい過去の名前を見ずに済んだことはありがたいが、彼女の名前を見つければそれはそれで、話す決心ときっかけになったのではないかと思わなくもない。
イージーはまだ、ジョゼに全てを話していない。
どこにいたのか。自分はどうしてこの国に来たのか。なぜ一人で夜の街角に立っていたのか。
囲われて生きていたということは、恐らくばれているのだろう。イージーはあまりにも世間を知らなかったし、生活能力なんてものは底辺だった。
いつか、話そう。そしてこれからどうしていくべきか、決めよう。イージーが求める未来の為には、様々な努力と援助が必要になる。なにしろ自分には明確な身分を証明するものもなければ、入国を証明するものもない。その上金もない。
ジョゼが自分の過去の傷を教えてくれたように。アニータが涙ながらに言葉にしたように。いつかその時を迎えなくてはならないと思えば思う程、イージーの口と心は重くなった。
イージーが一人思い悩み口を閉ざしていると、ジョゼはいつも慰めるように背中を柔らかく叩いてくれる。ほとんど感情を表情に出さない彼だが、その実とても愛情深い。ジョゼは、言葉少なに愛情を注ぎこんでくれた。
「走ると転ぶぞ」
しかしその日のイージーは、都合よく朝から憂鬱なことなどすべて忘れていた。折角アニータが譲ってくれた機会なのだから、鬱々と過ごしていては勿体ない。数日前にそれとなくアニータ相手に不安を洩らしたイージーは、何も考えずに楽しんできて、と抱きしめられてしまった。
この国の友人たちはみな、イージーにとても甘い。
ほんの少し気持ちが急いで、早足になっただけだというのに子供のように窘められ、イージーは頬を膨らませた。
「走ってないよ。それにぼくはたぶん転ばない」
「キミの運動神経がスポーツ選手並みだということは知っているよ。でも、雪国には不慣れなスポーツ選手だ。雪まみれになったキミを温めるには、服を全部脱がさなきゃならない。その為には動物鑑賞を早々に引きあげてホテルに籠らないといけなくなる」
「それはそれで、悪くないけどさ……でも、オオカミとハグできるんでしょ?」
「僕の予約がちゃんとうまくいっていたらね。電話も運転も久しぶりだった。三時間なんて嘘だろと思っていたが、キミが隣にいるだけで延々とドライブできそうだからすごい」
店のカウンターから立つ時と同じように、ジョゼは歩きながら腕を伸ばす。休憩を挟んだとはいえ、長時間のドライブは流石に疲れた様子だった。
「お疲れ様、運転ありがとうジョゼ。でも、今度来る時はバスにする?」
「馬鹿を言え。そんなことをしたらキミに悪戯できない。ちゃんと運転して、と真面目に怒るキミが可愛いのに」
「……ジョゼ、外だよ」
「構うものか。ノルウェーは同性結婚だって認められているんだ。ここはトロムソじゃない。別に僕はゲイだってカミングアウトしたっていいし、キミの事を僕の可愛い子だと自慢して歩いたっていいんだよ。ただ、国際化についていけない保守的な老人たちに『ゲイの男が売っている商品なんか触れない』なんて難癖をつけられて不買運動をされたら面倒だから、言わないだけだ。今はそんな人間も少ないだろう。英語を喋れないノルウェー人が少ないようにね。いつかそんな人間も居なくなる日が来るんだろうな」
「ジョゼも英語を覚えるってこと?」
「キミが教えてくれるなら、まあ、挑戦してみないこともない、と、若干なら思い始めた。キミは毎日勤勉なのに、僕はただ店に座ってセーターを編んでいるだけだなんて、なんだか恥ずかしくなってきたからね」
ノルウェーは冬が長く外に出ることも少ないので、自然と家の中で暇をつぶす事になる。
ボードゲームに興じる友人を持たないジョゼは、暇な時間の大半を編み物に使っていた。裁縫は女性の仕事ではなく、この国では老若男女問わずに趣味として定着しているようだ。
先日もイージーは見事なノルディック柄のセーターをプレゼントされた。どうやら彼はクリスマスにアニータたちが贈ってくれたセーターに、少々嫉妬をしていたと知り、イージーは耐え切れずにベッドの端に埋もれてしまった。
嫉妬深いジョゼが可愛い。キミが身に着けるものは全て僕が揃えたいのに、などと少し怖い事を言うけれど、それさえもイージーは嬉しいのだからお互い様だ。スヴェンに言わせれば、二人は完全に恋にいかれている。
特に保守的な人間から店を守る必要がない今日のジョゼは、それを隠すつもりがないらしい。
さらりと手を繋がれ、身体を引き寄せられ、まるで夫婦のように密着しながら歩いた。真冬の動物園とは言え、北極圏の動物が観察できるポーラパークは閑散としているわけではない。
驚き、戸惑うイージーの耳元で、ジョゼはふと笑いを零してから囁いた。
「キミとは家に籠ってばかりで、ろくに出かけることもなかったから。恋人みたいにデートがしたいんだ。今日はぜひ僕の我儘に付き合ってほしい。……駄目?」
「………………あなたはどうしてそんなに見た目に反してかわいいの……それに、頭がいいから嫌だ。それ、わざとやってるでしょ……」
「それ? どれのことだろうな。キミが僕の少し潜めた声が好きらしい、ということは正直意識しているけれど。僕は自分のどこがキミに気に入られているのか正直よくわからないが、使えるものは最大限に使ってキミを僕ナシではいられないようにしようと思っている駄目な男だ。僕はもうすでに、キミがいない日常なんて考えられないからね」
「耳に痒いよ。もっと歪曲にしてお願い……」
「キミは『easy』なのに?」
「最近のあなたの言葉はすぐにぼくをダメにしちゃうの。ぼくは『ちょろい(easy)』からね」
それでも手は振り払わず、ぎゅっと握りしめてイージーは歩いた。
嬉しそうに眼を細めるジョゼの顔を暫くは見れなかったが、ポーラパークの自然は素晴らしく、すぐにイージーを虜にした。
狭い檻が並んでいる見世物のような動物園ではない。自然公園と言ってもいいパーク内は檻といっても異様に広い。まず目当ての動物を探す事が困難だ。
二人は自然の中に立ち、じっと動くものを探した。
動物を見つけても、大声を上げてはいけない。そんなことをしては、彼らが驚いて逃げてしまう。息を殺し自然と同化するような錯覚が生まれる頃、イージーは木の影にヘラジカを見つけた。
「……しまった。僕はまた、眼鏡を忘れた」
鹿だよと囁いたイージーの隣で、目を眇めたジョゼが愚痴る。そういえば彼は目があまりよくない。運転の為にと普段はしない眼鏡を携帯していた筈なのに、恐らく車の中に忘れてきたのだろう。
「もう、ずっとしてたらいいのに。眼鏡」
「似合わないから嫌なんだ。どうもアレをすると、僕の顔は余計に厳めしくなってしまう」
「そうかな? 格好良くて、ぼくは結構好き……ちょ、ジョゼ、鹿、ほら鹿逃げちゃう……」
「僕がキミにキスしても大自然はただそこにあるだけだよ。鹿は死なないし鹿は僕たちのキスを嫌がらない。恋人ってやつは、そこら中でキスをする生物じゃないの?」
「今日はなんでそんなに、その、恥ずかしい要求ばっかりしてくるの……」
「浮かれているんだ。人生で初めてのデートだよ。キミが隣にいるだけで、何もかもが楽しくて、そんな自分が信じられない」
ジョゼの言葉に流されるように、二人はヘラジカと世界を隔てる柵の前でそっとキスをした。他の観光客は、珍しくホッキョクギツネが顔を出したと言って大半はそちらに移動していた。
雪と木々の真ん中に立っていると、世界に二人きりになったような気がした。
イージーは何か言葉を返そうとしたが、胸のあたりで感情がつっかえて、声にすることができない。
誰もいないのをいいことに、ジョゼは軽いキスの後に深く唇を合わせた。白い息がため息のように二人の口から零れ落ち、白く凍ってあたりに溶ける。
随分と長いキスの後に、イージーの腰を抱き寄せたジョゼは、まっすぐに広い檻を見つめた。
「――キミが、とても誠実で、真面目で、そして心から僕と僕の友人を信頼してくれている事を、僕は知っている。だから、いつまでも待つつもりではあるんだが、一応、僕の気持ちだけは伝えておこうと思うんだ」
ジョゼの声はいつものように低く、少し聞き取りにくいノルウェー語で、それはいまやイージーが一番愛する言葉と声だった。
耳から身体と心に響く声は、とても静かで、気持ちよく、そして愛おしくて涙が出る。
愛おしい声の男は、白い息と共に、真摯に言葉を選んだ。
「キミの過去は問わない、という気持ちはある。それはどんなことをしていても許すなんていう傲慢なものじゃないんだ。もしキミが過去に何か大きな傷や咎を背負っていても、僕はキミの手を離したりはしないという事だ。何度も嫌になるほど聞いていると思うが、何度もキミが嫌だと言っても僕は繰り返すよ。僕は、キミを手放すつもりはない」
彼はいつも、自分の言葉は拙いと言う。アニータ程明るく快活でもなく、スヴェン程ウェットに富んで親切でもない、と言う。
けれどイージーはジョゼの言葉が好きだ。まっすぐで飾りのない彼の言葉が好きだ。
「僕はキミに恋をしている。……愛している。だからキミの事が知りたい。いつかでいい。キミが、話せるようなタイミングがあれば、僕はキミの話をいつでも聞く準備は出来ている。僕は、陰る日の午後に、料理を作りながら歌うキミの鼻歌が好きだ。読書灯だけを灯してキミと語る夜が好きだ。この先もこの数か月間と同じように、僕の家でキミと共に過ごしたい。キミと一緒に、生きていきたい」
大好きな人の言葉が、イージーの感情を溢れさせた。言葉の代わりに出たのは涙で、寒いノルウェーの自然の中で溢れた暖かな水は頬を伝い冷たく落ちた。
「一緒に生きる道を考えよう。キミに、僕の隣に居てほしい」
胸の辺りが重く苦しい。けれどそれは、悲しみや苦痛とは違う、幸福な辛さだった。
「……ぼくの話を、きいても、ぼくを、嫌いにならないでくれる?」
ずるい懇願だった。きっとジョゼは否と言うわけがない。それでも確認せずにはいられなかった。
「驚くかもしれないし、考え込んでしまうかもしれないが、嫌いにはならない筈だ。過去のキミは今のキミとは別人だ。僕だって、海に沈んだ時の僕とは別の人間だと言い訳して生きている」
「本当? 今までと一緒に、愛してくれる?」
「勿論だよ。今もこれからも、僕はキミを愛している」
「……ちょっとだけ、待って、言葉がうまく、思いつかない……誰にも、話した事がないんだ。だから、どこから話すべきなのか……」
「ゆっくりでいいし、今じゃなくていい。ああ、いや、僕が悪いな。つい愛しさが勝って、楽しい旅行の間に水を挟んでしまったのは僕だ。キミの告白は、本当にいつでもいいし、最速で話してくれるならば家に帰ってからにしよう。ノルウェー人は家が好きだ。愛の話は家でするべきだ。僕はあの家がどうも好きではなかったけれど、キミが来てからは素晴らしい思い出ばかりの良い家になる予感がしている」
優しく問題を先延ばしにしてくれたジョゼは、イージーの額に軽くキスをして、その話を終わりにした。
イージーはまた勇気を振り絞り言葉を選ぶことができなかったが、今度こそすべてを話す決意をした。いつでも心の奥に燻っていた罪悪感が、ジョゼの言葉で軽くなった。
実際にイージーの話を聞いたジョゼが、どんな反応をするものか想像もつかない。それでも、きっと最後まで話を聞いてくれるに違いない。怒っても軽蔑しても、この愛情深い人はイージーを抱きしめてくれる筈だった。
「さぁ、ヘラジカばかりに時間を取られているとホテルのチェックインに間に合わなくなる。キミはオオカミともスキンシップしなきゃならないし。うまくいけばキスもできるとどこかで読んだけど……僕はついに獣にまで嫉妬しなければならなくなるから、できればハグだけにしておいてほしいよ」
そんなことを言いながらも、実際にオオカミの檻の中に入ったイージーを眺めるジョゼは、ずっと愛おしそうに眼を細めていた。
結局見つけられなかった動物も居たが、二人はポーラパークを満喫してホテルに向かう事が出来た。
アニータとスヴェンが予約していたのは思いもよらず高級なホテルで、チェックインを済ませたジョゼはウェルカムドリンクのシャンパンを眺めながら、彼女のコートのポケットにねじ込むクローネ札は何枚にするべきかと呟いた。
イージーはこの国での初めての外食を経験し、新鮮な冬のシーフードとその値段に驚愕し、そういえば物価が高い国だったと世界のニュース情報の知識を思い出した。
幸福すぎる夜だった。
ベッドは大きすぎる程で、イージーがいくらもう駄目だと逃げようとしても、ベッドから逃げる事は叶わなかった。体力では負けていないと思うのに、ジョゼの甘い言葉はイージーの羞恥心をこれでもかと刺激するので、耳からいつも降参してしまう。
翌日はまっすぐに帰らず、海岸沿いをふらりと一回りした。フィヨルドは夏の方が絶景だとジョゼは言うが、雪景色の断崖も趣がある。
昼は適当なレストランに入り、塩で茹でてレモンを絞っただけのエビをひたすら食べた。会計の金額は見ないことにした。いつか、どうにか自分で稼げるようになったら、その時イージーは彼をレストランに招待しようと心に誓った。
そのいつかの日の為に、帰り道の車の中で、イージーは彼に語るべきことを考えた。
自分の使っていた名前は本名なのか、自分に果たしてIDカードはあるのか、そもそも今まで生きてきた国が祖国なのか。身分さえ確定できれば、いつか移住することも可能かもしれない。
不法滞在で強制送還されてしまえば、数年この国に足を踏み入れることはできない。しかし、ノルウェー人との接触ができなくなるわけではない。どこに住んでいようが、ジョゼの声を聞く事さえできれば、希望を持てる。
そんな風に未来を恐れることなく考えるようになれたのは、ジョゼのお陰だ。彼の真摯な言葉は、この先もイージーの生きる糧となるに違いない。
車を返す前に荷物を置くために、ジョゼは一度自宅に寄った。本日休業の看板が掛かった店の前は静まり返り、ほんの少し離れていただけなのにもう懐かしいような気分になる。
帰る場所という言葉が、イージーの中に浮かぶ。
何事もなく事故もなく、つつがなく一泊二日の小旅行の日程は終えた。
このまま何事もなく、イージーは夕飯を作り、ジョゼは旅行の荷物を整理し、二人で眠る筈だった。その際にもし勇気があれば、イージーは自分の名前から再度告白するつもりでいた。
イージーが、ジョゼに全てを告白できなかったのは、勇気がなかったせいではない。
「失礼、ハルヴォルセンさん。ちょっといいですか?」
荷物を抱えて車を降りた二人を待っていたのは、黒いジャケットの二人の男だった。背中の印字から、イージーは彼らが警察官だと知った。
そして嫌な予感を覚える間もなく、イージーは絶望に息を飲むことになった。
「そちらの男性は、李雨沢さんですね? 大変恐縮でありますが、梁雪蘭さんの件でお話を伺いたいことがあります。我々とご同行いただけないでしょうか」
冷たい海に頭から落ちたような絶望だった。
イージーはまた、言うべき言葉を失っていた。
ただ、ジョゼに対する懇願の言葉が、喉の奥にひっかかっていた。
――ぼくはまだ、あなたに、話せていないことがたくさんある。
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