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第10話

「こんなに横暴なことってないわ!」  アニータは苛立ちを隠そうともせずに叫び、床を激しく踏み荒らした。  彼女の苛立ちはヨーゼフ達が警察署の応接間に通されてから、延々と続いていた。最初の三十分はアニータを戒めていたスヴェンも、何度か警察と話すうちに怒りが収まらなくなったらしく、今では同じように忙しなく部屋の中を歩き回っている。 「まったくアニータの言う通りだ。ここは寒いが暖かい心を持った人々の街じゃないのか? ノルウェー人はシャイで、けれど優しい人だった筈だ。お役所はいつもまどろっこしいが、これなら感情のないロボットの方がマシだよ。一体どういう事なのか、たいした説明もしてもらえない!」  この部屋で静かなのは、椅子に座り項垂れているヨーゼフだけだ。額に当てた手でどうにか頭を支えているものの、ともすれば床に崩れ落ちてしまいそうだった。  そんなヨーゼフの様子を不甲斐ないと貶さない代わりに、友人夫妻は警察に対する暴言を口々に吐き出し、苛立ち、まるで彼の代わりにそうしているように怒り憤り、そしてヨーゼフの隣に座り彼の肩を抱いて泣いた。 「どうしてイージーに会ってはいけないの? あの子が何をしたって言うの? シュエランっていう子は、ベルゲンで死んだのでしょう? そんな遠いところに、イージーが一人で行ける筈がない。あの子はこの二か月、ずっとジョゼの隣に居たのに!」 「まったくだ。まったくだよ……どうしてこんな事になったんだ。すべてうまく行くわけじゃなくたって、こんなひどい事はないだろ。……いい子なんだ、とても素直で、頭がよくて、優しい子なんだ。なぁ、誰に訴えたらいいんだ。どうしたら、あの子はキミの隣に帰ってくるんだ」  ついに泣き出したのはスヴェンで、つられたようにアニータも泣いた。  ヨーゼフは泣けなかった。心が付いていかなくて、何に悲しみ絶望したらいいのか、わからなかった。  何度か息を吐き、ようやく頭を持ち上げ、興奮しきった夫妻に座ってと声をかけた。 「キミたちの愛は、むやみやたらと暴言に変換すべきものじゃないよ。せめて、スヴェンは座ってくれ。アニータも……いや、まあ、そうだな、キミは一回座ってしまうと立てなくなってしまいそうだな……」  涙で濡れたアニータの顔を眺め、ヨーゼフはその愛情に心から感謝した。  ナルビクから帰って来たのは、午後三時を過ぎた頃だった。  自宅の前で待機していたのか、それともたまたまタイミングが良かったのか。とにかく問答無用で、イージーはトロムソの警察署に連行されてしまった。  こんな日がいつか来るのではないかと、想像していなかったわけではない。  想像の中の警官はもっと厳めしく高圧的で、最後は一言も交わせずにイージーは名前もしらない国に強制送還される。そんな最悪の結末を予想していたヨーゼフにとって、トロムソ警察の待遇はまだマシだとも思える。  イージーが警察に連れていかれた理由は、不法滞在ではなかった。  ヤン・シュエランという女性の失踪と変死に関する重要参考人として、イージーは今、警察署の個室で話をしているのだ。  イージーを連れて行った警官は、駆け付けたスヴェンとアニータをヨーゼフと共に応接間に案内した後に、ひどく申し訳なさそうにその旨を説明してくれた。どこかで見覚えがあると思っていたが、彼は映画館の裏に住む、トーネという少女の父親だった。 「すまない、ハルヴォルセン……密告してやろう、などというつもりがあったわけじゃないんだ。ただ、本部の方で回っていた手配書の人物が、ひどく彼に似ていると気が付いたんだよ。これは殺人容疑じゃない。トロムソとベルゲンは離れすぎているし、彼は容疑者ではなく参考人だ。彼には彼女がどうしてこの国に来たのか、どういう交友関係があったのか、そういう確認をしたいだけだ。ただ、その……彼が、不法入国者だと、俺は知らなかったんだ」  イージーに、身分を証明するものは何もない。パスポートもなければビザもなく、滞在を許可する証書もない。そして彼は、記憶喪失ではなかった。  もしそういうものの提出を警察が求めなくても、きっと彼は誤魔化さずに自分の身の上を語っただろう。  嘘を吐くのが下手な青年だ。そして彼は素直で、泣きたくなる程真面目だったからだ。  トーネの父親の話では、遠く離れたベルゲンでアジア人女性の死体が見つかったのは、年末の事だったという。 「ヤン・シュエラン。正式には梁雪蘭と書く。二十三歳の女性で、彼女はミシェール・ヤンという名前で、香港で女優業をしていた。駆け出しだがそれでも顔を出す職業だから、彼女の身元はすぐに割れた。彼女はどうやら半年前に、とある男性と駆け落ちして行方をくらましていたらしい。つまりその男性が、李雨沢……君たちが、イージーと呼ぶあの青年だと思われる」  シュエランは、ベルゲンの港で発見された。暴行された形跡はなかったが、彼女は全裸だった。行き倒れて凍死したと考えるのは不自然だった。彼女の服も持ち物も、どれだけ探しても見つからなかった。自殺したと結論付けないのならば、これは他殺に違いない。  警察はどうにか彼女の身元を特定し、そして一緒に国から消えた青年を参考人として手配した。その身一つで死んでしまった女性について、あまりにも情報がなかった。彼女には家族も居らず、遺体を引き取りに来る人間もいなかった。  不法な入国と滞在が発覚したイージーは、今まで通りの生活を送ることはできないだろう。どんな措置を取るにせよ、素直に解放される見込みはない。彼は人を殺してはいなくても、この国の法を破っている。  君たちと話ができるように掛け合う、と約束したトーネの父親が部屋を出て行ってから、どれだけ経っただろうか。  ついに憤ることと歩くことと泣くことに疲れたアニータは床に座り込んでしまい、スヴェンは先ほどまでのヨーゼフのように頭を抱えて項垂れていた。  小さな応接間の扉がノックされた時、部屋の中は沈痛な静寂に満ちていた。  最初に顔を上げたのはアニータだった。  涙を乱雑にぬぐい、勢い付けて立ち上がると、ふらつきながらドアまで歩いた。  開かれたドアの向こうには、神妙な顔のイージーがいた。アニータが彼にそのまま抱きつかなかったのは、イージーが警察官に挟まれていたからだろう。  ほんの少しだけ疲れた様子を見せたイージーだったが、すぐに儚げに笑ってみせた。それはヨーゼフ達を少なからず安心させる表情だったが、すぐに彼の口から放たれた言葉が、ノルウェーの友人たちを絶望させた。 「……元居た国に、帰ることになったよ。いままで、たくさん嘘をついていて、ごめん」  予想された言葉だった。きっと、彼はそう決断するのだろうと思っていた。それでも、いざ現実になると信じることができず、ヨーゼフは言葉を失い、スヴェンは憤り、そしてアニータは泣き叫んだ。 「いやよ、許さないわ、イージー! あなたはわたしたちと一緒に居るべきよ!」 「アニータ……! アニータ、落ち着け、ここは警察だ!」 「スヴェン、離して! こんなことってないわ、確かにイージーは、法を破ったのかもしれないけれど……事情があったんでしょう? ねえ、なんとかなる筈よ。一緒に考えましょう。どうにかなるわよ、だって、わたしだって、スヴェンのお嫁さんになれたのよ? あなたが、幸せになれない訳がない。そんなわけないじゃない」  泣き叫ぶアニータは、ついには床に崩れ落ちた。肩を抱きかかえるスヴェンは、彼女の背中を撫でてから、イージーに椅子を勧めた。両脇の警官もそれを認めたので、彼らは向かい合って座った。  イージーは拘束されているわけでもなく、監視されているようなそぶりもなかった。それがせめてもの救いだった。ヨーゼフはトロムソ警察の温情に感謝した。 「キミはこのまま、俺たちの元から去ってしまうのか?」  真面目な顔で、スヴェンはイージーの手を取った。まるで医者が問診をするようなそぶりだ。イージーは心を病んだ患者のように曖昧に首を傾げた。今朝ヨーゼフが結った髪の毛がさらりと揺れる。彼の、流れるような黒髪を結う時間が、ヨーゼフは好きだった。 「本当は居ちゃいけなかったから、仕方ないよ。帰れって言われたら、やっぱり帰らなきゃ」 「強制送還はペナルティが付く。向こう数年は、キミはこの土地に観光でだって来ることはできなくなるんだ。なぁ、俺は、キミとシュエランとかいう女性の関係は知らない。けれどいいか、もし彼女の死がキミの選択になんらかの影響を与えているのなら、俺は言わせてもらう事がある」  スヴェンはイージーの目を見た。  ヨーゼフも過去に、同じように手を取られ、彼に説教された事がある。死のうとして失敗した時と、そしてトロムソに帰ることを拒否した時だった。 「俺はな、イージー。あの言葉が嫌いなんだ。『こんなことをしても、天国のあの人は喜ばない』ってやつだ。なぁ、何をしたって、どう生きたって、死んだ人間が喜んだり悲しんだりすることはないんだ。この世にいない人間は、感情なんてない」  記憶にある物言いだった。ヨーゼフも彼に、同じことを言われた。 「死んだ誰かを蔑ろにしろと言っているんじゃないぞ。ただ、生きているキミより優先させちゃいけない。キミは頭がいいし、真面目で、優秀で、善良だ。ちょっと気持ちが優しすぎるところなんか最高だよ。俺はキミが好きだ。だから、キミの為にできる事はなんでもやる。まずは弁護士だな。キミの話もちゃんと全部聞かなきゃならない。作戦会議はそれからだよ、相棒」 「スヴェン、でもぼくは……あなた達と少しでも絆があるのなら、どこで生きていたって――」 「馬鹿を言うな、そんなのは俺が嫌だ。そりゃキミが心穏やかにアメリカの田舎で生きる選択をしたというのなら、年に二回飛行機に乗って会いに行く手間をかけるのはやぶさかではないさ。だが、キミは帰る家を知っている筈だ。いいか、大人を舐めるなよ香港人。俺はマカオの美女を勝ち取った男だ。ジョゼと俺とアニータの為に、香港の美青年を世界から奪ってやるよ」  イージーの瞳が潤み、涙が零れる。昨日から、彼を泣かせてばかりいる。アニータもスヴェンも泣いているせいで、どうにもこの部屋は雨の後の世界のように湿っぽい。  またもらい泣きをしているスヴェンに変わり、ヨーゼフはイージーの前にしゃがみ込んだ。 「どうにも、スヴェンにすべて言われてしまったような気がしないでもないんだが……顔を上げて、イージー」 「…………みんな、諦めが悪くてびっくりする……もしかして、ぼくが一番諦めていたのかな? でも、例えば時間がかかっても、いつかちゃんと正々堂々と自分の力であなたに会いに来る気でいたんだ。離れていたって愛してくれるって、うぬぼれているから」 「勿論そうだ。だが僕は生憎とキミと離れるつもりが毛頭ない。……すべて大丈夫だから任せろ、と言うほどの法的知識はないから、これから必死で勉強だ。まず香港の事を知らなきゃいけないし、スヴェンが言ったようにキミの事も知らなきゃいけない。ゆっくりと待つよ、とは言い難くなったが、昨日約束したことは有効だから、心置きなく話す準備をしていてほしい。僕は、キミが何を語ろうが、キミを嫌いになったりはしないし、キミを手放すつもりはない。嫌でも追いかけていくよ。香港だってどこだって」 「嬉しくて、頭に入って来ない。……もっと、簡単にして」 「愛している」  人前でキスをするのは初めてだった。  恥ずかしいなどとは思わなかった。そしてヨーゼフは、決してこれが彼と交わす最後のキスだとは思っていなかった。  強制送還と言っても、その日のうちに飛行機に乗せられるわけではない。勾留期間もあるし、罪が確定するまで時間もある。裁判を起こして彼の事情を説明し、温情で滞在許可をもらうという手段もあった。  何よりまずは冷静になり、現状を整理し、対策を練る事が必要だ。  流石にイージーを家に連れて帰ることは出来ず、ぐずるアニータを引きはがしヨーゼフ達は帰路についた。  彼の当分の着替えと、差し入れを袋に詰めて、翌日また警察署に向かったヨーゼフを待っていたのは、すっかりパニックになったトロムソ警察の職員だった。  そしてヨーゼフよりも先に警察署にたどり着いていたスヴェンは、今度こそ絶望したというような蒼白な顔で、聞きたくもない事実を告げた。 「……ジョゼ、イージーが、居なくなったらしい」  それは、まったく予想外で、想像もしていなかった結末だった。

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