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第11話

 一体、どこから書いたらいいのかな。  ぼくは手紙なんてもの、今まで一度だって書いたことないし、受け取ったこともないから、もしちょっと変なところがあっても、笑って許してくれると信じることにするよ。  あともうひとつ、全て英語で書くことを許してほしい。あなたたちの言葉には随分と慣れたけれど、まだスペルを覚えきれてはいないんだ。ぼくが書いたノルウェー語の手紙は、きっと誤字だらけになってしまう。どうか最後まで読んで、そしてできる事なら、ジョゼの為に翻訳してもらえると嬉しい。  まず、あなた達が知りたいのは、ぼくがいまどこにいるかという事だよね。きっと急に行方をくらましたぼくに対して、驚いて憤ってちょっとだけ愛想を尽かせたと思う。言い訳を先にさせてほしい。  ぼくは今、香港にいる。  あの日(ぼくがジョゼととても素晴らしい旅行から帰ってきて警察に連れていかれた日)の夜、たぶん深夜に、ぼくは急に護送されることになったと言われて外に出された。  勿論訳がわからなかったし、急にそんな事言われても困るからジョゼかスヴェンを呼んでと訴えた。けれど、ぼくの訴えは聞き入れてもらえず、護送車みたいな車につっこまれて、そのまま夜通しぼくは移動させられた。  運転している人は警察の人だったみたいだけれど、詳しくはわからない。ただ翌朝車から降ろされた時には、運転手も助手席に乗り込んでいた人も見たこともない人に変わっていて、そしてぼくはどこの警察署でも刑務所でもなく、空港に連れていかれて引き渡された。  そこに待ち受けていた人を見て、ぼくは全て納得し、たぶんしばらく、あなた達には会えないという覚悟を決めた。  ぼくをノルウェーの警察から受け取った人は、マダム・リリーという人で、ぼくが香港を抜け出す日まで、ぼくの飼い主をしていた人だった。つまりぼくは、元の飼い主に連れ戻されたということになる。  一応ぼくは今五体満足で、健康で、特別辛い事もないということを、報告しておくよ。ぼくが泣いたように、あなた達も涙を流していたら、嫌だから。  本当は、ジョゼの部屋でゆっくりと告白するべき話だったけれど、しばらくその機会はなさそうなので、この手紙に書くことにする。  ぼくの人生の話だ。  まずぼくの名前は、李雨沢。リー・ユィーズィーと読むんだよ。きっとアニータだったら発音できるはずだから、彼女に聞いてみてね。マダムにねだって生まれて初めて自分のIDカードを見たけれど、その時に初めてぼくにはウェインというミドルネームがあることも知った。  香港の人って、英国風のミドルネームを持っているでしょう? ジャッキー・チェンだってそうだよね。だからきっと、香港風に名乗るなら、ウェイン・リーという名前になるんだろうと思う。でもぼくはみんなに呼ばれるイージーという名前が好きだから、今後も自分にどんな名前があろうと、ぼくはぼくをイージーだと思って生きていくはずだ。  ぼくが生まれたのは、香港か他の土地かよくわからないけれど、気が付いた時にぼくは香港の見世物小屋に居た。そこにいた人がぼくの両親だったのか、それとも売られたのかわからない。綱渡りだとかナイフ投げだとか曲芸だとか、そういうものをやりたくもないのにやらされて、顔に鱗を描かれて蛇の子だなんて言われて、檻の中に入れられたりもした。  それからサーカスに売られたけれど、やっぱりそこでも生きているのが不思議なくらいの扱いを受けた。ぼくは素性のわからない気持ち悪い子供で、そのくせ運動能力が高くて、サーカスの役者はぼくの能力を褒めるんじゃなくて、ものすごく気持ち悪いものとして恐れたみたいだった。  どんな扱いを受けていたのか、正直なところあんまり覚えていない。とにかく毎日、死んだ方がマシなんじゃないかと三回くらいは考えたし、夜眠って朝起きるのがすごく嫌だったのは覚えている。一日が始まるのは、とても嫌だった。  そんな幼少時代を過ごしたから、マダム・リリーに買われた後は、こんなに恵まれた生活をしてもいいのかと驚いたよ。  マダムは香港の裏社会というか、それも実はあまり詳しくは知らないのだけれど、とにかく表立った大富豪ではなくて、あまり大きな声では言えない世界では有名な人らしい。マフィアとか、そういう人達とも付き合いがあるみたいで、世界各国に秘密のコネがあると聞いた。今なら『すごい、映画みたいだ』なんて笑ってしまいそうな世界だ。でも、全部本当の事で、ぼくの現実に関わっているから正直笑うどころの話じゃない。  マダムはぼくの他にも、たくさんの女の子や男の子を飼っている。マダムの愛玩動物であるぼくたちは、彼女を楽しませることはなんでもやったし、なんでもやらされたし、時には彼女以外の人間に一晩だけ売られることもあった。  ぼくたちの生活は、マダム中心に動いている。  マダムの為に寝て、着飾って、食事をして、彼女を満たす為に彼女や、彼女じゃない人間とセックスをした。  それが嫌だと泣く女の子は結構いた。でもぼくは、寝床があって、食べるものがあって、叩かれもしないし殴られもしない生活に何の不満があるのか不思議だった。ぼくはたぶん倫理感とかが無くて、人としておかしかったんだと思う。マダムはぼくたちの事を『愛しい人形』と呼ぶけれど、本当にぼくは人形だった。  そのまま人形として歳をとれば、マダム・リリーがぼくに飽きてぼくが歳を取り、処分されるまで、ぼくは彼女の箱庭の中で人形として生きていたと思う。彼女は一定の歳を超えた人間には興味がないみたいで、みんな三十歳になる前に『処分』と称して新しい飼い主を決めるオークションに出されていた。  ぼくがおとなしく処分の日を迎えなかったのは、梁雪蘭に出会ったからだ。そう、ベルゲンの港で死体となって発見された、彼女だ。  雪蘭には、映画の撮影現場で出会った。  ぼくはその日、以前ぼくを一晩買ってくれた人に連れられて、とある撮影に出演することになっていた。出演といっても、ちゃんと顔が出てクレジットがでるようなものじゃなくて、スタントと呼ばれる仕事だった。  ぼくは昔からサーカスに居たり、見世物の芸が得意だったりしたから、走っているトラックの上から隣の車に飛び乗ったり、足場の悪いところで殺陣を披露したり、そういうことをするのは造作もなくて、その上背格好が流行りの俳優や歌手に似ていたとかで、割合持て囃された事を覚えている。  雪蘭は新人の女優だった。  ずっと俳優を目指してグラビア活動をしていた、と彼女は言っていた。ぼくはその当時、本当に俗世を知らなかったから、グラビアというものがなにかもよくわかっていなかったけど。今なら、彼女がどれだけ苦労したのか、わかる気がする。  ぼくたちは、ほんの数回会話をしただけだった。でも、彼女はぼくの人生と境遇を知ると、手を取って遠くに逃げようと言った。それが同情だったのか恋情だったのか、ぼくはわからない。ぼくは可憐で純情な彼女のことがとても好きになっていて、彼女が逃げようというのだからそれが正しいことなのだと思った。  ぼくは彼女に、恋をしたと思った。ただ、倫理観に欠けるその時のぼくは、感情の方向性がとてもきっぱりしていて、客観的に物事を判断したり、悩んだりすることがなかった。今となっては、あれがどういう感情だったのか、思い出すこともできない。  ぼくと彼女のままごとのような駆け落ちは、北の国で終わりを迎えた。  何度も言うけれど、ぼくは世間を知らなかった。ニュースを見ることも、新聞を読むことも、ラジオを聴くこともなかったから、世界というものがどんな規模で、どんな国がどこにあって、どんな言語が存在しているのかも知らない。今なら当たり前に予測できること(例えば通貨が違うから両替が必要だとか、他の国に入るにはパスポートが必要だとか)も、勿論全くわからないし、想像したりすることさえできないから、彼女が様々な障害に出会っても、助けることも相談にのることもできなかった。  ぼくはいつも、彼女がどうして泣くのかわからなかった。寒くてもおなかが空いても、ぼくは平気だった。彼女が一緒にいてくれるから、平気だった。ぼくは彼女のことを、新しい飼い主のように扱っていたのかもしれない。彼女が指を指した方向に、ただ素直に歩いていくだけの人形だった。  北に行くにつれ、世界はとても寒くなった。  香港には、雪が降らない。だからぼくは、北国の寒さを知らなくて、外で寝ると死んでしまうということを知って本当に驚いた。それはつまり、宿を取らないと死んでしまうということだ。北に行けば行くほど、雪蘭は疲れていった。  お金もなかったのだと思う。頼りになる筈のぼくは健康な成人男子ではあったけれど、学がなくて教養もない。ただの人形のぼくは、お金を稼ぐ方法を知らなかった。知ろうともしなかったし、お金が必要だとも思っていなかった。  結局雪蘭とは、寒い国の海辺で別れた。たぶん、ノルウェーだったと思う。ぼくはひとりであまり移動しなかったから、トロムソの近くの街だった筈だ。  ぼくと彼女は、どちらも悲劇のヒロインだったのだと思う。  お互いに、颯爽と現れたヒーローが、助けてくれるのを待っていたのだ。  ぼくのヒーローは雪蘭ではなくて、そして雪蘭のヒーローも、ぼくではなかったのだろう。  ごめんなさいという書置きを残して、彼女は消えてしまった。運よく老夫婦が納屋を貸してくれた翌日だった。寒さに震えながら起きるとぼくはすでにひとりだった。  それからの事は、ジョゼに会う日まで、実はかなりおぼろげな記憶しかない。  ぼくがひとりで生きていけるわけがなくて、選別のように手紙と一緒に置かれていた香港ドル札とノルウェークローネの区別もつかなくて、結局ホームレスみたいな生活をするしかなかった。  寒くても痛くてもおなかが空いても、子供の頃に比べたらマシだし、誰かに罵られたり殴られたりするよりはマシだったから平気だった。でも、寂しくて、あまりにも寂しくて、ぼくはあの日、誰かに抱いてもらって、心を満たしてから死のうと思った。  ……やっぱり、翻訳はスヴェンで、って書き直した方がいいかな。こんな話をアニータに読まれるのは、ちょっと恥ずかしいかもしれない。もしそんな話聞きたくないよって言うのであれば、読むのをやめてもいいからね。  あの夜から、ぼくの記憶はとてもハッキリしているよ。  きっとあの日、ぼくは人形じゃなくて、人間として抱いてもらえたんだと思う。ジョゼは孤独を紛らわせたかっただけだったなんて言うけれど、あなたはとても優しかったよ。  だからきっと、死ぬ事に失敗してしまったんだね。その幸運に、今はとても感謝している。  死ななくて良かった。あなた達に会えてよかった。  ただ北の国で途方に暮れたままのぼくだったなら、連れ戻されたいまも結局は人形のままだったと思う。  けれどぼくには感情がある。若干の知識と、そしてあなた達の元に帰りたいという気持ちがある。  いままでぼくは、マダム・リリーと話をしようなんて思ったこともなかった。マダムは飼い主で、話し相手ではなかったからだ。彼女が問いかけたことだけに答えればそれでいい、というのがぼくたちの生活でありルールだ。でも、積極的に話しかけてはいけない、とは言われていない。  ぼくのIDカードを、ぼくが取り返すことはできるのか。ぼくは一体、誰の所有物なのか。どうしてぼくを取り戻したのか。例えばぼくが自由になるためには、どれだけのお金が必要なのか。  そういう話を、ぼくはマダムにしてみるつもりだ。彼女がどういう人なのか、実のところぼくはあまり知らない。人形として飼われていた時は、彼女の性格など気にする必要はなかったからだ。  怖いという人もいるし、優しいという人もいる。実際はどうかわからないが、やってみないことには何も始まらない。……たぶん、いきなり殺されたりとか、そういうことはない、と信じている。  この手紙は、マダムのお世話係の人が投函してくれることになっている。これまでの雪蘭との話はマダムに話してあるし、あなた達の事も訊かれたことは話したので、もしこの手紙がマダムに見つかっても、たぶん、困ったことにはならないだろう、と思う。  というわけで、ええと、ぼくは割合元気で、もしノルウェーに帰ることができなくても、どうにかあなた達にもう一度会いたいと願っているし、そのためにやれることはなんだってやるし、何年だってがんばるし、ジョゼにキスしてアニータとスヴェンにハグするまでは絶対に死ねないと心に決めている。(ていうか、ぼくの国外退去の処分は結局どういう手続きになっているのだろう? もしかしてマダムが裏から手を回したせいで、ぼくなんて人物はノルウェーに居なかったことにされているのだろうか)  最後に、しばらく会えないだろうあなた達へ、報告じゃなくて、ただぼくが言いたいだけの事を綴る。  まずはアニータへ。  ぼくはどうしてかな、あなたの涙をよく見るけれど、アニータは笑っている顔が一番かわいいし美人だと思うよ。ぼくの為に泣いてくれてありがとう。言葉を教えてくれてありがとう。もうあなたを泣かせない為に、ぼくはがんばってみようと思うよ。  次に、スヴェンへ。  あなたの言葉は正しくて、そしてジョゼが言うようにとても甘くて、ぼくは感動してしまった。きっちりとした、あなたの強さを見習おうと思う。ぼくの倫理観はきっと、スヴェンが基本になっている。こんなことを言うとちょっと怒られそうだけど、父親みたいな感じかもしれないね。ぼくに教養を教えてくれてありがとう。あと、料理を教えてくれてありがとう。ぼくは、あなたの人徳と知恵を信じている。きっとぼくとジョゼをサポートしてくれると勝手に期待しています。  最後に、ジョゼに。  難しい事は全部会った時でいいよね。たくさん文字を書いたら疲れちゃったよ。言いたいことがいっぱいあって、とても簡単に書けそうにないから。愛を教えてくれてありがとう。ぼくはあなたにずっと恋をしています。Jeg er forelsket i deg. 香港某所から愛を込めて easy.

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