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第12話
目にまぶしい雪と日差しの晩冬が過ぎた後に訪れたのは、待ちに待った春だった。
彼のいない春だ。
随分と長くなった昼間の明るさをカウンターから眺める度に、ヨーゼフは隣にあの青年がいない事を不思議に思った。
彼がこの家に滞在していたのは、ほんの三か月程度だった。冬の始まりに現れた異国の青年は、結局冬が明ける前に姿を消した。彼が知っているノルウェーは、ひどく暗く寒い国だろう。
太陽が登らない薄暗いばかりだった街は、短い春の後に太陽が沈まない白夜の季節を迎える。
イージーはよく三階の窓から気まぐれに現れるオーロラを眺めていた。きっと明るいままの夜も不思議がって、延々と眺めることだろう。今は隣に居ない彼の事を想像し、ヨーゼフは孤独と愛おしさを噛み締めた。
長い手紙が届いてから、一か月が経つ。
忽然と失踪したイージーの捜査がされなかった訳も、どこの誰にかけあっても警察から人間が消えるわけがないと一笑に付された訳も、すべてイージーの手紙で説明がついた。
マダム・リリーという人間がどれ程の影響力を持っているのか、詳しくはわからない。しかし、警察に保護されたイージーを一日も経たずに回収ができる人間だ。彼一人の存在を消してしまうことくらい、どうということもないだろう。
イージーの言葉を信じていたヨーゼフ達は、彼の失踪をただひたすら案じていた。彼が何もかもを捨てて逃げるとは、到底思えなかったからだ。
なにか事件に巻き込まれたのではないか。シュエランという女性の死に、もし何かしらの犯罪組織が関わっていた場合は、警察に保護されたイージーが標的になってしまう、という可能性もあるのではないか。
そんな犯罪小説のような想像までしたものだが、実際はイージーも書いていたように、想像していた以上に映画のような状態であった。
彼の手紙は、まず丁寧にコピーした。原本はヨーゼフが持っている。何度も読み返し、時には流した涙が零れ落ちたせいで、一か月でかなりぼろぼろになってしまった。
ヨーゼフの為にアニータはノルウェー語をふってくれたが、今やヨーゼフは彼の英語の手紙もきちんと内容を理解して読むことができた。慣れてしまえば、どうということはない。英語とノルウェー語は、とてもよく似ている。
「こんにちは、ジョゼ。とてもいい日差しね」
春の日の午後に風のように飛び込んできたのは、アニータだった。彼女は最近、イージーがいなくてもほとんど毎日顔を出す。あなたが泣いていないか確認しに来なきゃ、というアニータの方こそ、ヨーゼフと共にイージーの事を話しては泣くことがある。なんと自分たちは涙もろく繊細な人間であったのか。しかしヨーゼフは彼を思って泣く事を、決して女々しく悲しい行為だとは思っていなかった。
それは愛情故の涙だった。
一人でキッチンに立つ度、冷たいベッドに入る度、おはようという言葉がどこからも聞こえない朝を経験する度、イージーが残していったヨーゼフには小さい服とコートと髪留めを目にする度、ヨーゼフは静かに泣いた。
彼が居なくなって一か月経っても、二か月経っても、まだ涙は枯れない。彼を信じる気持ちも、彼を愛おしく思う気持ちも同じように、ヨーゼフの中で色あせる事はない。
そしてそれは、スヴェンもアニータも同じだった。
「ジョゼ、わたしね、実はあなたに二つ報告があるのよ」
妙にかしこまったアニータの言葉に、ヨーゼフは目を走らせていた冊子から顔を上げた。
いつもの変わらない光景の中に、緊張した面持ちのアニータが立っている。冬より少々薄着になった彼女は、ひざ下まである滑らかなワンピースの前で手を組み、重大報告をするように口を開いた。
そしてそれは、確かに重大な報告だった。
「結婚式を、挙げようと思うの」
「…………何?」
「式よ。結婚式。わたしとスヴェンは、結婚したけど、教会の前で愛を誓う式はやらなかったわ。わたしにはあまりにも敵がいっぱいいすぎて、とても世間の前にドレスで出て行く勇気がなかった。わたしはあんまり、スヴェンの御親族と仲がよくないから。でも本当はね、一度あの真っ白で素敵な服を着て、スヴェンと腕を組みたかったの」
冬の間のアニータの憂鬱は、スヴェンの親族による彼女への攻撃が原因だったという事をヨーゼフは最近知った。スヴェンが憤りながらヨーゼフに愚痴ったからだ。
スヴェンの従妹だか姪だか、とにかく絶妙な血縁具合の親族の女性が、結婚するとか子供を産むとかで、ちくちくとアニータに嫌がらせのような電話をかけていたらしい。
その電話は愚痴のようであり、流産で子供が産めなくなってしまったアニータを責めるような、攻撃的で意地の悪い言葉ばかりだったという。
怒り狂ったスヴェンは、家族の縁などくそくらえだと絶縁を宣言したという話だ。
「――もしかして、ナルビク旅行の前に、キミがやたらと上機嫌だったのは、この報告のことだったのかな」
旅行が取りやめになってしまってもにこにこと笑っていたアニータを思い出す。まだ決まっていないから、と唇の前に指を立てる彼女は、とても幸せそうだった記憶がある。
「そうよ。わたしは親族なんて居ないし、スヴェンも呼ばないっていうから、友人と恩人ばっかりの式になってしまうのだけれど。自己満足かもしれないけれど、ぜひあなたを招待したいの。でもね、この式には絶対に呼びたい人がもう一人いるの」
アニータが誰の事を指しているのか、勿論、言わずもがなわかる。彼女の一番の友達は、今は遠い香港に居る筈だ。
「絶対に、彼には来てほしいの。だからわたしね、香港に行こうと思う」
「………………何だって?」
ヨーゼフは思わず、何も考えずに眉を寄せた。ただでさえ剣呑だと言われる顔が、より一層険しくなった筈だ。それでもアニータは臆せずに笑った。ひどく落ち着いた、優しい笑顔だ。
「結婚式は高いドレスじゃなくたってできるわ。わたしはお裁縫できないこともないし、頑張れば自分で作れなくもないと思う。だから浮いた分のお金で、わたしはイージーを探してくるの」
「――待って、アニータ。待て。いや、気持ちは、わかるが……スヴェンは、何と言ってるんだ? そんなことを許しているの?」
「彼にはこれから言うわ。だってさっきドレスの試着をして、それで気がついちゃったんですもの。このドレスを諦めれば、もしかしたらイージーを攫ってこれるかもしれないって」
「……アニータ……」
「いやだ、そんな顔しないでジョゼ。わたしは馬鹿に見えるけど、みんなが思う程考えなしじゃないって自分では思っているのよ。勿論、無茶苦茶な事を言っていると思うし、彼を見つける確率なんてほとんどないと思う。でもわたしは、マカオの売春サウナに居た。広東語も話せるし、そういうアンダーグラウンドな場所に、あなたたちよりは知識があるわ。可能性はなくはない」
「でも、見つけ出してどうするんだ。猫や犬じゃないんだから、持って帰ってくるなんて簡単な言葉で終わる話じゃない。イージーは人間だ。出国するにも入国するにも、手続きと許可がいる」
「なんとでもなるわ。ねえ、生きてるイージーが見つかれば、もうそれだけでなんとでもなるわよ。わたし、嫌よ。綺麗なドレスを着たって、隣にイージーがいないのなら、わたしはきっと幸せだって笑えない」
無茶な話だ。それを承知で、アニータはじっとしていることができないのだろう。
涙をこらえるようにスカートを掴むアニータをカウンター横の椅子に座らせ、ジョゼは彼女の背中を摩った。
「急ぐ気持ちは、わからなくはない。新しい手紙は来ないし、彼からの連絡はあの一通だけだ。どこから送られてきたのかもわからない。返事の出しようもないし、マダム・リリーという人物の詳細は今も全くわからない。……焦るのも、わかる。僕だって、焦っているよ」
「ジョゼが?」
「そう。焦った僕はキミと同じように、どうやったら香港で彼を探せるか、割と真面目に計画を立てるくらいには馬鹿だ。旅行のような日程で訪れても、探し人は絶対に見つからないだろう。ノルウェーと中国では、人口の密度が違う。あの国は、人探しには向かない国だ。イージーを探すには、一年か二年は住む覚悟じゃなきゃいけない」
「…………ジョゼ、やだわ、これ、不動産の雑誌じゃない」
「家を売ったらいくらくらいになるのか、真面目に考えていたんだ。僕には趣味がないし配偶者もいないから、まあ、貯金はなくもない。ただしあくせく働いている大企業の人間でもないからね。主な財産と言えばこの家くらいのものだ。それにどうせ、向こうに住むならこの家は不要になる」
イージーがこの家を気に入ってくれていることは知っている。ヨーゼフも、この家で過ごした思い出が好きだ。
しかし本物の彼が手に入るのならば、思い出は消えてしまっても構わない。
イージーを探すためには、香港に住むという選択肢が一番確実であったし、仮に彼を攫うことができても、頭の痛い問題をクリアして帰国するよりも、そのままアジアに住んでしまうのが一番楽だろう。
場所などどこでもいいのだ。彼が隣に居てくれるのならば、どこでもいい。
この考え方は、とても独りよがりで、アニータとスヴェンの友情を無視しているという事を、ヨーゼフは知っていた。
だから彼は意を決して香港に行くことを告白したアニータと同じように、誰にも言わずに一人で不動産雑誌を眺め、法律関係の書籍を買いあさり、いつ彼らに報告しよううかと悩んでいた。
スヴェンの事が好きだ。アニータの事が好きだ。この街もノルウェーも嫌いではない。けれどあの孤独で愛おしい青年を、他の誰が救ってやるというのだろう。
皆で行こう、というわけにはいかない。
スヴェンには仕事がある。彼が自分の仕事にやりがいと誇りを感じている事を知っている。アニータもいる。折角この国の住人になれた彼女を、また混沌としたアジアの街に連れ戻すのは酷だ。
東アジアの街よりもトロムソの方が勝っているとは思っていないが、環境を考えれば、仕事と家があるトロムソの方が生活に向いていることくらいは明らかだ。
アニータは怒るだろうと思った。
「……どうして、言ってくれなかったの!」
案の定憤慨した彼女はしかし、不動産雑誌でヨーゼフを叩きながら、思ってもみない言葉を口にした。
「わたし、あなたがとても打ちひしがれて、腰を上げる元気もないものだと勘違いしていたわ! そんな素敵な計画があるなら、どうして相談してくれなかったの! ジョゼが向こうに移住するのなら、わたしは向こうで一々安全なホテルを探さなくてよくなるのね!」
「…………アニータ、僕を止めないのか?」
「止めてほしくてそんなことを言う人じゃないでしょ? あなたの言葉は、いつだって誠実で本気だって知っているわ。北欧移住は今人気だから、中古の物件でも高く売れるわ。この家は立派ですもの。……どうしたの、ジョゼ?」
「いや……つい、呆れられると思っていたものだから。キミの賛同に驚いて気持ちが付いていかない」
「わたしだって呆れられる覚悟で香港に行くなんて言い出したんだから、おあいよこ」
確かに、彼女は本気でイージーを探しに行く気でいた。
お互いに何を馬鹿な事を、と思う。冷静な部分では自分たちの情熱を嘲笑しているのに、二人は本気だった。
ここ数日、一人で抱え込んでいた息を吐き、ヨーゼフは本心から少々ほほ笑んだ。バカばっかりだと、スヴェンに呆れられるに違いない。けれど彼も、結局は許してくれるだろう。
「スヴェンは今仕事か?」
立ち上がったヨーゼフはアニータから雑誌を奪い返し、腕を組み尋ねた。スヴェンにこの馬鹿げた予定を話すのは、早い方がいい気がした。
「今日は午前中だけお仕事よ。お昼からは何か、大事な用事でお友達とお食事をすると聞いたけれど、もう帰ってきているんじゃないかしら」
「夕飯にお邪魔してもいい? 僕の無謀で馬鹿げた決意を、キミだけじゃなくて親友にも聞いてもらうべきだと思うから」
「ええ、ええ、勿論、いいわ! 大歓迎よ。でもお店は?」
「知るもんか。僕の暇な店が二時間早く店じまいしても誰も怒らないさ。アニータ、悪いが表の扉を――」
「なんだ、アニータまで居るじゃないか!」
店じまいをしようと動き出したヨーゼフは、勢いづけて扉を開けた男を確認すると珍しく目を見開いた。
店に入って来た男は、今しがた話題にあげていたスヴェンだ。友人との食事を終えて、そのままヨーゼフのところに来たのかもしれない。家にアニータがいなければここだ、と当たりを付けて彼女を探しに来た可能性もある。
なんにしろ、タイミングがいい。
食事時にしずしずと切り出す機会を窺うよりは、立ち話で済ませてしまった方が気は楽だ。
しかしヨーゼフが口を開く前に、大股で店を横切ったスヴェンは、手にした封筒を勢いよくカウンターに置いた。
彼は笑顔だった。そして少々泣いていた。一体何があったのかと訝しむヨーゼフの目に、カウンターの上の封筒に並ぶ見慣れない文字が見えた。
それは漢字だった。この国では、めったに見かけない異国の文字の羅列の意味は分からないが、ヨーゼフの鼓動は速まった。
「なんだ、どうしたんだ一体」
「嬉しくて泣いちまったんだ! 俺が泣くほどのビックニュースだぞ相棒。いいか、驚け、マダム・リリーと繋ぎが取れた!」
「――……嘘だろう。フェイクニュースの日は今日だったか?」
「四月も半ばだし俺は大真面目だし情報は確実だ。なんたって医者仲間の伝手だ。どうやってたどりついたか、その辺の説明は割愛するぞ。何人もの仲間を介して、俺はまず手紙を送ってくれたマダム・リリーの屋敷の人間を突き止めた。なんとかなるものさ。人間ってやつは悪人でも善人でも等しく怪我をするし病気になる。医者にかからない奴なんていない」
まるで探偵だと呟くと、スヴェンは茶化すなと真面目に返す。茶化してなどいないが、なんと言葉を返したらいいのかわからないだけだ。
「とにかく俺は、イージーを所有している人間とコンタクトを取れる状態までこぎつけたんだよ。どうだ、感涙だろ? まったく仕事の合間に探偵稼業なんざするもんじゃないな!」
「どうして、そんな大仕事をしている事を言ってくれなかったんだ」
「言っても良かったが、最初は小さな愚痴やら報告やらが主の仲間内の飲み会から話は始まったんだ。途中報告をして期待を持たせるのもよくないだろう。先月のキミと言ったら、息をして飯を食って寝るだけの抜け殻だったじゃないか! あとそうだな、きちんと全てが確定してからじゃないと、キミたちは何もかも捨てて勝手に香港に乗り込んでしまいそうだったからだよ!」
この言葉に、ヨーゼフとアニータは一瞬顔を見合わせ、そして笑った。まったくこの男の言う通りだった。自分たちは無鉄砲で、情熱的すぎて、やはりスヴェンが居てくれないと困るのだと実感する。
「まだ駒は揃ったわけじゃないし、正直なところ不利か有利かもまったくわからん。それでも、待っているだけよりはマシさ。そういうわけで、ジョゼ、今日はうちで飯を食ってくれ」
もとよりそのつもりだ。
ヨーゼフは心強い親友を抱きしめ、涙を拭ってその背中を叩いた。ありがとうと言う言葉が、喉につかえてでてこなかった。
「キミは本当に涙もろくなったな。まあ落ち着け。さぁ、作戦会議だ。捕らわれの王子様を助けに行くぞ」
この日ヨーゼフは、イージーの影が近づいた事を確かに感じた。
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