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第13話

 窓の外は雨だった。  この国は雨が多い事を思い出す。春と言ってもからりと晴れる事はなく、これから季節は雨期へと移行する。香港は蒸し暑い、亜熱帯の気候だ。  やたらと雨が多く湿気が高い場所であることは、体感として知っていた。しかし、それが亜熱帯の特有の気候であり、湿度や気候は地球の緯度により変わるという事を知ったのは、アニータがジョゼの寝室に積んでいった雑学クイズの雑誌からだった。  雪も背の高い白人も色鮮やかな家も森も、全てが目新しく全てが学習に繋がる日々だった。  勿論香港にも様々な物があるし、知ろうと思えばそのきっかけは様々なところにあった筈だ。知ろうとしなかったのはイージーで、人形でいる事に満足していたのもイージーだった。  ひどく寒い国で、イージーはジョゼに出会った。  彼は寝床と、気まぐれな口づけを与えてくれた。そしてクリスマスの夜に、ジョゼはイージーをできそこないの人形から、人間にしてくれたのだと思う。  あの国でも、春に雨は降るのだろうか。  だらだらと降る雨を眺めながらそんなことを思う。そういえば、ジョゼが亡くした猫の名は『レグン』だった。ノルウェー語で雨を意味する単語がレグンだ。  イージーの名前にも雨の文字が入っている。自分はあの家にとって、猫のような存在だったのかもしれない。愛猫を亡くして空いた彼の心の穴に、イージーはするりと入り込んだのだ。  それでもいい、とイージーは思う。きっかけは何でもいい。ヘラジカの檻の前で、彼が語った言葉と誓いは本物だった。ジョゼの愛と涙を、イージーは疑ってはいない。  彼が自分を忘れないうちに、彼がまだ自分を愛してくれているうちに、どうにか会えればと思う。しかし、正直なところ現状は困難だ。 「雨沢、着替えは済みましたか?」  軽いノックの後に、狭い部屋のドアを開けたのは見慣れた顔の中年女性だった。鈴玉という名の彼女は、イージーがマダムに買われた時からこの屋敷で働いている侍女だった。年の頃は四十代程だろうか。  この屋敷から逃げ出すまでは彼女の事など、観察したこともなかった。特別軽視していたわけではなく、人形だったイージーには快適な寝床と食事以外に興味がなかっただけだ。  ノルウェーから連れ戻されたイージーは、鈴玉がとても聡明な顔をしている事に気が付いた。彼女の動きはスマートで無駄がない。そして誰に対しても公平で、誰に何を言われようが、それがどんな難題であろうが声を荒げることも眉を顰めることもなく、ただ優雅に礼をして承りましたと返す。  それは何も考えていない人形とは違う、感情をコントロールできる大人の仕草だった。  イージーの長い手紙を投函してくれたのは鈴玉だ。  住所はあやふやだったが、ジョゼの店の名前をイージーはしっかりと記憶していた。トロムソの街は小さい。人口も、驚くほどに少ない。ノルウェーの北側ではそれなりに大きな街だと言っても、人がひしめき合う香港とは規模が違う。  鈴玉は、イージーに同情的だったわけではない。ただ、マダム・リリーの邪魔にならないことならば大抵のことは頼まれてくれるだけだ。イージーはこの場所を告げない事を条件に、せめて遠い国の友人達に言い訳をするだけの手紙を書いた。  あの手紙でイージーは、どうにかしてみせると意気込んだ。  実際にそのつもりだった。帰ってきてから見るマダムの屋敷は、まるで世界が一変してしまったかのように、何もかもが違って見えた。新しい視点と知識を得た自分は、今までとは違うアプローチで、マダムに近づけるのではないかと思っていた。すんなりと許してもらうことができなくても、彼女が何を考え、どういう行動を起こすつもりなのか、それだけでもわかればと思った。  結局、マダムに対話を持ちかけたイージーが得たものは、疲労とそして幽閉の日々だった。  マダムは人形以外には興味がないと言った。  自分の人形が奪われたので取り返しただけだ。まさか人形が心を持って帰ってくるなどとは思ってもみなかった。人間などいらない。そんなものは腐るほどこの国に溢れている。欲しいのは人形だ、と。  彼女は淡々と笑いもせずに怒りもせずに言葉を連ねた。マダム・リリーの言葉と表情から、イージーは何の感情も読み取ることはできなかった。  そして愛玩人形ではなくなったイージーは、二つの道のどちらを選ぶか迫られた。マダムの世話係となり屋敷に残るか、それとも自分を他の人間に売るオークションにかけるかだ。  マダム・リリーの寵愛を失ったものは、処分される。そう思い込んでいたイージーであったが、実際は屋敷の使用人になるという選択肢も存在していた。ただ、マダムの寵愛を失った多くの者は屋敷から離れたがっていたので、必然的にオークションの道を選ぶ者が多いのだろう。  イージーは、自分を売る事を選んだ。  このままマダムの屋敷に居る方が、生活は安定して安全なのかもしれない。けれどこの屋敷には隙がない。マダムの使用人になれば、恐らくもう二度と外の世界を見る事はないだろう。  アンダーグラウンドな場所に居ては、ジョゼと連絡を取ることもままならない。自分の買い手が人身売買のブローカーや売春宿のオーナーではなく、いつか一晩の関係を持った気まぐれな映画監督や、趣味で人を買う道楽者の金持ちであれば、今の環境よりはずっといい。  最悪身体を売る職業に就かされることになったとしても、それならそれでいい。一人でも多くの客に接する事は、学習と伝手の取得につながる。  辛い事は子供の頃に経験し尽くした。  痛い傷も寒い寝床も、怖くはない。辛いのは身体の痛みではなく、ジョゼが隣に居ない事だ。 「……また外を見ていたのですか。部屋が湿気るので、窓を開けてはいけませんよ」 「開けてないよ、鈴玉。晴れ着がべたべたになっちゃうからね」  ジョゼの家の窓辺に座って外を見ていた日のように、イージーは窓辺の椅子に座っていた。  着替えはすっかり済ませていた。幽閉といっても部屋から出ないように、と言いつけられた程度なので、ジョゼの家にいた頃とあまり変わらない。今日のイージーに用意されたのは絹地の長袍だった。  オークションはこの後一時間後に開かれる。  それがどんなものか、イージーは知らない。不安がないと言えば勿論嘘になる。  以前の自分なら、処分される日が来ても恐怖など感じなかった筈だ。精々次の主も暖かい寝床を提供してくれたらいい、と思う程度だろう。人間の感情を知ってしまったイージーは、愛を知ったが恐怖も知った。  手足が震えて笑いが出る。  息を吸って吐くと、しばらくは震えが止まった。しかしその後、一歩踏み出すごとに未知の未来への恐怖はぶり返す。  イージーは諦めないと心に決めていた。けれど、泣かないと決めたわけではない。ジョゼの体温を思い出す度、アニータの鳥の囀りのような声を思い出す度、スヴェンの眼差しを思い出す度、イージーはぼろぼろと心の許すまま泣いた。  昨日も散々泣いたというのに、深呼吸をしないと涙が滲んでくる。  真新しい絹の服で拭うわけにもいかず、イージーは必死に息を吸い、吐いた。扉を開けて待っている鈴玉の前にようやくたどり着くと、どうにか笑顔を見せる。  彼女にはとてもよくしてもらった。時には数少ない話し相手になってもらった。同情的な人ではないが、とても頭がよく、公平で素晴らしい人だったので、イージーは鈴玉が好きだった。 「今日までありがとう。あと、我儘を叶えてくれてありがとう。今日で貴女ともお別れかな……ぼくの我儘な手紙のせいで、貴女が怒られる事はなかった?」 「いいえ、それは心配していただかなくても大丈夫ですよ。実はあなたの手紙は一度、マダムの目が通っておりますので」 「……まあ、そうかなぁと思ったし、思ったから、具体的な事は書かなかったんだけど……それでもやっぱり心象はよくなかったかなぁ。ぼくが人形の振りをして、いままで通りの愛されるだけの愛玩動物を演じていたら、マダムの処遇は変わっていたと思う?」 「私は、……そうですね。私は、マダムはあなたの感情を見抜き、結局は同じ未来にたどり着いたと思いますよ」  マダムは潔癖ですから、と鈴玉は呟き、イージーを扉の外に導いた。 「潔癖? 人の感情は汚いものってこと?」 「マダムにとっては。あの方は無垢を愛しています。だから私共使用人は、極力感情を表に出しません。いくらあの方を愛していようと、哀れんでいようと、何食わぬ顔でお返事をします」 「……鈴玉は、マダム・リリーを愛しているの?」 「ええ。我々屋敷の住人は皆、マダムを愛した人形の慣れの果てですよ。あの方はひどく孤独で愛おしく、それでいて潔癖ですから、誰の愛も受け取りません。人形から人間になるものは、マダムを憎む者か、それともマダムを愛する者か。その二通りばかりでした」  マダムに飼われていることに嫌気がさしてマダムを憎んでしまう者。  マダムの孤独を哀れみマダムを愛してしまう者。  イージーはどちらだったのだろうと考え、結局どちらでもない事に気が付いた。この屋敷での生活は嫌いではなかった。屋敷を出て逃げたのは、雪蘭が逃げよう、逃げるべきだと言ったからだ。マダムを憎んでいたわけでも、愛していたわけでもない。マダムよりも愛する人ができたからだ。 「雨沢、あなたは、マダムではない人を愛し屋敷から逃げだし、マダムではない人を愛しまたこの屋敷から出て行くのですね」  淡々とした鈴玉の言葉は、責めているようでも、羨んでいるようにも聞こえた。 「ぼくは、マダムを傷つけたのかな」 「勿論、そうでしょう。しかしあの方の愛情は決して真っ当ではありませんから。普通の人間だと思ってお話しない方が賢明です。あの方は怪物ではありません。ですが人形でもありませんし、恐らく、人間でもありません。――……最後にマダムがあなたをお呼びです。処分される人形は、最後にマダムと謁見します。マダムはこの謁見で、あなたに最後の言葉を伝えるでしょう。あの方に慈悲などありませんから、多少は不快な時間を強いられるかもしれません。この謁見をあなたは拒否もできますが、いかがいたしますか?」 「拒否した人はいる?」 「ええ。処分される方は大概、マダムの顔も見たくないという方が大半でしたので」 「その謁見を拒否すると、何か不利になる?」 「いいえ。……あなたは本当に、よく質問する子になりましたね」 「わからないことばかりの国にいたから、これは何あれは何って訊いてばかりの自分に慣れちゃったんだ。質問ばかりするぼくは、嫌い?」 「いいえ。私は使用人の教育係ですので、質問に答えることには慣れています。ここ最近は新しい使用人が入ることもないので、少し、懐かしい気持ちです」  話している間にも、マダムの部屋は近づく。雨でべたつく空気の中、湿気と弱気を払うようにできるだけ颯爽と歩いたつもりだった。  ふいに、鈴玉が立ち止まった。 「……使用人は、屋敷の外に出る事はありませんが、屋敷の隅々まで熟知しております。例えばその扉は屋敷の裏道に繋がっております。あなたは私の目をかいくぐり、その扉から逃げることもできます」  暗に逃がすことも可能だ、という鈴玉の言葉は意外だった。  しかしこの提案に、イージーは頷かずに苦笑いを返した。今さら、マダムから逃げてどうするというのだ。イージーのIDカードはマダムが管理しているし、それがなければいつか機会があったとしても、香港から正式に出国することもままならないだろう。  気が付けば、目的地に着いていた。  その扉はなつかしさすら感じさせた。マダムの部屋に入る際に、緊張を覚えた事はない。イージーは、マダムが嫌いではなかったから。 「入りますか? やめますか?」 「――勿論、入るよ。ぼくの最後の命乞いの時間だ」 「マダムは一度決めた事を撤回したりはしませんが……しかし、再考の余地がないとは言えませんね。お気をつけて、雨沢。あなたの選択は、おそらく、間違ってはいませんよ」  扉をノックした鈴玉は、ほんの少しだけ笑ったように見えた。それはイージーの錯覚かもしれないし、思い込みかもしれない。もう会うこともないだろう彼女に、イージーは深く礼をしてからマダムの部屋に足を踏み入れた。  その部屋はいつも甘い匂いがする。  香なのか化粧品なのか、何の匂いなのかイージーにはわからない。甘ったるい匂いは、イージーを少しだけ懐かしい気持ちにさせる。屋敷の中でこの匂いがふいに漂う度に、マダム・リリーの豊満で肉感的な身体の感触を思い出した。  彼女はいつも通り、蛍光色をしたピンクのベッドの上に、どっしりとした身体を横たえていた。ほとんどそこから動かないマダムの部屋には、必要なものは全て揃っている。  来客用のソファーは壁際にずらりと並び、マダムとソファーの間には低く丸いベッドが鎮座している。そこはマダムを楽しませるためのショーが繰り広げられる場所だ。  自由に動ける身体を当の昔に捨てた彼女は、自分の性的快楽を他人の行為に求めるようになった。人形たちは毎夜売られ、マダムの目前でセックスをする。最前列でマダムはそれを楽しむのだ。 「やぁね、時間通りだわね。アンタが、そのドアをくぐらない未来だって、あった筈なのにね。運命なんて最悪な言葉すぎて反吐がでる。世界はいつだってアタシを監視して、その上アタシを嫌っているに違いない」  マダムの口紅に塗れた肉付きの良すぎる唇も、薄いサングラスの奥の腫れたような目も瞼も、酒に焼けたような低くがらがらとした独特な声も――イージーの目には映っていなかった。  イージーはマダムを見ていなかった。  彼女の目前の、ベッドの上を見ていた。  マダムへのショーを披露する際、相手はいつもベッドの上に腰掛けて待っていた。それは屈強な男や豊満な美女や、子供や老人や、とにかく様々であったが、これほどまでにイージーが驚いた事はなかった。  そこに腰掛けていたのはジョゼだった。  一瞬、誰かわからず目を凝らしてしまったが、背格好でやはりジョゼだと確信する。普段は着ることもないような黒いシャツにベストであっても、きっちりと髪をわけてセットしてあっても、ほとんど毎日剃り残しがある髭がきっちりと隅々まで剃られていても、それは確かに、ヨーゼフ・ハルヴォルセンその人だった。  そしてイージーはさらに、壁際のソファーに座る男女にも気が付く。勿論それは、正装をしたスヴェンと硬い表情のアニータだった。  驚きで声も出ないイージーに声をかけたのは、やはりマダムだ。 「突っ立っていたって何もはじまりゃしないわ。さぁこっちにいらっしゃい。お客人に挨拶はいらないわね、雨沢。アンタはいつも、ショーの相手より先にアタシに挨拶するおりこうさんだった」 「……ショー……、……マダム、彼は……」 「アンタをアタシから奪った泥棒猫女は裸に剥いてやったけど、アンタはその時にはとっくに北欧の色男に心なんてもんを注ぎ込まれてた。アタシのかわいいお気に入りが、人間になってしまっただなんて、腹立たしいったらない。でも、なんだか泣きそうだわ。こんな汚い感情、さっさと吐いて洗い流してすべて忘れてなかったことにしたいのよ」  潔癖なマダム・リリーは、いつものように淡々と言葉を並べ、そして静かに座ったままのジョゼと、立ち尽くしたイージーを見た。その視線はとても冷たく、恐ろしく、軽蔑に満ちている。 「ねぇ、雨沢。アンタの色男は、しかもアンタを金で買い戻そうなんて馬鹿げた事を持ちかけてくるのよ。金で。金で? このマダム・リリーの持ち物を金で? そんなバカげた相談には乗れないわ。どうしても雨沢が欲しいのならば、オークションに参加したらいい。でもね、それこそお金で愛を勝ち取るなんていうつまらない上に最悪な結果になるのね。それならアタシ、心の平穏と潔癖の為に反吐を吐いた方がマシよ」  ショータイムよ、とマダムは声を張り上げた。  イージーは部屋の中央まで歩き、愛しい人と、そして彼が居るべきではないベッドを見下ろし泣いたような顔で笑った。  ――彼に会う為なら、なんでもする。その決意は、イージーの胸から消えてはいない。

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