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第14話

 ヨーゼフとスヴェン夫妻を案内してくれた年上の女性は、扉の前できっちりと頭を下げ、聞き取れないほどの小さな声で何事か、異国の言葉で呟いた。  彼女が居なくなってから、アニータは広東語をノルウェーの言葉に訳してくれた。 『どうか悲しみが生まれませんように』  その言葉が誰にとっての祈りなのかわからなかったが、使用人の女性が何かを案じ、そして深く心を砕いていることだけはわかった。  マダム・リリーから招待状が届いたのは、五月に入ってからのことだ。  柔らかな緑にあふれるノルウェーから、ヨーゼフは友を伴って亜熱帯の街へ向かった。急ぎ足で、そして期待と恐怖に押しつぶされそうな旅程だった。  ヨーゼフは、香港に連れ戻されたイージーはまた以前のように愛玩人形として性を売って生きる生活に戻っているのではないか、と心を痛めていた。しかし彼が五体満足で生きているなら、虐待され傷つけられ命を脅かすような病気や怪我や飢えに見舞われるよりは、見ず知らずの人間と閨を共にする方がまだマシだと思っていた。  イージーの心は夜ごと酷く傷つくだろう。  しかし、生きていれば、そしていつか会うことができれば抱きしめる事が出来る。  死んでしまっては、全てが無くなる。スヴェンが何度も口にしたように、死んだ人間には感情などない。ヨーゼフがどれだけ愛しても、嘆いても、祈っても、この世から消えた人間に、その感情は届かない。  ヨーゼフは、過去の過ちで自分を殺さなくて良かったと思っている。そして去年の冬の初め、見ず知らずの青年の命を救った自分の判断と反射神経は最高だと自負していた。  自殺しなくてよかった。彼の自殺を阻止できてよかった。そしてできることなら、今も彼に生きていてほしい。生きていればどうにかなる。これも生きる事に少々不真面目だったヨーゼフに対し、スヴェンが時折口にする言葉だった。  ヨーゼフはすっかり、イージーの身体的な安全はある程度確保されているものだと思っていたのだ。  しかしその認識が間違いであるということを、マダム・リリーの招待状で知った。  マダムから届いた封書の中身は、競売イベント見学の招待状だった。様々な調度品や美術品、時には人名までも並ぶ出品目一覧の中に、李雨沢という字を見つけた時の衝撃は、しばらくはヨーゼフの睡眠を妨害する程のものだった。  イージーが売られる。その相手は、少年少女で人形遊びをする倫理観に欠如したマダム・リリーより、もっと残酷で非道な人間かもしれない。  家など売っている暇はない。競売当日の日まで、出来ることは少ない。  スヴェンは大急ぎで仕事に空きを作り、アニータは旅行券を手配し、そしてヨーゼフは、誰と何を交渉するにおいても、一番大切な言語を叩きこむ為に、セーターを編むことも不動産雑誌を眺めることもやめた。  マダムの部屋はとても甘い匂いで満ちていた。噎せかえるような匂いは胸やけを起こしそうで、冷たいノルウェーの空気が愛おしくなる。この国の空気はやけにべたべたしていて、イージーを攫った国という身勝手な恨みもあってか、やはり好きにはなれない。  マダム・リリーは想像していたよりも礼節を重んじていて、巨漢で、男か女かもわからない不思議な人物だ。マダムという言葉から、グラマラスな悪魔的な美女を想像していた。しかし実際の彼女は、『彼女』と指していいのかすらわからない。女性的なラインも乳房も骨格さえも、彼女の膨大な肉で覆われ、それはもう人間かどうかも怪しい。  まるで油絵の具で塗られたような、べったりとした化粧を施した顔には、表情を隠すように薄い色のサングラスが乗っている。彼女は一歩も動こうとはせずに、壁際のソファーに座らせたヨーゼフ達の話を黙って聞いた。  そして、表情一つ崩さずに、人間が嫌いよと言った。 「欲が嫌いよ。愛情が嫌いよ。憐憫が嫌いよ。怒りも喜びも嫌いだわ。どんなものも無駄な色彩のようにアタシの気持ちを狂わせて吐き気を誘発するの。最低なことよ。最悪なことだわ。だからアタシは感情なんてものを吹き込まれた人形は嫌いだし、手元に置いておきたくない。そしてアレを汚したアンタ達が嫌いだわ。……憎んではいないけれどね。アタシは愛も憎しみも、自分で抱く事が嫌なのよ」  だから感情を手放すのだとマダム・リリーは厚ぼったいルージュに塗れた唇を動かす。 「アンタたちを見ていると吐き気がする。そんなアタシの感情が一番嫌だわ。今すぐに、死んでしまいたくなる。何にも心なんてものを動かされたくないし、彩られたくないのよ、アタシ。だからさっさと消えてほしい。招待状を出したのは、うちの使用人たちが珍しくアタシに助言してきたからよ。雨沢はマダムを憎んではいないのだから、これ以上憎まれるような選択をするのは不利益を生むってね。まぁ、全くその通りだった。アタシ、感情は嫌いだなんて言いながら、結局感情的になっていたのねぇ。アタシを置いていったあの子が憎いだなんて気持ち悪い感情に支配されていたのねぇ」 「……許可と李のIDカードをいただければ、私たちは、今すぐにでもあなたの目の前から消える。どれだけの財産と引き換えにしても、彼を攫う決意で飛行機に乗った」 「お金。そうね、損をするのだからお金をもらうのは、確かに悪くない話だわね。でも、どうかしら。アタシは随分と、アンタたちの感情に汚された。ひどく不快な気分だわ。そして、ひどく懐かしい気持ちだわ。――……随分と英語が上手になったのね、ヨーゼフ。あなたの英語嫌いまで歪めてしまうのだから、やっぱり、感情は人格を歪める恐ろしいものなのよ」  カウンターの中でテキストを眺め、味のないスープを流し込みながらヨーゼフは英語を叩きこんだ。  ノルウェーの片田舎の一般人の情報まで共有しているのだから、恐れ入る。切り札や武器などほとんど持たず、せめて家を売るくらいしか条件を提示できないヨーゼフは、まるで丸裸にされたような気分だった。  何も隠し事はできない。それを痛感する。ハッタリで駆け引きができるような相手ではない。その上彼女の倫理観と感覚はヨーゼフにはあまり理解できず、別の生き物の言葉を聞いているようだった。  もとより、説得しようなどとは思っていなかったが、交渉ができるのかどうかも怪しい。マダム・リリーは想像していたような悪ではなく、特別で特殊な感性とルールを持った人だったからだ。 「アタシの持ち物を、アタシの物だと知っていながら話も通さず盗んだ悪人はアンタじゃないわ、ヨーゼフ。それは承知している。アンタはただ道に落ちていた動物を拾って介抱し、餌を与えて人間に育てた。それはアタシが責めることじゃない。その時の雨沢は、アタシの所有物じゃなかったからね。アンタは雨沢が欲しかったが、誰に所有の許可をとっていいのかわからなかった。だから仕方ない。アンタは盗人ではないのだから、アタシが罰する事はできない。でもね、アタシったら吐き気がするの。もうこの生まれた感情の卵は、いっそ吐き出してゲロまみれになって何もかも忘れてゆっくりとお風呂で洗い流すしかないのかもしれない」 「……それが、彼を譲り受けるための条件だろうか」 「そうね。そうよ、ヨーゼフ。北国の愚かな人。アタシを思い切りアンタの愛とやらで不快にさせてちょうだい。アンタの友情とやらで不快にさせてちょうだい。アタシがすべての感情に耐え切れずに吐いて身体の中から吐ききってしまえるように」  マダム・リリーと友人たちの目の前で、イージーとセックスをしろ。  それが、金でも労働でも罰でもなく、マダムがヨーゼフに提示した唯一の和解の条件だった。  彼女と感情をすり合わせることはできない。彼女は感情を嫌い、遠ざけている。温情を乞うことも、煽り立てて理性を乱すこともできない。マダム・リリーはとても冷静に確実に孤独を手に入れた人だった。  そしてベッドの上に座るヨーゼフは、二カ月ぶりに対面した恋人が、何も言わずともその意図を察している事に気が付いた。恐らくヨーゼフが腰を下ろす低く丸いベッドは、常日頃情事が行われている『ステージ』なのだろう。  黒い艶やかな民族衣装に身を包んだイージーは、少し痩せた様に見える。そもそも、出会った当初の彼は酷く痩せて骨が浮いていた。単に栄養が足りなかっただけだろうが、しばらくすると料理を覚え、そして順調に彼の血色は良くなり、抱き心地も良くなった。  食事が与えられていないということはないだろう。ヨーゼフと同じように、心労から食が細くなり眠れない夜が続いているのかもしれない。  記憶よりも若干やつれた様子のイージーは、ヨーゼフの姿を認めると明確に息を飲んだ。彼に自分たちの来訪を伝える手立てがなかったので、驚くのも仕方がない。  しかしイージーは涙と声を飲み込んだ。そして音もたてずに優雅に歩くと、マダム・リリーの前で跪いた。それが、彼とマダムのルールなのだろう。 「立っていいのよ、雨沢。アンタは今、アタシの愛玩人形じゃぁないわ。礼を尽くさずともいいのにアタシを思い遣るその心が、とんでもなく憎いと思ってしまうからもうおやめなさい。いっそ憎んでくれたほうが、楽なのにね。皆アタシを憎んで罵るから、それなら嫌っていう程経験している。――口を開いていいのよ。もうアンタが何を言おうが、どうでもいいの。いっそアタシをもっと不快にさせて頂戴」 「……マダム、ぼくのオークションは……」 「アンタの身の上は不快な愛を代償にミスター・ハルヴォルセンが手に入れる事になるわ。競売の商品が一品くらい減ったところで、誰も文句なんざ言わない。アンタは目玉商品なんかじゃないからね。さぁ、再会を喜びなさい。胸やけしそうなアンタたちの愛とやらで、アタシは存分に吐きたいわ」  イージーは戸惑い、そして何度か口を開きかけ、言葉を飲み込み、しばらくしてからヨーゼフに向き合った。そして座っているヨーゼフの前に立つと、その手を取って首を傾げてほほ笑む。ヨーゼフが好きな、照れたような笑顔ではなかったが、それでも彼が笑えている現実に感謝をした。  生きている。それだけでも、十分だ。 「ごめんなさい、こんなとこまで来てもらって、こんな無茶な事になっちゃって。あと、なんだかこの十分間でいろんなことがありすぎてもう、何を話したらいいのかよくわからない」 「僕もだよ。まずはキミの無事を祝いたいのに、キミが思いもよらず着飾っているから、何から口にするべきか忘れてしまった。黒が似合うな、イージー。……僕はどうやら、キミのその美しい黒い服を、ここで脱がさなければならないらしい」  それが、イージーを奪う条件だった。  マダム・リリーの前で、そして友人たちの前で裸になる。ヨーゼフ自身は抵抗がないとは言わないが、その行為で安否もわからなかった恋人を手に入れる事が出来るのならば、考える時間など不用だった。  そしてイージーの表情からも、同じ決意が伺えた。 「せっかく格好良い服装なのに、脱いじゃうなんてもったいないな。そんな服、どこに隠し持ってたの?」 「一張羅だ。キミが望むならこれから何日だって、飽きたからもうやめてと言われるまで、この服装でいてもいい。きっちりした服は好きじゃないが、キミの頼みならなんだって叶えるよ」  何かを言おうとしたイージーは開いた口を一度閉じ、泣きそうな顔で再度口を開いた。 「……ぼくは、ぼくのために、あなたの友情を壊すかもしれない」 「こちらの台詞だ。僕は僕と恋人の為に、キミの友人との関係に配慮する気がない。傲慢で我儘で自分本位な男だ」 「ぼくもだ。あなたの隣が勝ち取れるなら、友人に苦痛を強いてもいいと思ってる、嫌な奴だ」  イージーはアニータとスヴェンを見た。ヨーゼフは肩越しに振り返り、友人夫婦の涙をこらえる顔を見た。  一番辛いのは二人だ。こんなところまで付いてきてくれて、こんなひどい仕打ちはない。しかし彼らとイージーとヨーゼフの友情まですべてをひっくるめて、マダム・リリーは憎しみ心を汚しているのだから、仕方のないことかもしれない。 「ごめんねアニータ。許してねスヴェン。……ちょっと悲しいかもしれないけど、ぼくとヨーゼフを嫌いにならないでいてくれると嬉しい」 「……嫌いになんかなるものですか」  応じたアニータの声は震えていた。それでも彼女は口角を上げて、笑ったから、強い女性だと思う。マカオのサウナに立っていた元娼婦は、今は愛しい夫の手を握り、イージーに笑いかけた。 「わたし、怒っているの。イージーが、ジョゼが傷つく事に、すごく怒っているの。こんなことってないわ。これが一番確実な方法で、わたしにはそれを阻止できない事が悔しいの。だから悲しくなんてないし、恥ずかしいとか嫌だとか、そんなことを思っている余裕なんてないわ。イージー、ジョゼ、わたしね、あなた達のことが大好きよ」  次いで、スヴェンが口を開く。大きく開いた口からは最初、息しか出なかったが、そのうちに首を振って苦笑した。 「……格好良いことを言おうとすると駄目だな。俺はアニータ程できた人間じゃないから、若干打ちひしがれるかもしれないが、それだって納得していることさ。腕を一本置いていけ、くらい言われる覚悟で飛行機に乗り込んだんだ。情事のおこぼれを残していくくらい、なぁ、だって生きているんだから……生きているんだから、それだけでもマシだよ相棒」  それきり、二人は黙った。けれど目を閉じたり、視線を逸らしたりはしなかった。  悲しみと憤りと恥ずかしさは消えない。それでも、暖かいイージーの肌に触れられる喜びが勝った。  こんな時でもキスをすれば滑らかな舌の感触に、欲情が湧きあがる。彼と再び会えた嬉しさを、彼と再びキスが出来る事の感動を、ヨーゼフは素直に受け止める事にした。  マダムが吐くほどの愛と引き換えに、自分はこの青年を手に入れるのだ。 「……キミは、目を閉じていてもいい。僕が動けばいい話だ」 「え。嫌だよ。なんでそんな勿体ない事しないといけないの。……せっかく格好良いジョゼが目の前にいるのに、ぼくがただの人形だなんて嫌だよ」  あなたは僕を人間にしてくれたのだから、と、イージーは笑い、ヨーゼフはキスを落として、その麗しい黒い絹に手を掛けた。  ヨーゼフの耳には、マダム・リリーの悪心を耐えるようなため息だけが聞こえていた。

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