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【1】
広いワークスペースの一画に設けられたパーテーションで周囲を囲っただけのコピー室の中で、ここ株式会社U総合開発、営業部土地開発課係長である古崎 圭志 は、つい先程まで行われていた社内役員会の資料のコピーに勤しんでいた。
長く細い指先が吐き出される用紙を掴みあげていく。時々、顔の中央に移動するのは、彼のトレードマークともいえるノンフレームの神経質そうな眼鏡のブリッジを押し上げるためだ。
一八〇センチある身長は決して低いとは言えない。この営業部でも目立つ存在であることは確かだ。
しかし彼の場合、身長だけが社員の目を惹いているわけではなかった。薄く筋肉を纏った体躯は細身のスーツがよく似合う。日本人離れした儚げな顔つきは女性らしくも見える。その反面、冷酷な心を持つ野心家にも見えなくもない。表情をあまり表に出すことを嫌い、常に冷静沈着を貫くクールビューティー。
三十二歳で未だに独身。社内の女性社員が目を血走らせて狙う有望株。
それなのに、当の本人はそんな彼女たちに全く興味を示さないどころか、浮いた話もない。
謎に満ちた私生活を何とか暴こうと躍起になる彼女たちを尻目に、他人を寄せ付けようとしない彼にピッタリ寄り添うように立っていたのは、彼よりもほんの少しだけ背の高い、がっしり体型の男だった。
目が合っただけでため息が漏れてしまいそうなほど知的で整った顔立ちからは想像出来ない甘ったるい声が狭いコピー室に響いた。
「古崎さ~ん。今日こそは一緒にランチ、しましょうよ」
「係長と呼べ」
「え~。俺と古崎さんの仲じゃないですか」
「どんな仲だ? お前はただの部下にすぎんっ」
「そうやって……。いつも俺に冷たいですよね? 俺、こんなに古崎さんのこと愛してるのに」
わずか五センチの差ではあるが、彼が甘えるように古崎の肩に顎を乗せてくる。
男が男に愛を囁くなど、この世の中ではまだ理解に苦しむ者の方が多い中、彼はいたってさも当たり前のように毎日、愛の告白をし続けている。
彼の名は大名 仁 。
続けて読むと『大明神』という厳かな呼び名にも関わらず、自らゲイであると公言している変わり者だ。
だが、営業部内での成績はかなり優秀で、入社してすぐに彼は天性の能力を如何なく発揮し、メキメキと頭角を現してきた。
そう――彼は優秀な両親の遺伝子を引き継いで生まれたα。
この世界には男女という性別の他に、さらに三つの性に区分されている。
あらゆる分野で指導者的立場となりうる優秀な支配者の遺伝子を持つα、そのαの番となるべく男性でも子供を成すことが出来る特殊な能力を持った希少種Ω、そしてごく一般的な能力を持つβ。
αは自身の有能な子種を残すために、同種同士の結婚はもちろんではあるが、その力を損なうことなく子を成すΩと番うのが通例だ。
しかし、相性の良し悪しで結婚生活が破綻するケースも年々増え、ただでさえ稀少なΩもレイプなどの性犯罪に巻き込まれ、その数は急激に減少傾向にあった。
二十七歳になったばかりの仁だが、ゲイであると公言していても女性から誘われることは多い。面倒な付き合いなどきっぱり断ればよいものを、彼の人の好い性格が幸いして、つい一緒に出かけてしまうため、翌朝には社内中に噂が広がっているという実に損な役回りだ。
そんな彼ではあるが、絶賛片想い中の相手はいる。
脈アリ……とは到底思えない相手ではあるが、一度好きになったら溢れんばかりの感情を抑えられない一途な性格故に、相手にウザがられても毎日の日課のように愛の告白を続けている。
その相手が上司である圭志だ。
入社して三年目の春、営業部配属になったその日に一目で恋に落ちた。
同じ社内にいながら、どうしてもっと早く出会えなかったのだろう……と当時の人事担当者を未だに恨んでいる。
それほど圭志との出会いは鮮烈で、心が激しく揺さぶられる何かを感じた。
(これって、運命の番ってヤツなのでは……)
しかし、そう思っているのは仁だけで、圭志は上司と部下という関係を守り通している。
どれだけ口説かれても、どれだけ高価なプレゼントをされても、別段表情を変えることなく、さらりと受け流している。
「――よくもまあ、毎日飽きずにそんな歯の浮くようなセリフが言えるものだな」
呆れすぎてため息も出ないというような顔で黙々とコピーを続ける圭志の襟足に鼻先を擦りつけながら、これ以上ないほど低く、そして甘い声で囁いた。
「古崎さんってチョコレートの匂いがするんですよね……。運命の番にしか分からない匂いって甘いって聞くじゃないですか? α同士の番は最も相性が良いっていうし……」
「そんなの医学的根拠は何もない俗説だろ。――ってか、重いんだよっ」
「え? 俺の想いが?」
「バカ……。いつまで顎乗せてるんだよ。それより……。都市開発区域に掛かる移転の説明会、順調に進んでるのか? お前に任せっきりにしていた俺も悪いが、進捗状況はどうなってる?」
渋々という顔で圭志の肩から顎を退けた仁は、面倒くさそうに髪をかき上げながらわずかに天井を見上げた。
何か困った時があると決まってそうする彼を視線の端に捉えた圭志は小さく息を吐いた。
「順調――ではないみたいだな」
「いや……。いたって順調なんですけどね。ちょっと面倒な地主がいて……。あ、その方に関しては俺が何とかするつもりではいますから! 古崎さんは、ドンと構えていてくださいっ」
愛する者に弱いところは見せられないと言わんばかりに胸を張った仁をちらりと睨みつけ、圭志は抑揚のない声で言った。
「そういう時のお前、結構切羽詰まってること多いよな。無理なら無理だって素直に言えばいいのに……」
「え?」
「いろいろカッコつけすぎて自爆するなって言ってるんだ」
キツイ言い方ではあるが、仁は理解していた。表情も言葉遣いも、自分を表現することが不器用な彼の精一杯の心遣いなのだと。
細く括れたウェストを後ろから抱き寄せて、上着の合わせからすっと手を忍び込ませる。
ワイシャツ越しにツンと尖った胸の突起をやんわりと撫でながら、耳元に唇を寄せた。
「優しんですね。古崎さん……」
ふっと息を吹きかけながら、長い指先が突起を弾くように動く。しかし、圭志の表情は全く変わらない。
自分を愛していると言ってくれる男の存在が煩わしいわけではない。
こんなつまらない男に執着して時間を無駄にするくらいならば、他の相手を探した方がいいのに――と、いつも思っていた。
感情を表に出すことが苦手で、口調も丁寧とは言えない。
それに――こうやって胸の突起を愛撫されていても嫌悪感は感じないが、お世辞でも『気持ちがいい』とは思わない。そういった感覚が欠如している男のどこがいいのだろうか。
仁のもう片方の手が臀部を優しく撫で上げる。しかし、圭志にとってはスラックスに妙な皺が出来ることの方が嫌でたまらなかった。
「――まだ、感じません?」
「いつも言ってるだろ……。不感症だって」
自嘲気味に圭志が呟いた時、胸を弄っていた仁の手がすっと逃げていった。
不意に失われていく熱が寂しくもあり、それでいてこれ以上自分に構わないで欲しいと願う。
「不感症の男なんて面白くもなんともないぞ」
内に秘めた本当の自分を見られたくない。その一心で素っ気なく口にした圭志は、排紙トレーに溜まった用紙を持ち上げ、脇に用意された机の上でトントンとわざと派手に音を立てて揃えた。
いつの頃からだろう、この感覚がなくなってしまったのは。
気が付けば、誰かに触れられることで快感を得るという感覚がなくなっていた。そのせいか、自慰の回数も極端に減り、ここ数年はまるで悟りを開いた僧侶のごとく性的な欲求さえも失っていた。
その理由は分かっている。一つは常用している薬の副作用。そしてもう一つは、自分自身の問題。
心と体のバランスが崩れてしまった今、圭志には誰かとどうなりたいという欲望はなかった。
圭志の言葉に動揺し、一度逃げてしまった手をどうしようかと考えあぐねいている仁が背後で立ち尽くしている。
いっそのこと手だけじゃなく、そのまま逃げてしまっても構わない。
出来ればそうしてもらいたい……。そう思いながら用紙を揃えていた指先にピリリと痛みが走った。
「痛――っ」
用紙の束から慌てて手を離した圭志は、自身の指先からうっすらと血が滲んでいることに気が付いた。
「あぁ……。やっちゃったな」
コピー用紙を扱っていて指先を切ることはザラだ。特に部数の多い会議の資料を纏める時は細心の注意を払っていたつもりだった。コピーした資料を汚さないように――貴重な時間を割いて、いつまでたっても結果の出ない会議のコピーなど何度もしたくないというのが本音だった。
細く切れた皮膚からプクリと赤い滴が浮き上がった。それを口に含もうとした圭志の手首を力任せに掴んだのは背後に立っていた仁だった。
「おいっ!」
「大丈夫ですかっ」
そういうが早いか、圭志の人差し指を唇に咥えた仁は赤い滴を掬い取るように舌先を這わせた。
「やめろっ! 離せっ」
身長も体型もそう大差がないはずなのに、圭志は仁の口から自身の指を引き抜くことが出来なかった。
パーテーションで区切られてはいるが、壁の上部は解放されており天井はフロアと一続きになっている。LED照明があるといってもワークスペースに比べれば薄暗いコピー室の内部。
そこで大の男が上司の指先を咥えたまま上目遣いで微笑んでいるのだ。
「は……はな、せ!」
血を――いや、その指先を味わうかのように舌先を這わす仁を鋭く睨みつけていた圭志だったが、不意に膝に力が入らなくなり、コピー機にしがみつくように体を預けた。
「え……。な、なんだ……これっ」
仁の口内に収められたままの人差し指から、じわりじわりと得体の知れない何かが全身に広がっている。
例えるなら毒――。そう、疼きを孕んだ熱と共に腕から胸、そして腰から脚へと徐々に広がっていく。
内腿が小刻みに震え、下半身にわだかまった熱が何ともいえない気怠さを伴う。
「大名……っ。放せっ!――んふっ」
吐き出す息が熱い。体が燃えるように熱い。この感覚は遠い昔に失ったはずだった。
もう二度とないと思っていた、懐かしくも浅ましい感情。
「――古崎さん」
見せつけるように厚い舌を指先に絡ませた仁の栗色の瞳が欲情しているかのように濡れ始める。
両手で包み込むように圭志の手を握り、憑りつかれたかのように指先を舐める仁。
それを驚異の目で見つめながらも、圭志もまた自身の体に起きている変化に動揺を隠せなかった。
「いや……。っふ……ぅ」
腰の奥が重怠く、籠った熱が出口を求めて渦巻いている。霞がかかったかのように頭の中が真っ白になっていく。
(こんなはずはない……。絶対に、あり得ない!)
底知れぬ恐怖に身を震わせた時、下半身で何かが弾けた。
「あぁ……っ」
喉を反らせ、顎を上向けたまま吐息交じりの声を上げた。そのまま、ぐったりと力なく崩れそうになったところを仁の力強い腕がしっかりと受け止める。
「古崎さんっ」
唾液に濡れた指先をだらりと落とし、圭志は頬を上気させたまま眼鏡越しに仁を睨みつけた。
「お前……。なにを、した」
地の底から響く唸り声のようにも聞こえた圭志の言葉に、仁は困惑したまま動くことが出来なかった。
胸を大きく喘がせて呼吸を繰り返す圭志の下肢からは青い特徴のある匂いが広がっていた。
「古崎さん……まさかっ」
「う、るさい!」
「え……。どういうことですか? なんで……イッちゃってるの? え……?」
「お前の、せい……だろーが!」
「俺の……せい? ち、ちょっと待ってください! 俺、古崎さんの指を舐めただけですよ。まぁ、ちょっと調子に乗ったことは認めますけどっ」
「それ、だけじゃ……ないだろ! 俺が……こんなこと、あり得ないんだよっ」
確かに。自分でも不感症であると言い切っていただけに、仁がどれだけセクハラまがいの行為をしても、圭志は表情一つ変わることはなかったし、感情を乱すこともなかった。
それなのに――。
「――ってか、今はここで揉めてる場合じゃないですよ。俺、古崎さんの鞄持ってきますんで、このまま外回りでNR しましょう。マンションまで送りますからっ」
体を支えるようにして、圭志の二の腕を掴んでいた手を離す。咄嗟に何かに縋るように圭志が仁の腕を掴み返していた。
「古崎さん……」
はっと我に返った圭志が掴んでいた手を離す。スーツの生地越しでも分かる力強い腕……。
その腕に縋って、今――何をしようとしたのだろう。
「――すまない」
部下の前でこんな惨めな姿を晒すことになるとは、圭志自身思ってもみなかった。
αとして他の誰よりも努力し、地位も財力も築いてきたというのに……。
一瞬で砕け散った偽物のプライドは、やはり脆く儚かった。
デスクの方へと向かう仁の広い背中を見つめながら、わずかな時間ここに誰も近づかないでくれることを願った。
もう課長の椅子も見えているというこの時期に、薄暗いコピー室で着衣のまま射精してしまうなんて。もしも誰かに知られたら「一体何をしていたんだ」と社内に一瞬にして広がるのは目に見えていた。
先程まで下着に広がっていた灼熱は急激に熱を失い、今はただ冷たく肌に張り付いている。そのベットリとした感触に嫌悪感を感じ露骨に顔を歪める。
血気盛んな中高校生ならば、何かの拍子に暴発することもあり得るだろう。しかし、三十二歳にもなった大人が仕事中に起こす過ちにしては幼稚すぎる。
「――古崎さん。庶務には戻らない旨を伝えておきましたから大丈夫です。行きましょう……」
二人分のコートと鞄を持った仁が抱き起すように圭志を支えた。その肩につかまって、まだおぼつかない足取りでフラフラとコピー室をあとにする。
なるべく他のスタッフの目につかないように、圭志を庇うように立ち位置を変えた仁の優しさが嬉しくもあり、悲しくもあった。
毎日のように「愛している」と想いを告げる彼に対して、何の関心もないような顔で受け流し続けて来た報いなのだろうか。
でも――。出来ることならば素直にその腕の中に飛び込んでいきたいと思った。その足を動けなくさせているのは、絡みつくように纏わり続ける忌まわしい過去。
嘘は嘘でしかない。その嘘を彼が知った時、すべてが終わる――。
圭志はその恐怖で再び足がすくむのを感じていた。
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