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【2】

 タクシーで圭志のマンションに向かった仁は、エントランスに常駐するコンシェルジュに許可をもらい、彼の部屋まで同行することを許された。  故意的とは決して思えない。事故と言ってしまった方がむしろ気が楽になる。  仕事に関しては人一倍熱を傾けていた圭志が、あんな場所で絶頂を迎えた上に射精までしてしまうとは……。  体のどの部分に触れても感じることのなかった彼が、指先を咥えただけでイってしまうなんて。  しかし、その時の艶めかしい吐息と蕩けた表情が今も脳裏に焼き付いて離れない。  感情をあまり表に出すことのない彼が見せた、人間の本能という言うべきありのままの姿だった。  その時、仁の舌先は素早く変化を感じ取っていた。圭志の細く長い指先から広がるチョコレートの香りを。  ほろ苦いカカオは彼のビターな部分を。そして滑らかで蕩ける様な甘さは、彼が内に秘めている本当の自分。  今まで直接触れることも――まして、その肌に口付けることさえ許されなかった。  そんな彼が垣間見せた本能と欲情。  首筋からふわりと香った甘い匂いに、仁の下肢も力を持ち始めていたことは否めない。  もしも、あの場所がコピー室でなかったら……。間違いなく押し倒していたに違いない。  邪な感情を必死に抑え込みながら、十二階にある圭志の部屋の前で足を止める。 「――古崎さん、大丈夫ですか?」 「あぁ……。もう、帰っていいぞ」 「でもっ」 「帰れって言ってんだよ……。俺の無様な姿見て、ホントは笑いたいんだろ?」 「そんなことは……っ」 「お前が『愛してる』と言っている男は、ホントはつまらなくて……情けない最低な男なんだよ。見損なっただろ……。上司だなんだって大きい口叩いてるクセに……な」  仁に背中を向けたままカードキーで開錠し、レバーを下しながらドアをわずかに開けた時、すかさず仁の靴先がその隙間に滑り込んだ。 「――なに、やってんだよ」 「どうしちゃったんですか? 古崎さんらしくないですよ。いつも怖いものなんかないって顔して、俺も羨むほどの自信家……。男だったらこういうことは在り得ることなんじゃないですか? 体調やその時のバイオリズムにも左右されると思うし……。俺、誰にも言うつもりないし、貴方をそういう目で見るとか……考えられないし」  圭志はドアの隙間に体を滑り込ませながら、これ以上ないくらい大きなため息をついた。 「お前に何が分かるって言うんだよ」 「え?」 「お前が今見てるものは全部ウソだって言ったら……。それでもお前は、俺を信じられるのか?」 「嘘って……。どういうことですか?」  玄関に入った圭志はドアレバーを強く握ったまま、それ以上開かれることを拒むように仁の靴先をドアで強く挟み込んだ。  一目で高級ブランドの物だと分かる上質な革靴。綺麗に磨かれた靴先に白い皺が寄る。  闇の中に身をおく圭志の眼鏡が廊下の照明に照らされてきらりと光った。 「――何もかも恵まれて育ったお前には到底理解できない事だよ。お前は……まともな奴と結ばれる運命なんだよ」 「まともって何ですか? それじゃまるで、古崎さんがまともじゃないみたいな言い方……」 「まともじゃない。俺は――お前に愛される資格なんてない。何の役にも立たない、死ぬことが出来なくて、ただ闇雲に生きているだけの男なんだよ」  息をすることも苦しそうに吐き出した言葉が、仁の胸に重く圧し掛かってくる。  これほど痛々しい彼の声を聞いたことがあっただろうか。  厳しい仕事でも、弱音を吐く部下を叱咤しながらも何とか修羅場をくぐり抜けてきた彼が見せた初めての弱さ。 「古崎さんっ」 「――もう、何も話すことはない。帰れ」  圭志が冷たく言い放つと同時に、ドアの隙間に挟んでいた靴先を思い切り蹴られた。  驚きと痛さで反射的に足を引っ込めた瞬間、金色のモールで縁取られたダークグリーンのドアはカチャリと音を立てて閉じた。  部下として一番近くにいたと思っていた彼との間を隔てたドアの冷たさに、仁は額を押し当ててしばらく動くことが出来なかった。 「古崎……さん。俺じゃ、ダメ……なんですか? 俺じゃ……」  αの優秀な家系に生まれ、何一つ不自由することなく育ち、業界では一流と言われる会社に就職し、そこで運命の人だと思える彼と出会った――。  でも、その人はそれを否定する。自身が見ているものは『嘘』なのだと……。  心から愛しいと思える人と結ばれ、同じ職場で同じものを見ることの何がいけない? 何が間違っている?  いずれは子を成し、幸せな家庭を築くために手に手を取って生きていこうと夢見て何が悪い?  知らずのうちに流れた涙が頬を濡らしていく。 「帰れ……だなんて。そんなこと、出来るわけないでしょう。こんな状態で放っておけるわけがないでしょうっ」  ズルズルとドアに縋るようにしゃがみ込んだ仁は、握りしめた拳を一度だけドアに叩きつけた。  何もかも恵まれた環境、挫折など一度も味わったことのないぬるま湯育ち。  それがいけないというのなら、彼が苦しみもがくその場所に共に足を踏み入れて苦しみたい。  彼の痛みをこの身で感じ、それを取り除くことが出来るのならばどんなことでもする。  圭志の、あんなに思いつめた表情を見るのは初めてだった。 (まさか……だよな) こういう時に限って嫌な想像しか出来ない自分に腹が立ってくる。彼自身も言っていたではないか。 『死ぬことが出来なくて、ただ闇雲に生きている』――と。  だから、自ら命を絶つことはないと信じたい。でも、不安で胸が押し潰されそうになっている今、この場から離れることは憚られた。  仁は溢れる涙を手の甲で拭うと、勢いよく立ち上がった。  そしてエレベーターホールに向い、▽のボタンを掌で叩くように押した。  *****  玄関ドアに凭れたまましばらくの間動けずにいた圭志は、背中でドンッと何かを叩きつける音で我に返った。 「――全部、終わった」  こんなに惨めで情けない男を上司に持った仁はきっと後悔しているに違いない。  何かにつけて『尊敬する憧れの上司』と言ってくれた彼には頭が上がらない。社内では愛想のない自分に誰よりも懐いてくれた。  そして――好きになってくれた。  緩んだネクタイを乱暴に引き抜き、自身の精液で汚れた下着とスラックスを脱ぎ捨てると、廊下の壁に手を付きながらバスルームへと向かう。  熱い湯に打たれながら声を殺して泣いた。  目が腫れようが涙が流れようが、今は誰が見ているわけではない。  大量の精液がこびりついたペニスに手を掛け、数回扱きあげてみる。しかし、反応する兆しはない。  何年分の精液を吐き出したであろうペニスは、力なく上から流れ落ちる湯と涙にただ濡れるばかりだった。  タイルの壁に拳を何度も打ち付けて、苦しげに眉を寄せる。  真っ平らな下腹部に手を当てて、過去にその場所にあったはずのモノを探すかのように、何度も掌で撫でてみる。 「俺の罪は赦されない……」  震える唇がそう呟いた時、思い出したくもない過去が蘇って、圭志は過呼吸になりそうなほど息を荒らげた。 「嘘つき……」  シャワーヘッドから注がれる湯が唇に伝い、いくつもの滴となって床に飛び散る。  一つの嘘が今では数えきれないものになってしまっていた。  でも、そうしなければ圭志は生きていくことを諦めていたかもしれない。  誰が悪いわけではない。もちろん、自分は悪くない。  自分を生んだ両親を恨むなんて全くのお門違いだ。  じゃあ、何が人生を狂わせた?  圭志は仁が触れた場所をなぞるように自らの手をその白い肌に這わせた。  この穢れた体を、彼は愛おしいと言ってくれる。でも、真実を知ったらどうなるだろう……。  もう終わったはずの恋。それでも、わずかな期待だけは未練がましく持ち続けている。 (なんて都合のいい男なんだ……)  俯いたままぐっしょりと濡れた栗色の髪を乱暴に掻き上げて、自嘲気味に唇を歪める。 「俺は――Ωなんだよ」  そう――圭志はαではない。では、なぜαと偽って生きてきたのか。  それは十六年前に遡る――。  当時十六歳だった圭志に発情期の兆しが訪れた。まだΩが国を挙げて保護される前、発情フェロモンにあてられたαの無差別レイプ事件が多発していた。  それを防ぐためにΩは抑制剤の服用が義務付けられていた。しかし、それには例外もあった。  Ωに『運命の番』と呼ばれる相手がいる場合、抑制剤の服用は必要ないとされていたのだ。未成年に於いては両親、または親族が決めたいわゆる許嫁と呼ばれる相手――それがつまり圭志にとって『運命の番』だったのだ。  冷静になってあとから考えれば、傾きかけた自営業の金策の為だったのだろう。  圭志の相手は有名なホテル経営者の一人息子。もちろん優秀な能力を引き継いだαだった。  まだ男も知らない高校生だった圭志にセックスを教え込んだのも彼だった。最初は人当たりのいい兄のような存在だった。しかし、時が経つにつれ彼の本性が徐々に現れ出した。何か自分に都合の悪いことが起きるたびに怒りに任せて無理やり犯されたことは数えきれないほどあった。  それでも『運命の番』という存在を信じていた圭志に、ある日残酷な運命が押し寄せた。  婚約者に呼び出されたホテルに向かうと、そこには数人の見知らぬ男たちがいた。そこで圭志は状況を把握する間もなく輪姦(まわ)されたのだ。しかも強力な媚薬を使われ強制的に発情させられた彼は、まともな思考を保っていられないほど乱れ啼いた。それから間もなくして、圭志は妊娠した。  両親は婚約者との子供だと喜んだが、間違いなくホテルにいた男たちのうちの誰かの子供だった。  なぜなら、その時彼は酒を飲みながら圭志が犯されるのを笑いながら見ていたのだから……。  でも事実を口にすれば、婚約者の彼に何をされるか分からない。  まだ幼い圭志は成す術もなく、その妊娠を受け入れるほかなかったのだ。  Ωの発情期の妊娠率はほぼ100%に近い。強制的に発情させられたからといって、それを回避することは出来なかった。  しかし、圭志の妊娠を知った彼はなぜか激高した。あんなことをさせておいて自分以外の男の子を身籠ったことに腹を立てたのだ。α特有の独占欲……。自分のモノであるという部分だけは絶対に譲らない。  じゃあ、どうしてあんなことをさせたのか。  圭志は何度も彼に問うた。でも、返ってくる答えは「面白そうだったから」という実に安易で幼稚なものだった。  そんな彼に反発するように、周囲の期待を裏切るわけにはいかないと産む決意をした圭志に、彼は再び怒り狂った。  まだ成長途中である圭志の体を力任せに殴打し、意識を失うまで蹴り続けたのだ。  子を成す為だけの性と言われてきたΩ。その体は子供を守るように出来ている。しかし、数日間に渡り執拗に与えられ続けた暴力には勝てなかった。  圭志は生死の境を彷徨うほどの重傷を負い、お腹の子を流産したのだ。  体に与えられた傷よりも精神的に与えられた傷の方がはるかに深く、圭志は体のいたるところに不調をきたした。  犯され、暴力を奮われた影響からか、体は他人に触られることを拒み続けた。そして、何も感じない体へと変わった。Ωであれば男性でも子供が産める。その大切な器官もまた流産の影響と精神的なダメージから機能を失ってしまった。  しかし、Ωという体質は一生変わることはない。機能を失ったとはいえ、発情期に無意識に放出してしまうフェロモンを抑えるために強力な抑制剤を服用し続けた結果、その副作用で圭志の子宮は「使い物にならない」と医師に断言されてしまったのだ。  子を成すことが出来ないΩに存在価値はない。たとえ、希少種と言われる存在であっても……だ。  もう、誰も愛することはない。運命なんて絶対に信じない。  そう自分に言い聞かせ、αと偽って生きてきた。それなのに――。  こんな自分を好きだと言ってくれる男が現れたのだ。  毎日のように抱き寄せては愛を囁く年下の男――大名 仁。  最初は相手にしていなかった。でも……彼の熱意は全く冷めることもなく何年も続いている。  本当は怖い。また、あの時の彼のように豹変するのではないかという恐怖からは逃げられない。  でも、心のどこかで彼の優しさに甘えてしまいたくなる自分がいる。  圭志はシャワーハンドルを力任せに捻って湯を止めると、仁が咥えた人差し指をを唇に寄せた。  舌先を伸ばして、薄らと赤く残る切り傷を舐めてみる。  何も感じない――。  長い時間シャワーを浴びていても、その指先にはまだ仁の舌先の感触が残っていた。 「仁……」  初めて部下を名前で呼んだ。  濡れた指先を自身の口に含みながらそっと目を閉じる。そして、感じないはずのペニスに手を添えて上下に扱きあげた。  外回りを終えて戻ってきた後の汗と香水が入り混じった何とも言えない淫靡な香りが頭をよぎる。 「ん――っ」  触れること、愛撫することを拒んだ体が求めているのは、きっと――。  圭志は初めて誰かのことを思って自慰に耽った。  勃起も絶頂もない。でも、仁の手や香り、そして気配を思い出すだけで幸せな気持ちになれた。 「叶わない恋……だったな」  冷たいタイルの床に足を投げ出して座ったまま、湯気に煙るバスルームの天井を見上げて一筋だけ涙を流した。  ***** 「さすがに冷えるな……」  秋も終盤に差しかかると、日中は降り注ぐ日差しで暖かく感じても、夜になると急激に気温は下がる。  体を包むようにして巻きつけた毛布を胸元で掻き合わせながら、仁は口元に毛布を押し当てて小さなくしゃみをした。  深夜のマンションの廊下。冷たいコンクリートの床に膝を抱えて座ることを誰が想像出来ただろう。  圭志とあんな終わり方は出来ない。仁の中で『帰る』という選択肢はなかった。  エントランスにコンシェルジュが常駐する高級マンション。住人以外の出入りは厳しく管理されている。  自宅のキーもカード式のオートロックで、複製を作るには相当な審査と時間を要するらしい。  思いつめた圭志が何をしでかすか不安で仕方がなかった仁は、迷うことなくコンシェルジュの元へ向かった。  そこで「上司の体調が心配で。でも迷惑になるようなことは避けたい」と、部屋に入る許可ではなくあえて廊下で待機させて欲しいと懇願したのだ。  仁の申し出に困惑した彼らではあったが、彼の熱意に負け、身分証となる社員証と運転免許証をカウンターに預けるという条件でそれを許可した。  圭志が住む十二階の住人は海外出張中で留守であり、彼の部屋が角部屋であることが幸いした。  防水処理を施された廊下に座ると、手摺が風除けにはなってくれるが薄いスラックスの生地を通して冷たさが尻から全身に伝わっていく。  それでも、コンシェルジュが気を利かせて仮眠用の毛布と温かいコーヒーを手渡してくれたおかげで、仁の気持ちは落ち着いていた。  恵まれた環境で育ち、野外キャンプ以外でこうやって外で一夜を過ごすことなんて一度もなかった。  しかも、それが自分の為でなく、誰かのためにしているということが驚きだった。  元来、そうマメな性格ではないと自負していた仁。でも、圭志と出会って変わっていく自分に気が付いていた。  この人を守りたい。この人を愛したい。  そう思うようになってからは、毎日社内で彼の姿を見るたびに安堵し、そして嫉妬に狂い、不安に怯えた。  今までで一番人間らしく生きている。そう思わせてくれたのが彼だった。  マンションのドアの厚みがこれほど二人の距離を隔てることになるとは思ってもみなかった。  冷たいスチール製の扉。それはまるで自身を拒む圭志の心のように思えて仁は悲しくなった。  静かな廊下で耳を澄ます。部屋の中の音などそうそう聞こえるわけはないのだが、それでも彼のそばにいられると思うだけで仁は満たされた。  夜が明けてこの扉が開いた時、どんな顔で彼と向き合えばいいのだろう。どんな言葉を掛ければいのだろう。  手にしたスマートフォンの液晶画面で明日のスケジュールを確認すると、仁は引き寄せた膝に額を押し付けてそっと目を閉じた。  それからどのくらい経った頃だろう。薄らと目を開けると眩い光が手摺越しに仁に降り注いでいた。 「ん……。朝……?」  ぼんやりとした頭を何度か振り、すっかり強張ってしまった体を伸ばそうと壁に手を付いて立ち上がった時、その冷酷な扉がわずかに開いた。  足元に落ちた毛布を慌てて拾い上げると、額に張り付いた髪を無造作に掻き上げた。 「――お、おはようございます」  伏せ目がちのまま玄関ドアを開けた圭志は、扉の死角から響いたやけに爽やかな声に眉を顰めた。  驚きの反面、聞き慣れた彼の声に凍てつかせていた心がふっと緩んだ。 「――なんで、いるんだよ」  扉を開け、そこに立つ長身の男を見ることなく呆れたような口調でぼそりと呟く。 「なんでって……。古崎さんのことが心配で」  昨日と同じスーツ、そして手にした毛布を見てすべてを悟った。  セキュリティは万全とうたったマンションが、そう易々と部屋の前で一夜を過ごす許可を出したとは到底思えない。彼がゴミの出し方一つでも文句をつけてくるコンシェルジュにどう取り入ったのかは分からなかったが、想定外のことが起きていたことは確かだった。 「頼んでない……」  抑揚なく言い放ち、ゆっくりとドアを閉めるとオートロックが作動する。  カチャリというラッチ音を聞きながら、圭志は手にした鞄を持ち直した。 「――安心しました。顔色、良さそうで……。あのっ、古崎係長。ちょっとシャワーだけ浴びてから(ルビ)出社してもいいですか?」 「は?」 「自宅に戻るわけじゃなくて……。その辺のネットカフェですぐに済ませますから」 「あ、あぁ……」  早朝からどうやったらこれほど眩しい笑顔を見せられるのだろう。昨夜、あんなに酷いことを言ったにもかかわらず、彼は一晩中この廊下にいた。  彼がなぜこんなことをしていたのか真意は分からなかったが、もしも、自身が願っていることと一致するのであれば嬉しいな……と、淡い期待を抱いた。  それでも、彼と目を合わせることは出来なかった。  彼に隠している嘘。それ以外にも見られたくない部分が全部露呈してしまいそうで怖かったから。 「ありがとうございます! じゃあ、お先に失礼します」  満面の笑顔のまま深々と頭を下げた仁の背中を見送って、圭志はわずかに目を伏せた。 「古崎係長……か」  昨日まで何度注意しても敬称をつけて呼ぶことがなかった仁が初めて『係長』と言った。  二人の間に出来た複雑なわだかまりは、上司と部下という関係性を明確にし、恋愛という非現実的な概念を壊してしまったのか。  まるで他人行儀――。圭志の注意は秘めた感情の裏返しだったと気づくのは、仁にとって難しい事だったのかもしれない。 「バカ正直者……」  誠実で嘘と不正を嫌う彼の性格。それを知っていて、彼の想いを弄んでいたのは自分なのに……。  昨夜、彼の感触を思い出すためにさんざん口に含んだ人差し指をそっと唇に押し当てる。そこには絆創膏が貼られていた。  誰にも触れさせたくない。彼の舌先を忘れないためのまじないのようなもの。  この傷が消えた時、自分の想いも消える。そう――自分自身でかけた呪い。  彼は自分にとって優秀な部下でしかない。恋心を抱ける相手ではないのだ。 「――終わったんだよ。全部、終わった……」  そう呟いて、胸の奥がキュッと締め付けられる。その痛みに眉根を寄せながら、圭志はエレベーターホールへと足を向けた。

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