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【3】
営業部のフロアに息を弾ませて駆け込んできた仁の姿に、そこにいたスタッフは皆瞠目した。
「おはようございます! 出先、寄ってきましたっ」
圭志のデスクの前で一礼して、自分の席に戻った仁をわずかに視線をあげて見つめる。
ふわりと香るボディーソープがシャワーを浴びてきたことを教えてくれた。湯上りの様相を見せる彼。おそらく会社の近くのネットカフェで手早く済ませてきたのだと窺える。
そんな彼に即座に反応したのは同じ部署の女性スタッフだった。
「アレ~? 大名くん、もしかして朝帰り……とか? それ、昨日と同じスーツだよね?」
「うわっ。寝過ごして慌ててシャワってきましたって感じ!」
まだ湿り気の残る髪を手櫛で整えながら、相変わらず人のいい顔でそんな彼女たちにはにかんだ笑みを浮かべる。
不躾に矢継ぎ早に聞いてくる彼女たちに嫌な顔一つ見せない。
「あ、バレました?――でも、残念なことに相手の方は不在なんですよね」
「え?」
「昨夜、偶然会った取引先の専務さんと飲んでて……。気が付いたら終電逃して。会社に比較的近い場所だったんでタクシーで帰るのも面倒だし、ネットカフェで一夜を過ごしてました。あははは……」
屈託のない笑い。その言葉を『嘘』だと疑うスタッフが、ここに何人いるだろうか。
「相変わらず可愛いよね~。大名くん、モテるのに勿体ない!」
「すみません……。俺、男にしか欲情しないんで」
素直に謝るところが実に彼らしい。この部署のスタッフは皆、知っている。
彼が狙っているのは上司である圭志だということを……。でも、それを口に出さないのは、圭志が感情を表に出さない脅威の存在だから。
「それがなかったら私、絶対誘ってる!」
「私もっ」
次々に手をあげる女性スタッフに嬉しそうに「ありがとう」と応えながらノートパソコンを開いて電源を入れるのを視線の端に捉えていた圭志は小さくため息をついた。
αの技量。αの能力。αの順応性――。
彼に足りない物は何もない。むしろ、それを脅かそうとしているのは自分の存在。
手元に広げた書類に目を通し始めた仁の目が仕事モードへと切り替わる。今朝、自分にだけ見せた屈託のないはにかみは夢だったのではないかと思うほど、仕事に対する熱量に圧倒される。
「――おい、大名! 例の土地の件、説明会の詳細データってあるのか?」
「あります! データ共有に送りますね」
「よろしく頼むっ」
いつもと変わらずフロアに飛び交う声。自分がまるで蚊帳の外で聞いているようで、ひどく疎外感を感じる。
自身と仁とのやり取りを知る者は誰もいない。それなのに後ろめたい気持ちに苛まれているのは、忘れようとしても出来なかった自分の弱さのせいだ。
「――係長。古崎係長っ」
「え?」
「外線入ってます。回しますか?」
庶務の声にハッと我に返り、受話器に手を伸ばす。
彼女に指示された番号のボタンを押すと、それまで渦巻いていた邪な想いをすべて払拭する。
「――代わりました。古崎です」
震えそうになる声を必死に抑え込み、喉の奥に力を込める。
書類に視線を落とした時にちらっと視界に入ったのは、仁が肩越しに振り向く姿。
その栗色の瞳はどこまでも優しく、そして穏やかだった。
穢れのないものから逃げるように視線を逸らし、あえて彼に背を向けるように椅子を傾ける。
傍から見ればちょっと込み合った話でもしているように見えるだろう。
でも、そうしていないと落ち着くことが出来ない。
彼が発する自分への想いが眩しすぎて……。仄暗い過去を持った自分が溶かされてしまいそうになる。
自分から近づくことはない――。
そう心に決め、手にしたシャープペンを強く握りしめた。
*****
二人の間に出来た見えない溝は日に日に深さを増し、大きく広がっていった。
それにいち早く気づいたのは周囲のスタッフたちだった。
ただでさえ長身でイケメンという目立つ要素しかない上に、異常なまでの存在感を放つ彼の動向の変化に気付かない者はまずいない。事あるごとに後を追いまわし、圭志にべったりとくっついて離れなかった仁がある日を境に近づかなくなった。
圭志の匂いや気配を察知しては機嫌を窺うように近づいて、構ってくれると分かった途端に物凄い勢いで尻尾を振る犬のようだった仁。そんな彼の尻尾はしょんぼりと垂れ下がったままピクリとも動かない。
仁のデスクの隣に座る同期入社の松下がすっと椅子ごと彼に近づき、訝しげに顔を覗き込んだ。
「――どうしたんだ? 体調でも悪いか?」
焦点が合わないままパソコンの画面を見つめていた仁がハッと息を呑んだ。
「え? あ……別に」
「最近、係長と何かあったか?」
同期で同じ部署、しかも互いのことをよく知る飲み友達である松下には気付かれていたようだ。
特に気を遣う間柄でもない彼は、思ったことを迷うことなく口にする。
それが仁にとってデリケートな問題だったとしても決してオブラートに包むような言い方はしない。
仁はそんな松下が好きだった。もちろん、恋愛感情はない。友人として同僚として、これほど気を許せる男は仁の周囲にはそうそういなかったからだ。
「――何でもお見通しってところか」
「やっぱり……。ってか、分かり易いにもほどがあるんだよ、お前の場合は……。――で、フラれたのか?」
「そう……なるのかな」
何かを思い返すように遠くを見つめてぼそりと呟いた仁に、松下はがっくりと頭を下げて呆れたように言った。
「お前がフラれるとか……世の男たちの絶望の叫びが聞こえてきそうだぜ」
代々αの血統を継ぐ名家。父親は国内外の高級リゾートホテルを経営し、母親は日本舞踊の家元。その一人息子である仁は一流大学をトップの成績で卒業。最高の条件を提示し、彼を欲しがる企業はいくつもあったが、自分のやりたいことをやるという信念のもと、この株式会社U総合開発に就職したという変わり者だ。
自分の秀でた能力を鼻にかけるαとは違い、周囲に気を遣わせない彼なりの努力で今の地位を確立している。
営業成績は良くて当たり前。容姿端麗でパーフェクトな営業マン。その概念をことごとく打ち壊してきたのが彼だった。だから自身がゲイであると公言したり、上司にこっぴどく怒られている姿をスタッフに晒したり。
「自分は特別な人間ではない」と周囲に知らしめていた。
営業部だけでなく社内でも仁の事を悪く思う者はいない。持ち前の愛嬌と人懐っこさで、むしろ可愛がられている。
その苦労を知っている松下だからこそ、仁が思い悩んでいる姿を放ってはおけなかったのだ。
もちろん、彼が上司である圭志に熱を上げていることも知っていた。
「別に……。俺だって人間だから、フラれることもある」
「まあな……。今回は相手が悪かったと思うぞ? え~と何年越しの片想いだっけか?」
「二年……」
「長いよなぁ。その間にお前に声かけてきた男、何人フッた?」
腕を組んだまま、過去にフラれた男たちに同情するかのように松下が何度も頷く。
それを視線の端に捉えていた仁は大きなため息と共に低い声で言った。
「フッたんじゃない。興味がなかっただけだ」
仁の言葉に松下はゆっくりと顔を上げた。わずかに目を伏せたままの仁の横顔をじっと見つめる。
男にしては長い睫毛を小刻みに揺らして何かにじっと耐えている姿は、まだ彼の中で完全に終わっていないことを意味していた。
「――まだ、確定ってわけじゃないんだろ?」
「え?」
「だからぁ。係長だって浮いた話聞かないし、何よりイケてても無表情でドSな男を好きになるヤツなんて、そうそう現れるもんじゃないって言ってるんだ。お前ぐらいだろ……そんなモノ好きは」
「松下……」
「未練タラタラって顔してるなよ。お前らしくない……。何なら、尻尾振りながら後ろから押し倒して、マウンティングするぐらいの覚悟で当たって砕けろよ。――って、お前に圧し掛かられたら、まず逃げられないと思うけどな」
唇の端を片方だけ上げてニヤリと思わせぶりに微笑んだ松下は、ポンッと仁の肩を軽く叩いてから自分のデスクに戻って行った。
そして何事もなかったかのようにファイルを広げ、ペンを片手にこめかみに指先を押し当てている。
仁はゆっくりと肩越しに振り返り、圭志の座るデスクを見つめた。
ノンフレームの眼鏡のブリッジを中指で押し上げて、斜に構えたまま書類に目を通す姿は誰が見ても近寄りがたい。
まるで見えないシールドに包まれている。誰も近寄らせない。誰にも触れさせない。
しかし、仁の腕の中で頬を上気させて達した彼の姿を知っているだけに、それが本当の姿でないことは分かっていた。それだけじゃない。マンションでの取り乱した様子は、普段冷静沈着を貫く彼とは思えないほど、見ている方が息苦しさを感じた。
『お前が今見てるものは全部ウソだって言ったら……。それでもお前は、俺を信じられるのか?』
その言葉が今も頭から離れない。
彼が吐いている嘘――それが何なのか知りたい。
いや、正確に言うのであれば、それを知ったうえですべてを受け入れて愛したい。
何を信じ、何を疑う……。
仁の中にある真実とは、圭志のすべてだった。
彼が嘘だというのなら、それを真実だと認めよう。彼が信じないというのなら、信じるまで語り合おう。
そして、彼が望み、手を差し出してくれるのなら、その手を掴んで離さないと誓おう。
「――まだ、終わってはいない」
仁は自分に言い聞かせるように、そして見つめる視線の先にいる圭志に甘く囁くように――そっと呟いた。
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