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【4】
「いい加減にしろっ! 何年、営業やってるんだっ」
朝の穏やかな空気を一気に凍りつかせたのは、圭志の怒鳴り声だった。
そのデスクの前には、叩きつけられた企画書を拾い上げる仁の姿があった。
普段は声を荒らげることのない圭志が、フロアで部下に向かって怒ることなど一度もなかった。
無表情で冷たく突き放す――それが彼のスタイルだ。
それ故にスタッフから脅威とされ、圭志の顔色を窺うようにして近づく者がほとんどだった。
「――すみません。作り直します」
悔しそうに唇を噛みしめた仁が迷いなく顔を上げ、真っ直ぐに圭志を見つめた。
強い意思のある栗色の双眸に見えたのは、怒りでもなく、悲しみでもなかった。
もがき苦しんでいる圭志に向けられた憐みの眼差し――いや、そこには深い慈しみがあった。
「古崎……係長」
「なんだ?」
「――俺、諦めませんから」
平等だと言いながらも、見えない格差に縛られたこの世界。プライドが高いαを頭ごなしに叱れるのは、それ以上の能力を持ったαだけ。
圭志にはそんな能力も権利もない。しかし、仁の前では嘘を吐き通したかった。
自ら終止符を打った恋。でも、そんなことで泣き崩れる弱い自分を見せたくなかった。
あわよくば、同じαとしてもう一度あの関係に戻れるかもしれない……そう思いたかった。
彼に吐き続けてきた嘘がバレなければ、自分はαのままで彼のそばにいられる――そう思った。
「諦めません……から」
企画書と自身の事。どちらにも解釈出来るような意味深な言葉を繰り返した仁から、圭志はすっと目を反らした。
「勝手にしろ」
トクン……。落ち着こうと何度も宥めてきた心臓が大きく跳ねた。
咄嗟に、上着のポケットに忍ばせたピルケースを手で押えこむ。
あの日――仁の舌でイカされた日から圭志の体は確実に変わっていた。
Ω特有の発情を抑え込むために常用していた強力な抑制剤が効かなくなり始めていた。日に日に飲む間隔が短くなっていく。
子を成す器官に影響を与え、その機能さえも奪った副作用。医師からも、これ以上の薬は命を削るだけだと止められている。
今まで騙し騙し飲み続け、Ωであることを隠し続けて来たが、そろそろ圭志の身体も限界に近づいてきているようだ。そうなったらもう、この会社にはいられない。
αであると言い続け、次期課長の椅子にまで上り詰めたΩ。
しかし、その事実を知られたら、上層部は即刻なかったことにするだろう。
そして、本社に影響を与えることのない小さな支店にでも飛ばされるのがオチだ。
いくら努力してもΩの限界はすぐそこにある。
αと肩を並べることも、さらに彼らを超えることも許されない。
分かってはいる。でも――許されない相手に抱いた恋心は、そう易々と治まってはくれなかった。
日に日に増していく仁への想い。それは今まで以上に彼を必要としている。
あの夜から、彼を想っての自慰がやめられない。何度自身を慰めても、達することの出来ないもどかしさと寂しさに毎晩押し潰される。
心と体に傷を負ったあの時から自然と遠のいていた行為。自身の中ではもう枯れ果てたと思っていた体が、仁の舌先によって再び燻り始めてしまったのだ。底知れぬ快感と幸福感を知ってしまった今、いつ燃え上がってもおかしくない。
それだけはいけないと自制し続ける日々。
(イキたい……。イカせて欲しい……)
そればかりを望んで仕事にも集中出来ない。やはり、子を成す為だけに与えられたΩの血には逆らえないのだろう。疼く体を持て余し、あの快感を得られるのであれば誰に抱かれてもいい――一度は死んだはずの淫らな血が覚醒してしまった。
「――っく」
息苦しさに胸元を押え、デスクに片手を付いた。
それを見た仁がわずかに目を見開く。咄嗟に差し出された手を乱暴に払いのけ、圭志は彼に背を向けるようにして歩き出した。
「古崎さ……係長っ」
今までのように言いかけて、慌てて言い直す。それもまた仁にとっては大きなストレスになっていた。
仁の声を振り切るようにフロアを出た圭志もまた、その呼び方に恐怖を感じていた。
今までの関係をなかったことにするかのような敬称。圭志はそれが嫌でたまらなった。
何事もなかったかのように今まで通りに装ってくれると信じていた――のに。
トイレに駆け込み、個室に入るなり上着のポケットの中を探る。
なかなか出てこないピルケースにもどかしさを感じ、イライラが募っていく。
「くそっ! なんで……っ」
やっと取り出したケースからタブレットを一つ取り出すと、躊躇なくそれを口に放り込んだ。
緊張で渇ききった喉に無理やりそれを流し込んで、小さく数回むせた後にドアに背を預けて大きく息を吐いた。
激しく高鳴っていた心臓がゆったりとした循環へと変わっていく。額にかいていた汗も先程よりは治まってきていた。
震える指先でケースの蓋を閉じる。即効性ではあるが、ムカつくような胃の不快感と腹の奥を締め付ける疼痛は避けて通れない。
首元のネクタイを緩め、深呼吸を繰り返す。
熱で曇った眼鏡を外しポケットにねじ込むと、乱れた前髪を何度もかきあげた。
額の汗で張り付いた毛先が、圭志を余計にブルーな気持ちにさせた。
人差し指の絆創膏はもうない。コピー用紙で切った傷もそこには残っていなかった。
仁の感触を封じ込めたものが一つ、また一つと消えていくたびに、圭志の心には空虚な想いが広がっていった。
「もう……何も、思い出せない」
苦しそうに眉根を寄せた圭志は、きつく結んだ唇を震わせて呟いた。
自分の中にあった仁の想いが消えてしまったようで辛かった。
何かにつけて体に触れていた手。その感触の記憶さえも曖昧になってしまうほど、彼は圭志に触れようとはしなかった。
背後から腰に回した腕の強さ、優しく襟足を弄る指先、耳に近づけた唇から紡がれる愛の告白。
圭志は両腕で自らを抱きしめるようにして蹲ると、その場で声を殺して泣いた。
仁が咥えて離さなかった指に幾筋もの涙が伝い落ちていく。
肩を震わせて嗚咽を堪え、いつ誰が来るとも分からないトイレで泣く。こんなことが自身に起こると、誰が想像出来ただろう。
αという鎧は見た目はいいが、脆くて儚い。それを纏い、偽りのまま生きてきたΩである圭志は、鎧よりももっと繊細で憐れだった。
「運命なんて……も、絶対に……信じない」
圭志の心と体を傷つけたのが運命だとするならば、仁に出逢ったこともまた運命なのだ。
自分に降りかかってくる運命は全て絶望へと導く。
暗闇の中でもがき苦しむだけの人生だというのならば、それを素直に受け止めるしかない。
何度もしゃくりあげ、薄らと開いた視界は涙で滲み、それ以上何も見ることは出来なかった。
*****
鬱々とした日々が過ぎ、圭志の精神状態は限界に近づいていた。
社内で仁の姿を見るだけで吐き気を催し、元来一日一回の服用でいいはずの抑制剤も二時間おきという頻度になっていた。
不眠にイライラ。食欲もなく暇さえあれば自分を貶めることしか考えない。
医師にも相談したが、身体的な問題は何一つないと言われ、おそらく薬の過剰摂取によるホルモンバランスの崩れからくる体調不良だと診断された。
しかし、その原因は圭志が一番よく分かっていた。
ただでさえ神経質そうな相貌がさらにストイックになっていく。同僚たちも黙って見て見ぬふりを貫くことも難しくなっていた。
しかし、日々舞い込んでくる仕事を疎かにすることは出来ない。仕事は仕事と割り切り、その日もスタッフ全員が帰宅してもなお一人で残業をこなしていた。家に帰っても誰が待つでもない。それならば、悶々とした時間を過ごすよりも仕事に打ち込んでいた方がどれだけマシか……。
疲労感を覚えながらもエレベーターに乗り込んだ圭志は、ピルケースから取り出したタブレットを一錠、口に放り込んだ。
カリリ……と奥歯で噛み砕き、その苦さに顔を顰める。
とりあえず帰宅するまでの時間稼ぎだ。これで電車内でのトラブルは回避出来る。
何度も唾を呑みこんで、喉に残る苦さを流し込んでいると、エレベーターは一階に到着した。
扉が開き、正面に自動認証機とエントランスホールが見えた。
小さく息を吐きながらエレベーターを降りた時、大理石の床を踏む靴音に気付いて何気なく視線を向けた。
「――お疲れさまです」
低い穏やかな声がすぐそばで聞こえ、圭志は反射的に足を止めた。
「大名……」
「一人で残業とか……。それって部下がやるもんじゃないんですか?」
フンッと鼻で笑ってあしらうように冷たい視線を向けた圭志は、そのまま歩き出そうと足を動かした。しかし、不思議なことにその体はそれ以上先へ動くことはなかった。
強く掴まれた二の腕は力任せに引寄せられ、圭志は仁の腕に囚われるように抱きしめられていた。
ふわりと香る香水。その陰で微かに汗の匂いが見え隠れしている。
それが瞬時にオスのフェロモンに変わった。
「何をする……っ。放せっ」
「もう逃がしません。これ以上は……俺も限界です」
「な、何を……言ってる?」
耳元に寄せられた彼の唇。そこから吐き出される息は荒く、圭志の耳殻を優しく撫でた。
「――チョコレートの匂い。最近、以前より強くなっていること……気付いていましたか?」
「え……」
「運命の番を無意識に引寄せるフェロモン。その香りに気付いていたのは俺だけ……。この意味、分かりますよね? 古崎……さん」
その匂いを再確認するかのように首筋に鼻を押し当てて、すぅっと息を大きく吸い込んだ仁に圭志は冷たく言い放った。
「――運命の番なんて存在しない」
クスッと笑った仁が、不意に圭志の耳朶を甘噛みし、舌先で耳殻をなぞった。
瞬間、ゾワゾワとしたものが腰から背筋を駆け上がり小さく体が跳ねた。
(何なんだ……今のはっ)
自身に起きたことが理解できずに、瞠目したまま動きを止める。
彼の大きな手が上着の合わせから忍び込み、ワイシャツ越しに胸の突起を愛撫する。しかし、そこからは今しがた感じた感覚は全く感じられない。
「それを今夜、完全否定してあげますよ」
「何を言っている? おい、大名……っ」
「無自覚のままに俺を誘っておいて……。本当に罪な人だな」
「誘うって……。俺は何もしていない! この手を離せっ」
暴れてみるが、体格がそう変わらない――いや、むしろ仁の方が筋肉質でがっしりしているために、その動きをいとも簡単に封じられてしまう。
しかし、相手は五つも年下で部下だ。ここで流されたら上司としての威厳は保てない。
「離せって……言ってんだろっ!」
圭志の体を包み込むように回された力強い腕が、抗う彼の体をきつく引き寄せる。
まるで罠にかかった獲物を鎮圧するかのような太い縄。そう――圭志は仁の腕に囚われたまま逃げ出すことはもとより、その動きさえも封じられてしまった。
胸元に顔を押し付けたまま、肩で荒い息を繰り返す。その度に、仁の香水の香りとΩ特有のスパイシーな香りが鼻孔をくすぐり、頭の芯がぼんやりとし始める。
いくらαだと偽っていても、体は正真正銘のΩだ。その機能を失っていてもαのフェロモンに当てられないΩはいない。体が触れ合うたびにその濃度は増し、それを吸い込んだ圭志の思考もだんだんと曖昧なものになっていく。
「やめ、ろ……。放せ……」
その声も心なしか力ないものへと変わっていく。
仁は圭志の頭を掻き抱くようにして首筋に顔を埋める。
「はぁ……はぁ……。もう、ホントに……我慢出来ない」
低く呻くように呟いた仁は、ばっと勢いよく体を離すなり圭志が首からかけていた社員証を強引に外すと、自動認証機に歩み寄り自身のそれと一緒にかざした。ピッという電子音と共にゲートが開き、その間を圭志の腕を掴んだまますり抜けた。
「おいっ」
縺れる足もそのままに、半ば彼に引き摺られるようにしてエントランスを抜けた圭志は、彼が待たせていたであろうタクシーの後部座席に押し込まれた。
「Y駅西口まで。急いでくれると助かる……」
「おい! 大名っ!」
逃げようとする圭志の行き場を塞ぐように後部座席に乗り込んだ仁は、迷うことなく行先を告げるとそのまま黙り込んだ。
二人の間に置かれた鞄。その陰では先程から仁が指を絡めて離さない。
圭志は顔を背けたまま、ただ流れていく景色を見つめていた。
行き先はY駅西口――。もしも間違っていなければ仁のマンションの近くだ。
エレベーターホールで待ち伏せされ、半ば拉致同然にタクシーに押し込まれた圭志。
(これからどうしろって言うんだよ……)
幸い抑制剤はエレベーターの中で服用済みだ。もし、マンションに連れ込まれてもさっさと話を切り上げて帰宅すれば十分に間に合う。
圭志が一番恐れていたことは、仁の前で薬の効果が切れることだった。
ほんの些細なことでΩとしての淫靡な血が目覚めてしまった今、自身がどうなるかということは安易に予想が出来た。
純血のαのフェロモンに当てられ、その子種を欲する本能には逆らえない。
でも、圭志の体は何事にも反応しない。
体内では吐き出すことの出来ない熱に犯され、気が狂いそうなほどの苦痛に苛まれる。
たとえそれが、密かに想いを寄せている仁であっても、その大きな手で愛撫を繰り返しても絶頂を迎えることは不可能なのだ。
そしてまた自己嫌悪に陥り、すべてを失っていく……。
(イヤだ……。怖い……)
無意識に力を込めた指先を温かい掌がそっと包み込んだ。
すべてを失ったはずの――かつて小さな傷があった人差し指に触れる。
「ん――っ」
シートに凭れたまま喉を反らせて、体中に満ち始めた熱を逃がすかのように吐息が漏れた。
それに気づいた仁は、わずかに口元を綻ばせてスッと目を細めた。
タクシーの車内に充満する甘くほろ苦いチョコレートの香り。彼の吐息と共に広がったそれを運転手に気付かれないように、仁はそっと圭志の唇を塞いだ。
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