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【5】

 圭志が仁の部屋の寝室にたどり着いた頃には、もう自力では立っていられないほど意識が朦朧としていた。  運転手の目を盗み重ねられた唇。最初は触れるだけのキスだった。しかし、仁の舌先が口内に侵入してきた瞬間、圭志の頭の中は真っ白になった。  唾液を絡ませるように動く舌先が、口内の粘膜をなぞっていく。それだけで腰の奥がジンと疼き、知らずのうちにだらしなく腰を突き出すようにシートに凭れていた。  クチュリと水音を立てて舌を絡め取る仁の舌の熱さに思考がすべてダウンした。  ぐったりと力なく身を任せる圭志を抱きかかえるようにして自宅マンションの部屋に入り、寝室のベッドに横たえる。  素早くネクタイを解き、それで両手首を縛り頭上へと上げた。  熱い息を繰り返しながら胸を上下させる圭志の乳首が硬くしこり、ワイシャツに透けて突起しているのが分かる。  それを横目に、ベッドの端に腰かけると仁は不意に彼に触れていた両手を離した。  その手を自身の腿の上で硬く組み合わせ、ぐっと唇を噛みしめた。 (こんなことをするつもりじゃなかった……)  強引に動きを封じ、本人の同意なくマンションに連れ込むなんて。これでは犯罪そのものだ。  しかも彼は直属の上司。いくら恋焦がれていると言っても到底許されることではない。 『運命の番』と思ってやまない圭志のフェロモンが予想以上に仁の本能に影響を与えたようだ。以前から気になっていた彼から発せられるチョコレートの香り。  今はそういった趣向の香水も販売されているが、圭志に限ってそれを好んで使っているとは思えなかった。  松下をはじめとする同じフロアの同僚にさりげなく聞いてみたが、圭志からチョコレートの匂いがするという意見に賛同は得られなかった。  同種同士――α同士でも『運命の番』と呼ばれる者同士ならば相手にしか分からないフェロモンを放出すると言われている。その香りは様々で、まさに仁と圭志に当てはまる。しかし、それが異種――αとΩだった場合、Ωが放つフェロモンは甘い花の香りだとされ、その香りはαの理性を司る場所を完全に麻痺させ、自分の子種を後世に残すことだけしか考えられなくなるという。  Ωもまた引き寄せたαのフェロモンによってその体は男性でもメスへと変化し、相手の子種を受け入れるようになる。  圭志が纏うチョコレートの香りを嗅ぎ分けることが出来たのは仁ただ一人。それこそがまさしく『運命の番』なのではないだろうか。  それなのに二人の想いはすれ違い、間に出来た溝は縮まるどころか広がっていくばかり。  あの日を境に、圭志の様子もおかしくなっていることに気付いていた。フロアでも頻繁に薬を服用することが増え、何かから逃げるかのように仕事に没頭する時もあった。  傍から見たら『何かに憑りつかれている』ようにも見える彼の変化。その原因を作ったのは自分かもしれないと仁は思っていた。それ故に彼に近づくことが出来ず、ただ見つめている事しか出来なかった。  そんな仁を突き動かしたのは、何気なく目にした圭志の涙だった。  人気のない廊下に佇み、苦しそうに眉を顰めたまま俯いていた彼の頬に流れていたのは、紛れもない涙の滴だった。 (もう、これ以上見ていられない……)  そこで、圭志の帰りを待ち伏せたという次第だ。  何度か苦しそうに身を捩っては荒い息を繰り返す圭志を見下ろし、必死に欲望を押し留める。持ちうる限りの理性をフル稼働させて、仁は目覚めた彼に対しての謝罪のセリフを何度も頭の中で反芻していた。  もしかしたら、二度と溝は埋まることはなく、このまま離れてしまうかもしれない。  そんなリスクを承知で行動に出たのも、圭志の苦しげな表情が目の前をチラついたからだ。  先程から、乱れた髪が汗ばんだ額に張り付き、鬱陶しそうに眉を顰める。その毛先を払いのけてやろうと指を伸ばしかけてやめるという繰り返し。  今、触れてしまったら、自身を制御出来なくなることは目に見えていた。  ぐっと拳を握りしめ、再び腿の上に押さえつける。  その時、顔を背けたままの彼がぼそりと呟いた。 「――これを、さっさと解け」  ネクタイで縛られたままの手を動かしながら、呆れたように大きくため息を吐く。 「お前がなぜ、こんな真似をしたか問い詰める気は毛頭ない。俺は帰る……」  タクシーの中で仁のキスによって焦点が合わなくなった瞳。しかし、それはただ闇雲に彷徨うだけでなく、彼の本能が何かを模索しているようにも見えた。  他人を自分のテリトリーに近寄らせないと躍起になる反面、虚しいだけの心と体を包み込んで欲しいと願う彼の無言の叫びにも聞こえる。 「――嫌です」  きっぱりと言い切った仁は「なんだと?」と振り返った圭志を見下ろし、まだ湿り気を残す唇を指先でぐっと押えこんだ。  ワイシャツの襟元からのぞく綺麗な鎖骨のラインは美しく、三十代の男とは思えないほど肌も白く張りがある。  圭志の知らない誰かがこの肌に触れたと思うだけで、苛立たしさに奥歯を噛みしめたくなる。  今すぐ、強がりばかりを吐き出す口を塞いで全てを奪ってしまいたい。  しかし、それを阻止したのは圭志の吐き捨てる様な言葉だった。 「早く解けっ! 今なら、全部なかったことにしてやる」  語気を荒げた圭志が体を捩って、その反動で起き上がろうと試みる。しかし、マットレスに沈んだ体はそう上手くは立て直せない。  着ているスーツが皺になることも気にせずに動く圭志を仁はただ見つめていた。 「おい! 大名っ!」  叫んだ圭志の視線が寝室の壁に掛けられた時計と仁を交互に見つめる。それほど激しく暴れているわけではない。それなのに額には再び玉のような汗を浮かせ、呼吸も心なしか荒くなってきている。 「いい加減に……しろっ」  何かに堪えるかのように奥歯を食いしばりながら、腹の底から唸るように声を吐き出す。  追い詰められているような切羽詰まった様子に、仁は抑揚なく唇を動かした。 「薬――。薬が切れるから焦っているんじゃないですか?」 「な――っ」 「ここのところ、フロアで貴方が薬を飲んでいるところを何度も目にしました。あの薬……もしかして」 「お前には、関係ない……だろっ」  ギリリと歯を食いしばりながら睨みつけた圭志の目が心なしか潤んでいることに気付く。  感情を見せることのない彼が、ハァハァと荒い息を繰り返しながら眼鏡越しにその瞳を鋭く光らせる。  白い首筋を流れ落ちる汗がワイシャツを濡らしていく。それほどまでに発汗し、むせ返るほどのチョコレートの甘い香りを放つ圭志に、仁は今まで口に出すことのなかった圭志への疑念が初めて確信へと変わった。 「古崎……さん。貴方、Ωなんじゃないですか?」 「バカを言うなっ」 「バカを言っているのは貴方のほう。俺……貴方のこと、いろいろ調べました」 「え……?」 「――でも、核心に迫ることは何一つ見つけられなかった。俺、貴方ならいいんです。αだろうがΩだろうが、そんなの関係なく貴方が好きなんです。もう、何かに苦しんでいる貴方を見ていたくないんですよっ!」 「大名……」 「過去も消して、αと偽って……。でも、何一つ変わっていないんじゃないですか? 古崎さん、貴方の全部……教えて下さい! 俺……貴方といると自分が抑えられなくなる。これって運命の……」 「そんなものは存在しない!」  言いかけた仁の言葉を鋭く遮った圭志は彼に背を向けるように寝返ると、背を丸めるようにして自身の手をぐっと握りしめた。  それを胸元に押し付けてから自分に言い聞かせるように何度も小声で呟く。 「そんなものは……ない。運命なんて……存在しない」  近づくなとでも言いたげに肩が小刻みに震える。でも仁には、それが「助けて……」というメッセージに見えて手を伸ばさずにはいられなかった。  彼のすぐそばに肘をついて背中に寄り添うように横たわり、最初は触れるだけ……そして、ゆっくりと時間をかけてそっと撫でた。  ビクッと大きく震えた肩を抱き寄せるように両手を回すと、圭志の汗ばんだ項にそっと唇を寄せる。  ほろ苦いビターの香りが仁の鼻孔をくすぐり、火照ったように体が熱くなるのを感じずにはいられなかった。 「――触るな」 「嫌です」  まるで媚薬のように仁の体を支配していく甘い香り。普段は理性で抑えこまれているはずのαの血が徐々に目を覚ましていく。それは生まれてから今まで経験したことのないような愛しさと欲求。  腕の中で震える圭志が、今まで体を重ねた男たちとは比較にならないほど愛おしくて仕方がない。 「古崎さん……」  彼の前に回された大きな手がワイシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。  その手を咄嗟に掴んだ圭志は、小さく首を横に振ると苦しげに言った。 「何も……。何も感じない。そんなことをしても無駄だ」 「どうして? あんなに可愛い顔でイッたくせに、どうして『感じない』なんて言うんですか?」  コピー室で見せた痴態。仁はそのことを言っているのだとすぐに分かったが、圭志は即座に反応することが出来なかった。  彼を信じていないわけじゃない。でも――怖い。  またあんな酷い目に遭うのなら、恋人なんていらない。ましてや結婚なんてまっぴらだ。  Ωとしての機能を失った男に何の価値があるというのだろう。 「――ダメなんだよ。俺は……何の価値もない」 「おかしなことを言うんですね? 俺にとってはどんな宝物よりも貴方がいい。貴方さえいれば、何もいらない……」 「信じない……。もう、誰の言葉も信じない」  圭志の手から逃げるように仁の大きな手が胸元から腹へと移動していく。その動きは優しく、そして不快感を全く感じさせない。それなのに圭志はその感触を味わうことが出来ずにいた。  掌から伝わるであろう愛情も、今は何も感じることは出来なかったのだ。  彼の長い指が上着のポケットに忍び込む。指で挟むようにして取り出したピルケースを上にあげてすっと目を細めた。 「やめろっ!」  それを取り返そうと体を捩った圭志を動きを素早く封じて、仁はケースを数回振ってみせた。  圭志が常時服用しているタブレットが残っていればカラカラと渇いた音がするはずだった。しかし、音は聞こえては来ない。会社のエレベーターの中で飲んだ薬が最後の一錠だった。  二時間あれば帰宅できると踏んだ圭志の予定が狂ったのは、あのエレベーターホールで仁の姿を見た時からだった。 「――空っぽですね。もしかして、薬……切れちゃったとか」 「黙れ! そんなんじゃ……ない」 「ここに入っていた薬。一体、何の薬だったんですか?」 「お前には関係……ないっ」  ハァハァ……と息遣いが荒くなっていく仁に気付いた圭志は、耳にかかる熱い息にゾクリと背筋を震わせた。 「これ、飲まないと……どうなっちゃうんですか?」 「うるさ……い」  指で挟んでいたケースをベッドの下に放り投げると、仁は意地悪げな笑みを浮かべて圭志の耳朶にそっと歯を立てた。  フローリングの床にカツンと乾いた音が響く。 「ん――」 「何の薬か、当てましょうか?――これは、抑制剤。しかもかなり強力なヤツ」 「違……っう!」 「嘘――。古崎さん、もう嘘つくのやめてください。俺は貴方のすべてが知りたいんです」  そういうなり、仁が耳殻にそって舌先を這わせた瞬間、圭志の体が大きく跳ねた。 「んあっ」  全身の毛穴が開くかのように汗がどっと噴き出す。たったそれだけの事なのに、体のどこかしこが熱くて堪らない。  圭志は肩で息を繰り返しながら、自身の指が白くなるほど強く握りしめた。  解き放たれるかのように広がった甘い香りを肺一杯に吸い込んだ仁は嬉しそうに、首筋に伝う汗を舌先で掬い取った。 「ん――。あぁ……っ」 そして、圭志の腰から腿へと手を移動させ、兆しているであろう場所を掌で包み込む。 薄いスラックスの生地越しではあるが、その部分は熱を発しながらはっきりと形を変えていた。仕事中に何度も、セクハラともとれる行為で触れてきた場所でありながら、その形を指で感じるのは初めてのことだった。 「――勃ってる」 「やめ……ろ」 「イキたいでしょ……? 古崎さん」 「黙れっ! 離せっ!」 「もう、素直じゃないなぁ……。そんなところが堪らなく可愛くて愛おしんだけどな」 「年下のクセに……生意気を、言うなっ」 「生意気で結構。でもね……俺は古崎さんを気持ちよくさせてあげることが出来る。――お願いです。薬が完全に切れて自我を失う前に全部……話してくれませんか? もう、嘘つく必要ないでしょ?」 「なに……」 「もう、分かってるんでしょう? 自分の気持ちがバレない様に吐いてきた嘘……。自分を守るために重ねた嘘……。もう、必要ないって言ってるんですよ。貴方のことは俺が守る……。年下の俺じゃ頼りにならないなんて、冷たい事は言わないでくださいよ? 今までみたいに……」 「大名……。お前……」 「――分かってます。全部聞いちゃったら後戻りは出来ませんからね。墓場まで――いや、死んでも貴方と離れないと誓いますよ。それほど貴方を愛してる……。他の誰の言葉も信じなくていい。俺だけを信じて……ください」  背中から伝わる仁の熱に嘘はなかった。  密着した部分から心臓の高鳴りが聞こえ、彼の舌先を欲して体が疼き始める。 『運命の番』と言われていた許嫁だった男からは感じることのなかった何か……。  その何かを信じてもいいのだろうか……。  圭志はまだ、仁の言葉を信じきれずにいた。でも――こんな状況で力任せに組み敷くこともなく、荒い息を繰り返しながらも自分を戒め切々と愛を囁く男を一刀両断するほど圭志は強くなかった。  力を宿したその場所を愛撫する指先に感じることはまだ出来ずにいる。しかし、彼の舌先はそんな愛撫よりも熱く、圭志の心を緩やかに解いていく。 「そ……そんなこと、易々と信じられるわけ……ないだろ」  仁の体温を感じる背中が心地いい。それなのに、口を突いて出る言葉は辛辣で、どこまでも自分を貶めていく。  どうしたら素直になれる? どうすれば心の傷を癒していける?  自問するが、その答えは何一つ返って来ない。  そうしている間にも圭志の体は確実に発情していった。熱を孕んだ体は吐き出す術を知らない。  仁の愛撫でも感じることの出来ない体が疎ましい。  どうすればあの時のように楽になれる? どうすれば――。  ベッドスプレッドを引寄せるように握りしめ、きつく唇を結ぶ。ロクな言葉を発さない口をこうやって塞いでおかないと、今度は彼を傷つけることになる。  悶々とする彼の背後で仁は、急に黙り込んだ圭志を覗き込むように上体を持ち上げると、不意に彼の両肩をぐっとマットレスに押し付けてその体に覆いかぶさるように組み敷いた。  突然の彼の行動に驚き瞠目する圭志の目を見つめる彼の目は鋭く、どこまでも真剣だった。 「相手に理解してもらうためにはまず……。相手の目を見て話すことが基本でしたよね?」 「あ……」 「貴方を……愛しています。だから――全部話してください。俺は逃げません……。『運命の番』に出逢えたんだから……」  そう言いながら圭志の眼鏡をそっと外すと、ベッド脇に置かれたサイドチェストに丁寧に置いた。  視界が滲む。それは眼鏡がなくなったせいではなく、涙のせいだと気付くまでに少しの時間がかかった。  頬を伝う幾筋もの涙を、仁の指先が拭っていく。 「もう嘘は吐かないで……。俺は貴方のすべてを知りたいから」  自分を見下ろす仁の栗色の瞳には情けないほどに歪んだ顔が映っている。こんな顔を部下に見られることほど恥ずかしいことはない。  それでも圭志は泣きながら薄い唇を強引に引き上げて笑顔を作ろうと努力した。それが更に酷い顔になったとしても嘘偽りのない自分自身だという証明になる。 「逃げ……るなよ」 「上司を――いや、最愛の男を置いていけるほど俺は神経図太くないですから。逃げたくなったら、その時は貴方も一緒です……圭志」  低い声でその名を呼ぶ。溢れ出した涙に唇を寄せて、宥めるように髪を撫でる仁の温もりに、圭志は小さく頷いた。

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