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三日前

 二月に入った頃からじわじわと世間を染めていったその色は、節分を終えて鬼が消えていくのに合わせて、瞬く間に広がっていった。  赤とピンクと艶々とした濃いチョコレートの色、そしてハートの形。  それらが彩るのは愛と恋人の日、すなわちバレンタインデーである。  そんな一大イベントを三日後に控えたある日のことだった。    事の発端は、例によって唯の軽率な発言である。 「一四日はやっぱりあいつと過ごすの?」  少女漫画の登場人物のような量と長さの睫毛に縁取られた明るい緑色の瞳が、にんまり、と細められている。薄めで形の良い唇は綺麗な弧を描いていた。人気バンドBlackStrawberry、通称ブラストのカリスマ的ボーカル、唯は端正な美しい容貌で、にまにまと悪戯っ子のような笑みを見せる。希望(のぞみ)はそのギャップに慣れてしまったので、キョトンとして首を傾げた。 「何がですか?」 「バレンタインデー」  唯は目の前に積み上げられた山から一つ手に取る。希望の前にも同様に贈り物の山があった。  事務所のチェックを通過し、二人の手に渡ることが許された贈り物だ。いつもより赤とピンクが多めで彩られ、甘い香りが漂っていた。  事務所の方針で食べ物は受け取れないことになっているからチョコは処分されてしまったが、その残り香で十分酔いそうだと唯は思う。    しかしながら、甘い香りの原因は同じ部屋でブラストのメンバーであるノアが今まさに大量のチョコを夢中で頬張っていることにもある。  世間では『合法ロリショタ』と呼ばれているノアは二四歳にして中学生か下手すれば小学生のようなあどけない外見と内面を維持している奇跡の存在だった。外見にふさわしく甘いものが好きで、今の時期はひたすらにチョコ、チョコ、チョコ三昧。  体臭までチョコになっているのではないだろうかと思われるほどの量を食らっていることを除けば、とても可愛らしい、おとぎ話の世界のような光景である。と、バンドメンバーに対しては些か甘いところがある唯は、そう思っていた。    ブラストにとってはバレンタインの風物詩とも言える光景を確認して、唯は希望に目を向けた。 「お前こういうイベント好きそうだもんなぁ? プレゼントはお・れ♡とか平気でやりそう」 「やりませんけど」 「チョコより俺を食べてください♡ってやっちゃうんだろ。そういうキャラだ。エロいわー」 「やらねぇよ。どういうキャラだ」 「あ、もしかして濃厚チョコプレイ?」 「唯、いい加減にして」 「セクハラで訴えますよ」  希望も唯の幼馴染みであるアキも、唯を睨む。唯が「はーい」と笑いながら適当に答えたので、アキは女と見紛うような優しく美しい顔立ちで呆れたようにため息をつく。そして、申し訳なさそうに眉を下げて希望を見つめた。 「ごめんね、希望くん」 「アキさん謝らないで。俺は大丈夫です」  アキの表情に希望は健気そうな笑顔を見せて安心させる。唯を睨んだ時の軽蔑しきった眼差しとはまるで違う、仔犬のように人懐っこい笑顔だ。 「でも、希望ちゃんバレンタインデー休みだものね。あの人とどこか出掛けたりするの?」  そう尋ねたのはバンドのリーダーである玲央であった。玲央は女性のような柔らかい口調と言葉遣いの凛々しい美青年だ。ノアの隣で、彼がチョコで服を汚さぬように見守りつつも、希望の方に微笑んでいる。「羽目を外さないように、楽しんできなさいよ」とでも言うような、優しい、母親かのような眼差しである。    ここにいる誰もが思っていた。  イベント事が好きな希望は、バレンタインデーもライと恋人らしく過ごすのだろう、と。  付き合い始めの頃の、希望の片想いのような一方的な関係ならいざ知らず、なんだかんだで最近のライは以前と比べると希望に甘い気がする。    よかったね、おめでとう。  さすがは我らの希望。人たらしの怪物。  あの闇の帝王のような男もようやく陥落したのだろう。  むしろ、よく頑張った方だと思う。ライが。    と、そんな想いを胸に、優しく見守るつもりだった。 「え? バレンタインデーにライさんと?」  しかし、希望が不思議そうな顔をしたので、アキも玲央も「あれ?」と首を傾げる。  希望は軽く、明るく、可笑しそうに笑った。 「ないない」  手を横に振って、希望が笑う。 「ライさんがこういうイベントに付き合ってくれるわけないじゃないですかぁ。  あ、優さんおはよーございます」  希望が背後の扉が開いた音に気付いて、振り向き、姿を見せたマネージャーの優にニコッと笑う。そして、またアキに向き直った。 「ライさんイベント興味ないし、チョコとか甘いものも嫌いだもん。一緒にいても楽しくない」  きっぱりと希望が言い切ると、何故かどこかで、ギシリ、と空気が軋むような音がした。  しかし、希望は不穏な気配など微塵も気にせずに、話を続けている。 「だから、バレンタインデーはクラスの友達とチョコフォンデュしに行って、その後チョコフェス行くんです♡楽しみだなぁ♡チョコ好きな子で集まっていくんですけど」  希望がニコニコと楽しそうにバレンタインデーの予定を語り続ける中、その後ろで優が青ざめていく。  それを不思議に思っていたアキと玲央のささやかな疑問はすぐに解決した。  優の後ろから、ライが姿を現したのだ。    アキと玲央は状況を察した。  ライは希望の仕事が終わると迎えに来ることが多い。と言うよりは、余程のことがない限り迎えに来る。希望が事務所にいるなら事務所まで来て、部外者でも入れる待合室に通されて、そこで待っていた。  しかし、今日はファンの大量の贈り物を受け取る日だったので、希望のいる部屋が違うのだ。おそらく、いつもの待合室の来たライを見つけたマネージャーの優は、気を利かせてこの部屋に案内したのだろう。  優は気が利く男だ。仕事もできる。真面目で優しく親切な、とても優秀な男だ。  だから、まさかこういう展開になるとは夢にも思わなかったに違いない。可哀想なくらい青ざめていて、今にも倒れそうだった。  一方、ライの表情には何も変化はなかったが、空気は冷えていく。暖房のよく効いた部屋で温度が下がっていくことなど実際はあり得ないが、空気は凍りついていた。ついでに先ほど空気が軋んだ気がしたのは、ライの怒気の影響かもしれない。    いや、あなたのこと魔王だとは思っているけど、それはあくまでも言葉の綾だから!  ただの人間が怒りで空気を軋ますんじゃないわよ! 世界観守りなさい!  と玲央の心が叫ぶ。    アキはアキで、唯が先ほどから口を押さえて肩を震わせているので、強く睨んだ。  今笑わないで。絶対ダメ。空気読んで。後にして。  と、目で訴える。    さすがに全員が沈黙する異様な空気に気付いた希望が、きょとんとして首を傾げる。すると、なんとなく背後の気配に気付いたのだろう、皆が止める間もなく無防備に振り向いた。同時に、じっと希望を睨んだまま動かないライにも気付く。 「あっ、ライさん!」  希望はパアッと表情を明るくして笑顔を見せて駆け寄った。  修羅場を覚悟していた者たちは「あれ?」と不思議がる。 「優さんが連れてきてくれたの? ありがとう」 「え、あっあの、その……!」  希望と目があって、優がハッとして、ようやく我に返ったのかアタフタとしている。優の挙動不審さを不思議そうに見つめながらも、希望はライを見上げて笑った。 「ライさん、来てくれてありがとう」 「……」  ライが何も言わずにじっと睨むが、希望はにこにこしながら首を傾げているだけだった。  聞かれていないと思っているのか、聞かれても問題ないと思っているのか。  それは希望以外にはわからないことだ。  しかし、いつもは思っていることが顔に出やすい希望が、今はどういう心境なのか、この場にいる全員全くわからなかった。 「あ、荷物取ってきますね」  ライの横をすり抜けて、希望は荷物を取りに部屋を出ていった。  待って、この人残していかないで、と、そんな切なる願いもむなしく希望は行ってしまった。  一気に室内は静まり返り、ノアがチョコを食べ続ける音だけが響く。 「……」  ライが無言で部屋に入り、ソファに乱暴に座る。    あ、待つんだね……。と、アキは思った。  それより追っかけていって真意を問いただせばいいのに! 何黙ってんのよそんなキャラじゃないでしょこんな時に!!  そんな思いを玲央は叫びたかったが、ノアの手や口がベタベタになっているのを拭き取ることで忙しい。 「……ふっ、はは!」  しんっ、と静まり返った室内で、耐えきれずに吹き出したのは唯だった。  にやにやしながらライの向かい側のソファに座る。低いテーブルを挟んで、向き合ったが、ライは僅かに顔をしかめただけだった。 「いやーめっちゃウケるわ」 「……」  ライは答えず、反応見せなかったが、唯は構わず一人で笑う。 「酷いことしすぎたんじゃねぇ? 今までのぜーんぶ真に受けてんだよあいつ」 「……」 「どうせイベントもデートも全部拒否ってたんだろ。いじめすぎ」 「……」 「ざまーみろって感じ」  フフン、と笑う唯を見ても、ライは何も答えない。 「ライさーん、お待たせ!」  希望が勢いよく扉を開ける音に、ライと唯以外も反応してようやく動き出す。希望は紙袋を抱えていた。部屋の中に入りながら紙袋の中に手を突っ込んでモソモソと何かを取り出し、アキに差し出す。 「アキさん♡これどうぞ♡」 「え」  アキは受け取ったものを見る。  可愛らしく、手のひらサイズのハートの形。スペシャルオーソドックス、それでいて一番真っ直ぐに、シンプルに愛を伝えるその形。バレンタインデーのシンボルマーク。 「玲央さんも、ノア先輩も、優さんも♡ついでに唯さんもどーぞ」 「おいおい投げんな投げんな」  一人一人に丁寧に渡していた希望は、最後に唯にはひょいっと投げ渡す。唯はうまくキャッチした。渡さないという選択もできるのに、きちんと唯にも同じように用意しているのが希望らしい、と唯は思う。  投げ渡されたことに関しては、いつかどこかでこいつを泣かせてやると、決して受け流したりはしない。 「ちょっと早いけど、みんなハッピーバレンタイン♡」 「わあ、ありがとう希望♡」  にこにこしている希望にノアも応えて笑って、喜びを表現する。アキも玲央もにっこりと笑って受け取った。  しかし。    このタイミングで――――!?    と、内心叫んでいる。    あ、しかも一人一人にメッセージカードついてる! 手書きだ! 内容もそれぞれ違うわねこれ!  希望くんこういうとこ、こういうとこだよ! だから人たらしの怪物って呼ばれるんだよ!!  言いたいことは数あれど、アキと玲央にとって希望は可愛い後輩だ。今もにこにこと無邪気に笑う希望に、どうして文句なんて言えようか。 「あ、ありがとう希望くん」 「ははは、羨ましいか」  唯がライに向かって、希望からのチョコをひらひらと揺らす。  これ以上挑発しないで! とアキが睨んだ。  アキはこの場でライが激怒することを恐れているわけではなく、この後、家に連れ込まれるであろう希望の身を案じているのだ。誰が原因であっても、ライの怒りの矛先はなぜかいつも希望に向かってしまう。 「ライさんは甘いもの嫌いなんだから、羨ましいわけないでしょ」  しかし、ライが何かを言う前に、希望がピシャリと否定する。  ライがそんな希望を一瞥したが、無言で立ち上がって部屋を出ようと動き出す。希望はライにピタリとくっついて、腕を絡ませた。 「ライさん今日はなに食べたいですか? 俺はね、中華!」 「……うるせえな、黙ってさっさとこい」  むぅ、とすぐに唇をしっかりと閉じて、希望はライについていく。  ああ、黙るんだね……。とアキは希望の素直さに涙が出そうになりながら見送った。  今夜、希望くんが酷いことされませんように、と祈りながら。

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