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前編「希望の遭遇」

 希望(のぞみ)は猫である。仔猫の頃に、兄弟の希美と共に小鳥遊家に引き取られてきた、もうすぐ一歳になる由緒正しき家猫だ。由緒正しき、といっても希望は血統のことはよくわからない。とにかく希望は猫だった。学名はフェリス・シルヴェストリス・カトゥス。  あれ、なんかかっこいいな。もう一回言ってみよう。  フェリス・シルヴェストリス・カトゥス・希望。  ……かっこいい!!    猫の希望はふわふわとした白くて柔らかい毛並みとまるっこい形の濃い金色のお目々が自慢だった。特に胸と尻尾がふわふわだ。飼い主がよく「きゃわわ~~もふもふでちゅねぇぇぇ」と言ってスリスリしてくるくらい、とてももふもふなのだ。兄弟の希美は黒い毛並みで同じようにふわふわしているが、希望のようにもっふもっふというよりは、少し長めでエレガントで、とてもかっこよかった。自慢の兄弟である。  そんな自慢の兄弟には、恋人がいる。雪のように白くて美しい毛並みとサファイヤのような深い青色の瞳の元野良の美猫、ユキという。希望と同じように真っ白いユキだが、毛並みはふわふわというよりは艶々としていて、その身体は成猫だからしなやかで美しい。凛々しく美しいユキと希美が並ぶと希望は嬉しかった。目の保養だ。飼い主が「作画が神、推せる」とぶつぶつ言いながら写真を撮っていたので見せてもらったら、それはそれはお似合いであった。  少し前に色々あって、ユキが小鳥遊家の飼い猫となってからは三匹でよく遊んでいた。しかし、最近たまに、希望は二匹から離れて一匹で遊ぶようにしている。  二匹は新婚さんなのだ。ラブラブだから、イチャイチャしたいはずだ。時々こっそり、二匹が尻尾を絡めているのを希望は知っている。だからこうして、二匹っきりの甘い時間をプレゼントしているのだ。飼い主もきっと喜んでくれることだろう。時々写真を撮っては「男前×美人……いや、美人×男前……? りば?」と呟いている。何を言っているかよくわからないが、飼い主の目は光輝いていたから、きっと素敵なことなのだろう。  希望も素敵だな、楽しみだなと思っている。二匹が結ばれたら、どんな仔猫が来るのだろう、と。  愛する猫二匹が結ばれると、いつの間にか二匹によく似た小さな猫が増えているのだ。希望は賢いのでその事を知っていた。希美に言ったら、うん、ああ、えっと、そうだね、と言っていたので、希美も楽しみなんだろう。神様に遣わされた天使が、そっと置いていくに違いない、と希望は信じている。    今日はいいお天気だったから希望はお外に出てみた。お外と言っても、小鳥遊家のお庭の中だ。希望にとって、庭は十分広くて、ここだけが遊べる『お外』だ。塀の向こう側はよくわからない。興味はあるけど、怖くて出たことはなかった。  お庭にはお花も草もいっぱいある。希望はそこをふらふらお散歩するのが好きだった。それと、こっそり隠してあるボールを追いかけて、走り回れるのが楽しい。おうちの中でやると、夢中になりすぎていろんなものを倒したり壊したりしてしまって、希望は飼い主に怒られてしまう。お外は広いから大丈夫。  希望はしばらくの間、お花を眺めたり、虫をペシペシしたり、ボールを転がして遊んだりしていた。    しばらく遊んでいるうちに、希望は眠たくなってしまった。だんだん動きが遅くなって、ふらふらしてくる。最近暖かくなってきた日差しが希望をぽかぽかと眠りへと誘い込む。  楽しかったけど、もう帰ろうかな。と希望はお家の方へ歩き出した。眠るのは、お気に入りのソファの上で、お気に入りの毛布を用意しないと眠れない。だからお家に帰らなければ。希望はこの心地よさのまま眠りたかった。  それに、実を言うと希望は寂しがり屋だった。一匹で遊ぶのも好きだが、ずっと一匹でいると時々とても寂しくなってしまう。生まれた時から希美にくっついていたし、ユキもいつもすりすりして一緒にいてくれた。寂しいと死んでしまうかもしれない、と希望は思った。  そろそろいいかなぁ、と誰に言うまでもなく家まで戻ってきて、こっそり窓から中を覗いてみる。  カーテンの隙間から、少し離れたところでユキの真っ白い尻尾が揺れていて、希美の黒い尻尾も絡み付いていた。あれ、尻尾だけじゃなくて、なんだか身体全体が揺れている、気がする。    ……あ、やめとこ!!    希望はもう一度そーっと窓から離れて、急いで走った。  衝撃的な光景に、希望はボールのところまで戻ったが、そこからはふわふわふらふらと通り過ぎてしまった。眠気も覚める、一撃だった。あー、えー? と希望はパンクしてしまった頭を何とかして正常に機能するよう努める。    え、ええ? あ、……あー、そういうかんじなんだ?  イチャイチャラブラブ、というか、希美の上にユキさんが、こう、なんかこう、後ろから……、あれがこうなって、尻尾は絡み合って、希美があんな声出して……、あー、えー、そう、……えー……?    雷で打たれたかのような衝撃で、希望の頭はふわんふわんと揺れる。ふらふらと庭を歩き回りながら、希望は家の裏側、暗くなっている奥の方まで来てしまった。  希望はハッとして周りを見渡した。  同じ家の敷地内なのに、日が当たらなくてじめじめして、暗くて、なんだか怖い。  おろおろしながらも、戻ろうと歩き出すと、背後で何かが飛び降りて着地する気配と共に、長く伸びてしまった草が激しく揺れた。それに合わせて動物の断末魔が響き渡って、途切れる。  希望は反射的に振り返って、同時に体勢を低く保つ。草むらの奥で、黒くて大きい物が揺れていた。一度は途切れた動物の最後の呻き声が時折聞こえてきて、希望は黒くて大きな物が鼠を押し潰していることに気づいてしまう。  希望はふるふると震えながら、動くこともできずに、草の隙間から見えるソレを見つめていた。  すると、黒くて大きい物が、ゆっくりと顔を上げて、希望の方に顔を向けた。  希望は悲鳴を上げそうになった。しかし、声が出ない。  希望は、黒くて大きい物が猫だとようやくわかった。艶々とした美しい毛並みは太陽の光さえ飲み込むほどに真っ黒だ。その中で、エメラルドのような瞳だけが鋭く光っている。鋭い牙で、まだビクッビクッと微かに痙攣する鼠の喉に喰いつき、その命を奪おうとしている姿は、希望が今まで見た同じ猫とは思えないほど恐ろしかった。別の生き物のようだった。  その黒猫は震えて隠れる希望をじっと見つめながら、ゆっくりと立ち上がる。黒猫は仔猫から成猫に成り立ての希望よりも大きく、手足も太かった。鼠を咥えたまま、一歩一歩、ずっしりと確実に、希望の方へ歩いてくる。希望は怖くて逃げ出したかったが、動けなかった。そうやって怯えている間にも、黒猫はどんどん近づいてくる。  希望はぷるぷると震えながらも、しゃあっ、と小さな声で威嚇した。ふわふわの毛を逆立てて、小さな牙を見せて、精一杯威嚇する。黒猫は一度は止まって、少しの間首を傾げて、希望をじいっと観察していた。けれど、すぐにまた一歩ずつ希望に近づいてくる。  あまりにも怖くて、みゃあ、と希望が鳴いた、その時だった。  黒猫が上を見上げたと思ったら、その場からサッと後ろへ飛び退いた。希望が疑問に感じる前に、希望の目の前に、白い雪の塊が落ちてきた。しかし、雪に見えたそれは、窓から飛び降りて、黒猫を睨み付けるユキだった。  希望の顔をペロペロ舐めて、すりすりして、ぎゅっとしてくれる、そんないつもは優しくて綺麗なユキの、怖い顔を希望は初めて見た。歯を剥き出しにして、全身の毛を逆立てて、シャアアッと黒猫を睨む。距離を空けた黒猫も、今まで希望に向けていた感情を窺わせない不可思議な瞳に、ギラリと不穏なものを滲ませて、ユキを睨み付ける。鼠を地面に置いて、ユキと同じように、威嚇の姿勢を取る。希望はぎょっとした。黒猫の口の回りは、黒くてわかりづらいが、確かにべっとりと血で汚れていたのだ。希望の中で、恐怖よりも強い感情が押し寄せる。  ユキさんを守らなきゃ! と、希望はユキの前に出た。金色の瞳で黒猫を睨み、毛を逆立てて、威嚇する。今まで震えて怯えていた希望だったが、ユキを危険な目に合わせたくなかった。みゃあ、みゃあっ! と希望は黒猫に抗議した。すると、黒猫は目を丸くして希望を見つめた。威嚇の体勢を緩めて、少し驚いたようにじっと希望を見つめている。みゃあ、みゃあっ! フーッ! と希望が威嚇を繰り返すと黒猫は不意に視線を逸らした。鼠を咥えて、器用にぴょんぴょん、と周囲の物を利用して塀の上に乗る。一度だけ希望を見下ろしたが、黒猫はそのまま去っていった。  ぽかん、としていた希望は、ユキにすりすりとしてもらってようやく我に返った。希望の顔をペロリと一度舐めて、大丈夫? ありがとうね、と優しく首を傾けるユキに、希望は泣きついた。  お家に帰ってみると希美がぐったりしていた。希望はそっとお気に入りの毛布を貸してあげた。  可愛い仔猫、来るといいね。    ユキによると、あの大きな黒猫はライというそうだ。ユキと希美が出会う少し前まで、ずうっとユキと行動を共にしていたらしい。希美と会ったこともあるそうだが、その時希美はぼこぼこにされたらしい。なんという奴だ、と希望は激怒した。大事な兄弟をそんな目に合わせるなんて、ひどい。見た目通りの悪い奴だ! とぷんぷん怒る。  ユキはライが来たのはたまたまここに彼の獲物である鼠が入り込んだからだと思う、と言った。希望はそうは思わなかった。  ユキは何も言わないけど、ユキとライは恋猫同士だったのではないだろうか、と希望は思った。希望は聡い。あの二匹には痴情の縺れを感じたのだ。  あのやろう、ユキさんに未練があるに違いない。ユキさんは優しくて、なんかいい匂いがするし、何よりもとても美しい猫ちゃんだ。未練がないはずがない。だから今の恋人の希美に酷いことをしたのだ。全くもって許せん奴だ。もしかしたら、あの獲物だって、ユキさんへのプレゼントなのかもしれない。  ユキが希望に、しばらくお外に出てはいけないよ。あいつと関わらないで。と言い聞かせるが、希望は使命感に燃えていたので聞いていなかった。  今度現れたらはっきり言ってやろう。ユキさんは希美とラブラブなのだ。さっきだって、あの、えーっと、その、……とにかくすごく仲良しで幸せなんだ。諦めてください。お帰りください! と言ってやるんだ。はっきりきっぱりと、毅然とした態度を見せるのだ。何故なら、俺は希美の兄だから。たぶん。俺が兄だった気がする。ユキさんも大事な人だ。だから守らないと! と決意する。  ああでも、と希望は少し考えた。  好きな人を諦めるのは身を切るより辛いことだ。希美にしたこともユキさんに威嚇したことも許せないが、誰かを愛する気持ちを蔑ろにしてはいけない。  きっぱりとはっきりと、毅然とした態度で。でも、優しく言ってあげよう。    希望はそう決めて、ユキに頷いた。ユキは希望が素直に言うことを聞いてくれたと思って、ほっとしている。そして、三匹くっついてお昼寝をしたのだった。

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