2 / 4

中編「二匹の逢瀬」

 希望は決意した。必ずやあの乱暴な黒猫ライから、大事な兄弟である希美とその恋人であるユキさんを守ってみせる、と。  ライと遭遇したあの日から、希望は毎日のようにお庭を巡回している。雨の日や寒くてお部屋から出られない日は、窓の近くで待機して、金色のお目めを光らせるのだ。    そんなある日のことだった。  いつものようにお庭を見回っている最中、猫じゃらしに心を奪われた希望はにゃんにゃん、ぺしぺし、と遊んでいた。猫じゃらしのもさもさしたところをペシーンッと叩くとふよんふよんっと揺れる。飼い主がこれと似ているおもちゃでよく遊んでくれるのだ。もしかしたら、ここに生えているのがおもちゃになるのかもしれない。大発見だ。希美とユキさんにも教えてあげよう。あ、でも、もうちょっと遊んでから。  そう思ってペシペシペシペシペッシーンペシペシ、とシャドーボクシングのように遊んでいると、視界の端にエメラルドのような綺麗な緑色が掠める。希望はビックリしてその場から飛び退いた。  キョロキョロと慌てて周りを見回すが、それらしい姿がすぐに見つからない。視線を感じるからどこかにいるはずだ、といつでも飛びかかれるような姿勢で、もう一度注意深く周囲を見回した。    飼い主のお母さんが作った色とりどりの花壇。  古びたテーブルと椅子。  庭の奥にある柵と、その向こうの林。  柵の手前には茂みがある。その辺りは日当たりがあまり良くなくて、暗くてじっとりしている。  その影の中でキラリと光る二つのエメラルド。    あれ?  希望はまたびっくりした。  影の中で二つ、綺麗な宝石が浮いているのかと思ったけれど、よく見たら、その周りの影は他の部分より濃くて、猫の形をしていた。すらりと綺麗な姿勢で座って、希望をじっと見つめているのは間違いなくライだった。全く動かないから一度見落としてしてしまったが、希望が目を向けると長い尻尾だけがユラリユラリと妖しく揺れ始める。  いた! と気付いて、希望がフーッ! シャーッ! と威嚇する。来やがったな! 負けないぞ! と毛を逆立てた。  ライはゆっくりと動き出して、影から出てくる。キラキラしたものが大好きないつもの希望なら、思わず飛び付いてしまったであろう美しい緑色の眼だけが光を反射していた。影から溢れた濃い黒が日向に出てきて形になったような、そんな不思議な光景に、希望は魔法みたいと一瞬目を奪われる。  しかし、希望ははっとして、ライを睨みつけて、威嚇を再開した。魔女の使い魔みたいな奴だ、危なく魂持っていかれるところだったと、首をブンブン振って気を持ち直す。  ユキさんは渡さないぞ! とみゃあみゃあ鳴いて主張すると、ライは希望と少し距離を空けて立ち止まって、首を傾げた。  その様子に、希望も威嚇の体勢のまま、少し戸惑うように首を傾げる。ユキさんに会いに来たんでしょう? と希望が尋ねてみても、ライは何も答えないまま、またゆっくりと希望に歩み寄る。希望はビクッとしてお尻を上げて、頭を下げて、ライを睨んだ。ミャアミャア! と鳴いて、お引き取りください! と牙を剥いて威嚇する。ライは希望のその反応に、また立ち止まった。呆れたように小さくため息をつくと、頭を下げる。ライが口を開けて、そこからころり、と何かが落ちた。希望はキョトンとしてそれを見つめた。  それは金色に輝くコインだった。飼い主がよく貯金箱に入れては揺らして、その重みと音でニヤニヤと喜んでいるところを見ているので、知っている。平たくて、丸いもの。でも飼い主が持っている銀色と銅色のものとは違って、金色だ。  ライはそれを置いて数歩、後ろへ下がった。希望はますます首を傾げて、威嚇の姿勢も緩めてしまう。ライが離れてから恐る恐るライが置いたコインに近づいた。近くで見ると、日差しの光を浴びてきらりと光る。綺麗だなぁと希望はそれを見つめた。自分と希美の眼と同じ色をしている。  なんなんだろう、と希望がライを見ると、ライはフィ、と顎で希望を示す。希望はその仕草の意味がわからなかった。少し考えて、そう言えばこの間も鼠を持ってたと思い出す。たぶん、ユキへのプレゼントだったんだろう、と希望は推測していた。  つまり、これも?    希望は戸惑った。これをユキさんに渡せと、言っているのだろうか。だとしたら、どうしよう。  希望は毅然とした態度でライを退治するつもりでいたが、こうして改めてライを見ると躊躇してしまう。こんな素敵なプレゼントを持ってきたのだから、きっと、ユキさんのことが大好きなのだろう。しかし、そうとは言っても、希望はこれをユキに届けるわけにはいかなかった。  希美とユキはラブラブなのだ。ライとユキと希美の三匹の間に何があったかわからないが、ユキが小鳥遊家に引き取られて一緒に暮らしていることが答えなのだと思う。でも、誰かを愛する気持ちを無下にすることもできない。例えそれが、得体の知れない乱暴者の猫であってもだ。愛に貴賤などない。    コインの前でふらふらといったり来たり、希望はどうしようか悩んでいた。ライは動かずにじっと希望を見つめている。しばらく悩んで、希望はようやくコインからライへと目を向けた。  ユキさんの渡せってことなら、俺にはできないよ、と困ったようにか細い声でみゃーぁと鳴く。すると、ライはゆっくりと首を横に振った。希望が、違うの? と首を傾げているとライは再びフィ、と顎で希望を示した。希望がわからなくて首を傾げていると、痺れを切らしたようにライが再び近づいてきた。希望は慌ててコインから少し離れる。しかし、ライはコインを咥えると希望に少し近づいて、ひょいっと投げた。  にゃ? とポカンとしながら希望がコインを見上げているとコツンッと額に当たって落ちる。希望はその場で額を抑えて震えた。震えるほど痛かった。  なんてことするんだ! と希望はミャアーッと抗議しようと顔を上げると、ライがすぐそばまで来ていてぎくりと体が固まった。みゃぁー……と震えた小さな鳴き声が溢れてしまったけれど、小さくなって震えながらも希望はライを睨んで、フーッ、シャーッと威嚇する。  ライはそんな希望を気にした素振りもなく、落ちたコインをまた咥えて、震える希望の目の前にまた落とした。そして、ぐっ、と鼻先で希望の方に差し出す。希望は、え? とビックリして、ライを見上げた。ライはじっと希望を見つめている。少し考えて、希望はやっと気づいた。  これ、もしかして、俺に?  ライがこくり、と頷いた。希望が威嚇する体勢のまま固まっていると、すぃ、とライが静かに近づいてくる。ライは無防備に見上げる希望のお鼻を、ペロリ、と一度舐めた。  にゃっ!?  希望はびっくりしてぶわわっと尻尾が膨らんだ。  ライは希望に伝わったことに満足したのか、踵を返して走り去る。その勢いのまま、身軽に塀を登ると、一度希望を見た。しかし、何も言わずに塀の向こう側へと消えてしまったのだった。  きらきらと光るコインと共に残されて、希望は混乱していた。なんで、どうして、ユキさんじゃないの? え? うそ、俺なの? と頭の中で疑問がくらくらぐるぐる回っている。  しかも、お鼻をな、なめ、なめられ……    にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ    希望はその後、希美が止めにくるまで、庭中を叫びながら走り回ったのだった。    ***    それからと言うもの、ライは何日かおきに希望の前の現れた。希望がお外で遊んでいると、気配もなくそっと近づいてきて、希望はいつもすごく驚いてしまう。最初は怖くてどうしようかと思っていたが、ライはいつも、きらきらしたものをお土産を持って来てくれた。  例えばガラスでできた丸い玉だ。昔、飼い主のお部屋にも置いてあって、キラキラしてて丸くて素敵なそれを、希望はすごく触りたかった。けれど、入れ物ごと倒してしまって、入れ物の瓶が割れて中身をぶちまけてしまってからは見ていない。みゃーう? と飼い主にどこにしまったのか聞いてみたけど、怪我しちゃうからね、片付けちゃったのよ、と言われてしまったのだ。ライはそんな貴重なガラス玉のいろんな色と大きさのものを持ってきてくれた。  あとは、金色の輪っかに緑の大きな石がついている指輪や透明な石がついたネックレス、細かい傷が光を反射してキラキラしてた丸くなったガラスの欠片はいろんな色と形で面白かった。  希望はそれらをお家に持って帰って隠していたが、飼い主が見つけて、割れない入れ物に入れてくれた。入れる前に何やら洗ったり乾かしたり、いろんなことをしていた気がする。しかし、指輪とかネックレスは、「の、希望ちゃん、これ、いったいどこから……?」と震えながら持っていってしまった。希望は悲しくて鳴いてしまったが、希美が言うには、誰かの大切なものかもしれないからね、とのことだ。それなら仕方ない。俺にとってもライさんからもらった大切なものだけど、本当の持ち主はどこかにいるのだろう。  ライにもその事を伝えて謝ると、今度はお外に連れていってくれた。お庭の外に出るのは怖かったが、ライとなら大丈夫な気がした。デートみたい! と希望はわくわくした。    お散歩の途中で希望とライを見て、女の子二人が「かわいい~」と近づいてきたので、希望もその子達を見つめて撫でられる準備をした。  どうぞ、もふもふですよ、と胸を張って、希望は女の子達を待ったが、ライが立ちはだかる。ライは女の子達をじっと睨み付けていた。え? なんで? と希望は驚いてライを見る。撫でられたら気持ちいいのに、しかもかわいい女の子なのに、とライを不思議そうに見つめる。女の子達は「えー、うそ、かっこいい……!」「この子の彼氏なんじゃない?」と言ってにこにこしていた。かわいい、カップルみたい、と飼い主と同じように、四角くいものを取り出して、写真を撮り始める。希望は首を傾げてみたりお手々を上げてみたりして、可愛いポーズを取って応えようとしたが、ライがぐいぐいと尻尾を噛んで引っ張るので行かざるを得なかった。お姉さんたちごめんなさい、可愛い写真は撮れたかな? もういくね、と希望はみゃあーと鳴いて、先に進んでしまったライの後を追いかけた。    ライは小鳥遊家のお家とお庭を囲む塀を一周して、お庭に戻ってきた。希望がお家の前まで到着するのを見届けると、ライはまた塀を登っていく。もっと遊ぼうよ、と希望がミャアミャア鳴くけれど、ライはちらりと希望を見ただけで、塀の向こう側へと消えて行ってしまった。  ライがいなくなるといつも、希望の寂しそうな鳴き声がお庭に響くのだった。    希望はライのことが少し怖い。大きくて、黒くて、じっと希望を見つめているのに何も言わない。鳴き声を聞いたこともなかったし、時々血の匂いがするのが怖かった。初めて出会ったあの時のように、ライはどこかで何かの命を、喰い殺しているのだろうか。それが野良の生き方なんだろう。希望の知らない世界で、ライは生きている。  それでも希望は、ライのことが少し気になり始めていた。  ライは希望にプレゼントをくれたり、お外につれていってくれたりしてくれた。希望はライといると、少し怖くて緊張するけど、とても楽しかった。ライが希望に近づいたのは、二度目に出会った時に、お鼻を舐めてくれたあの時だけだった。それからはあまり近づいてこない。それがどうしてなのか、希望にはわからないが、少し寂しいと思う。    ライさんとすりすり、ふみふみ、ぺろぺろ、したいなあ、と希望は思う。  ライといる時間が多くなって、希望はそう思うようになった。希美とユキがしているみたいに、尻尾を絡め合って、お鼻とお鼻をちゅっとして、お互いの体を擦り合わせる。そうやって暖かくて気持ち良くなって、お気に入りの毛布で一緒に眠りたい。    ライさんはどうだろう、と希望は考える。  どうしてユキにではなく、自分に素敵なものをプレゼントしてくれるのかわからないけど、少しは自分のことが好きなのかもと思っていいのかな。そうだったらいいのに。でも、もしかしたら、違っていたら。ただ、ユキさんを取り戻したくて、俺と仲良くしているだけだったらどうしよう。    ライが最後に来た日から数日空いただけだったが、希望は窓の外をじっと見つめて尻尾を垂れる。  希美がおもちゃで遊ぼう、と誘ってみても、ユキがお昼寝しよう、ペロペロしてあげるから、と呼んでみても、希望は窓の外を眺めていた。

ともだちにシェアしよう!