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後編1「ライの譲歩 一歩目」

 その日、希望は珍しく一人でお留守番をしていた。ユキと希美は飼い主と共に病院に行ってしまったのだ。    二度目のお昼寝から目覚めて、希望は周りを見回した。お気に入りの毛布はいつも通り暖かいしもふもふだった。けれど、誰もいなくて静かな部屋が、今は寂しくて寂しくて仕方がない。  みゃぁ……、と希望は誰かを呼んでみる。いつもならこうやって寂しいと鳴いて訴えれば希美やユキ、あるいは飼い主や飼い主のお母さんが駆け寄ってきてくれるのに、今はシンッと静まり返るのみ。  こんな寂しさは久しぶりだ。  最近は、希望が一人で寂しいと思った時には、ライが現れていたから寂しいことが続くことはなかった。希望がお外でうろうろしている時、窓からお庭を眺めている時、そんな時にライは現れる。  今日も来てくれるかもしれない、と希望は期待を込めて、二階の出窓のところに登った。キョロキョロと庭を見回して、あのエメラルドの輝きがないか探してみる。ライは真っ黒だから、日差しの下に出てきたらわかるはずだ。しばらくそうして庭を見渡し、尻尾をゆらゆら振って待ってみる。  あ! と希望は尻尾をピンッと伸ばした。  庭の影から、のそりとライが姿を現したのだ。ライは影から出てきて希望の方を見上げている。ライにじっと見つめられて、希望は呼ばれている気がしたので、大急ぎで階段を駆け下りていった。    外に飛び出した希望はライに駆けよって、その周りをぐるぐる回って跳び跳ねる。ライさん、ライさん! 来てくれたの? とにゃ――っと鳴きながらぐるぐる回る。  ライはそんな希望を、たしんっと片手で潰して止めた。  にゃんっ! と悲鳴をあげて、希望は地面に突っ伏し、じたばたもがく。ライは力強くて大きくて、希望がどんなに頑張って抜け出そうとしても、全然ダメだった。にゃぁん……と困り果てた声で鳴いて、ライを見つめる。うるうるとお目目を潤ませて、もう騒がないから許してライさん、と訴える。ライはしばらく希望を見下ろして、手を退かした。  ライがそのまま歩いて行ってしまうので、希望は急いで起き上がって後ろをついていく。今日は何をして遊んでくれるんだろう、どこへいくんだろう、と希望はキラキラと瞳を輝かせてライの後ろ姿を見つめた。  ライは黙ったままだが、希望はみゃあみゃあ話しかける。  ライさんあのね、今日は飼い主も希美もユキさんもお出掛けしててね。  ピタリとライが止まった。希望も立ち止まったが、にゃあにゃあと話を続けている。  最初は平気だったんだけど、寂しくなっちゃったの。でも、ライさんが来てくれたから、寂しくないね! すごくうれしいよ!  みゃー! と希望が鳴くとライが振り返った。じっと希望を見つめるので、希望は不思議そうに首を傾げる。ライの宝石のような瞳は相変わらず綺麗だが、その奥に暗い光が揺らめいたような気がした。  ライは希望をじっと見つめた後、今度は希望のお家の方に目を向ける。しかし、また前を向いて歩き出した。ライは少し方向を変えて進んでいくので、希望もその後に続いた。  ライはお庭の奥にある柵まで希望を連れていくと、茂みの中に案内した。希望が恐る恐る覗いて見ると、柵の下の方、ちょうど茂みで隠れる辺りに穴が開いている。ここからならすぐ出られそうだ。  ライはここから入ってきたのだと希望が納得して頷いている。道路に面した塀の上から現れるのはわかるが、時々こちらの影の中から現れる理由がやっとわかった。もしかして本当に魔女の使い魔で、真っ黒な体で影の中を泳いでいるのかと思っていたが、違うらしい。残念な気持ちと安心した気持ちでライの隠し出入り口を見つめていると、するりとライが近寄ってきた。  希望がライを見ると、ライはすりすりと希望の体に自分の体を擦り寄せる。希望は一瞬戸惑ったが、それに応えて、擦り寄った。ライから近づいてくれるのは珍しい。仲良くなれたってことかなあ、と希望は嬉しくなった。  ライはすり寄ってきた希望の顔をペロペロ舐め始めた。顔や首、グルーミングするように何度も何度も、丹念の舐める。希望は心地よくってふにゃふにゃしてきた。ライが希望を抱えるようにしてくっつくので、ライの重みで希望はそのままペタンと地面に伏せる。ライさん重いよぉ、と希望は困ったような声でみゃあ、と鳴いてライを見た。けれどライは後ろから両手で希望を抑えたまま、じっと見下ろしている。  ライが覆い被さる重みとその眼差しに、希望は少し怖くなった。ライさん重いよ、退いてよぉ、と希望は手足をバタバタさせたが、ライはびくともしない。当然だ、先ほど片手で抑えられただけでも動けなかったんだから、両手でやられたら逃げられるはずがない。  みゃあみゃあ! と希望が暴れる。ライが何をしようとしているのか分からなくて、怖くて逃げようとするが、そんな希望の首の後ろを、ライががぶりと噛みついた。  びくっと体を震わせて、みぃっ! と悲鳴を上げた希望はそのまま動けなくなってしまう。噛まれてしまった、怒ってるのかな、これ以上暴れたらもっと痛いことされるかも、と怖くなって震えながら大人しくした。すると、ライがゆっくりと首から口から離して、またペロペロと舐める。それでも少しでも希望が逃げようとすると、すぐに首に噛みついた。  みぃみぃ、と怯えたような悲しそうな声で鳴く希望の声はやがて、甲高い悲鳴に変わっていく。  庭中に響くその声は、ライ以外聞くものはいなかった。    ***    しばらくして、ライはようやく希望から離れた。希望はぐったりとしたまま、地面に横たわる。  散々ライの好きなように、気の済むまで喰い尽くされてしまったが、希望はやっと終わったことに安堵していた。そして、やっぱり悲しかった。  怖かったし、痛かった。希美とユキさんがしていたことをしてくれるのかな、仲良しになってくれるのかな、ってちょっと期待してたけど、たぶん違う。二匹はもっと幸せそうだった。こんなに痛くて怖いことじゃなかったはずだ。  ライと仲良くなりたかったし、すりすりしてちゅっちゅっしてペロペロして、心地よくお昼寝してみたいとは思っていたけど、ライは違うんだと思い知らされて、希望は悲しかった。    終わった後、ライは離れてどこかにいってしまって、ますます希望は悲しくなって、みぃ……と仔猫のような声で鳴いた。  ライさんどこにいっちゃったんだろう、もう遊んでくれないのかな、俺をいじめたかっただけなのかな、と悲しくて寂しくて、みぃー……と鳴く。  すると、希望の目の前にずしん、と黒くて大きい足が現れた。希望が少し顔を上げると、やはりライだった。戻ってきたライは希望をじいっと見下ろして、時々お家の方に目を向けた。何を見ているんだろう、と希望が不思議に思っていると、ライが希望に近づいてくる。希望は力の入らない体でびくりと震えた。なんだろう、何をするんだろう、食べられちゃうのかな、と震える。初めて出会った時に口を真っ赤に汚していた怖い姿のライが脳裏を過った。  ふるふる震える希望に近づいて来たライは顔を擦り寄せ、希望の首の後ろをがぶりとまた噛みついた。食べられる! と思ってみゃあっ! と希望の悲鳴を上げたが、ライはそのまま希望を持ち上げてしまう。親猫が仔猫を運ぶかのように、ひょいっと持ち上げられて、希望は混乱して、プルプル震える。なに? なにするの?! とライを見つめようとするが、首を噛まれているのでそうもいかなかった。  ライがちらりとお家の方を確認した。するとそのまま希望を連れて、柵に空いた穴から外へ出ていってしまった。  みゃぁぁぁ……という希望の助けを求める声だけが響いて消えていった。    ***    希望がライに連れていかれた先は、どうやらライの寝床のようだった。人の居なくなった空き家の床下、ライはそこに希望を連れてきた。あちこちでライの匂いがする。希望はその奥で、ふるふる震えていた。    連れ去られた日から、一体何日経ったか希望には分からない。  ライがいない間に逃げようとしたが、お外を覗くと知らない場所で、知らない匂いがして、時々別の猫の鳴き声もして、怖かった。お外に出たことがあるのはお家の庭と、お家の周りだけだ。それも、ライが一緒だったから怖くはなかっただけで、知らない世界はとても怖い。  飼い主、希美、ユキさん、どうしよう。怖いよぉ……。  希望は寂しくて毎日鳴いていた。どうしたらいいのか分からなくて希望は、ただただ、ライの棲みかであるここで小さくなって鳴いていた。  けれど。    みゃあみゃあ、と弱々しく鳴く希望を、ライは丁寧に舐めて綺麗にしてくれた。  毎日希望のために餌を取ってきてくれた。  夜になったら希望にぴったりとくっついて、囲うような体勢で眠った。    希望は最初、どうしてライがこんなことをするんだろうと不思議だったけど、数日経ってもしかしたらライさんは俺とずっといたかっただけなのかなあと考えるようになった。俺と同じように。    ただ、希望はお外のご飯が食べられなかった。希望が食べられるのは、カリカリとか缶詰めとか、ちゅるちゅる舐めるおやつとか、そういう飼い主がくれるものばかりだった。ライが取ってきたネズミや小鳥の食べ方が、希望にはわからなかった。  ご飯も食べられず、お気に入りの毛布もなくて、見知らぬ場所で、希望は怖くて、寒くて、小さな物音で起きてしまう。そうして、日に日に希望は弱っていった。    でも、ライは大きくて暖かくて、希望はくっつくのが好きだった。  ライが時々持ち帰ってくれるビー玉やガラスの欠片、綺麗なものも好きだ。  ライは怖いけど、黒くて大きくて、強くて、キラキラしたものを教えてくれる。  だから、やっぱり好きだった。  怖くて、何を考えているかよくわからないけど、希望はライが好きだった。  お腹も空くし、寒いし、怖いけど、このまま一緒にいたいなあと思ったのだ。      くったりと横になったまま動かない希望を見下ろして、ライは軽く顔を擦り寄せる。  希望がそれに気づいて、みぃー……、とか細い声で応える。  すり寄って、ペロペロと舐めるライに応えようと一生懸命体を起こして、ライの口元をぺろ、と小さな舌で舐めた。けれど、それだけでまたくったりと横になってしまう。  ライはそんな希望をしばらく見下ろしていた。    どれくらい時間が経っただろうか。周囲が薄暗くなってから、ライはゆっくりと動き出す。ライは希望の首の後ろを咥えると、そのまま外に出ていった。    ***    暗くなった狭い道を歩いていくと、道が開けた。  嗅ぎ慣れた匂いに希望はうっすらと目を開ける。暗いけど、見慣れた光景がそこにあった。  お庭だ、と希望は気付く。  ライは希望を咥えたまま、お家の前まで歩いた。    玄関の前までたどり着くと、ライはドアから少し離れたところに希望をそっと置いた。希望が不思議そうにライを見つめていると、ライも希望を見つめ返す。希望の額と自分の額を擦り、鼻をちゅっと合わせた。  すると、ライは玄関横のオブジェに身軽に飛び乗って、ドアの横にあるインターフォンまで飛び、ボタンを足で蹴って鳴らすと反動でくるり、と背後に飛んだ。   『はーい。……あれ?』    そこからは、家の中でインターフォンの画面を確認しているであろう、飼い主の声がした。その声を確認すると、ライは希望を置いて、茂みの方へと走っていく。    ライが行ってしまうのが悲しくて、希望はみぃ、と消え入りそうな声で鳴いた。玄関からバタバタと猫と人が走る音がして、ドアを引っ掻く音も聞こえてくる。 「希美くんどうしたの? 外には誰もいなかったよ」  飼い主の声と、にゃあにゃあと鳴く希美の声がして、希望もみぃー…と鳴いた。すると「え?!」と飼い主が大きな声を上げる。ガチャガチャ、と焦ったような解錠音がしてドアが開いた。  玄関から光が差し込んで、希望は眩しい、と目を細めて、みゃあー……と鳴いた。希美が駆け寄ってきてペロペロなめてくれて希望はくすぐったくてまた、みゃあーと鳴く。  すると、少し遅れて、「うそ、希望ちゃん!?」と飼い主が泣きそうな声で叫んで抱き締めてくれた。飼い主の匂いだ。抱っこされるのが嬉しくて、希望は飼い主の腕をペロペロと舐めた。  お母さん、希望ちゃんが帰ってきた! と飼い主が泣いている。  足元では希美とユキがうろうろしてて、にゃあにゃあ、と心配そうに鳴いていた。  ライさんがね、つれてきてくれたの、と教えたいけどライの姿は庭の奥の、影に紛れてしまいそうだった。昼間に見るよりもずっと、暗闇は深く、ライを隠してしまう。  それでも、希望の大好きな宝石みたいな眼がじっとこちらを見ていた。希望は、みぃ、と鳴いてライを呼んだ。けれど、ライは視線をそらして、すぅっと闇の中に消えていこうとしている。  もう二度と会えなくなってしまうんじゃないかという不安で、希望は鳴いた。みぃ、みぃ、と一生懸命鳴くけれど、ライは振り向くことなく去ろうとしている。    ライさん、ライさん。待って、ライさん。    みぃー……と力なく鳴く希望を抱えて、飼い主はお家の中に入っていく。希美とユキも、飼い主の腕の中にいる希望を見上げながら、後に続いた。  中に入る前に、ユキがちらりと、つい数秒前までライがいた場所を見つめる。けれど、もうそこには暗闇しか残っていない。  希望が同じ場所を見つめて、悲しそうにみぃみぃと鳴いている姿に、ユキは小さくため息をつくと、希美の後に続いてお家の中へ入っていったのだった。

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