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後編2「ライの譲歩 二歩目」

 希望がお家に帰ってきてから、しばらく経った。ライと二人だけで過ごした時間よりも何倍もの時間をかけて、希望はようやく元気になっていった。  カリカリも、おやつも、もりもり食べれるようになったし、また希美とユキと一緒にお部屋を走り回ったり登ったり下りたり、遊んだりできるようになった。やり過ぎて、飼い主に叱られるくらい元気だ。  しかし、希望は時々、窓の外をぼんやりと眺めている。  ライさん、来ないかなぁ、と寂しそうにゆらゆらと尻尾が揺らしていた。前までは希望が寂しくなると来てくれたけど、今はいくら待っても姿を見せることはない。  ライさん今日も来てくれなかったなぁ、と希望はしょんぼりとして、窓から離れる。お外でみゃあみゃあと泣いて、カッコ悪いところを見せてしまったから、もう来てくれないのだろうかと考えて悲しくなった。  ライからもらったプレゼントが詰まった入れ物をころころと転がすと、中のガラスの玉やガラスの欠片がキラキラと流れる。その中で、初めてもらったプレゼントの、金色のコインが一際キラリと輝いている。  しょんぼりとしていた希望は、その輝きと共に、閃いた。  そうだ! と希望は立ち上がると、急いでお外に出るために出口を探す。飼い主にはもうお外に出てはいけないと言われていたが、希望はいてもたってもいられなかった。  希望は家中探し回り、少しだけ開いている窓を見つけた。下から上へ開けるタイプの窓で、何とか通れそうな気がする! と希望は飛んだ。  器用に窓の下の出っ張りに掴まって、窓の隙間に頭を突っ込んだ。窓はそれ以上開かないようになっているのだろう、希望がぐいぐいと押しても動かなかった。けれど、頭が通れば大抵体も通るのだ。幸い、窓の隙間は横に長い。頭が通って体もねじ込んだが、最後に大きなお尻が引っ掛かって、にゃあ! にゃああんっ!! と、希望は暴れた。するとうまいこと通り抜けることができて、希望はお外側にずるんっと落ちた。少し痛かったけれど、構わずに走り出す。    ライさんが会いに来てくれないなら、俺が会いに行けばいいんだ! と希望は閃いたのだ。  なぜ気づかなかったんだろう! と希望は思った。ライさんはあんなにたくさん会いに来てくれたんだから、今度は自分の番だ! と走り出す。  連れていかれた時も帰してもらった時も、色々された後だから意識がぼんやりしてた。だからライの棲みかまでの道をはっきりとは覚えていない。けれど希望は記憶と匂いを頼りにお庭のお外へと飛び出した。ライに会いたいという気持ちでいっぱいで、怖さは感じなかった。ただただ、ライに会いに行かねばならないという決意で走っていた。  いくつかの塀や柵を越えて、ブロック塀の下の穴から希望は顔を出した。大きなお尻が詰まらないように地面を掻いて通り道を広げる。そこを通り抜けると、見たことがある道路だった。ライとお散歩したことがある気がする。まだお家の近くなのかもしれない、もっと遠くへ歩いてみよう、と希望はブロック塀に沿って進んでいった。 「あれ、あのこ前にも見なかった?」  背後から女の子の声がして、希望は振り向いた。制服を着た女の子二人がこちらを見て近寄ってくる。前にライとの散歩中に見かけた女の子たちだ。希望は近寄る女の子たちの方を向いて、にゃぁん、と挨拶をした。「ええ!? かわいいんだけど」と女の子たちが目の前まで来て、しゃがみこむ。そっと近づいてくる細くて綺麗な指先を、希望は胸を張って、どうぞ、もふもふですよと受け入れた。女の子の手は優しくて心地よく、希望を撫でてくれた。希望がにゃーっと心地よさに声を上げる。撫でている女の子と、もう一人は四角い物を向けて写真を撮っていた。 「黒猫の彼氏は? 一緒じゃないの?」  女の子が首を傾げるので、希望ははっとして顔を上げた。撫でられる心地よさに夢中になってしまっていた。  希望はにゃあにゃあ、と女の子たちに問いかける。ライさんを見ませんでしたか? とにゃあにゃあ鳴いた。女の子たちは、なんかしゃべってるみたいに聞こえるね、とにこにこと笑っている。  そうだ、飼い主や飼い主のお母さんなら希望の言っていることわかるのに、それ以外の人間には希望の言葉がわからないのだ。困ったことだ、と希望は思った。 「あれ、この子首輪ついてる」  希望を撫でていた女の子が、希望の長くてもふもふとした毛で見えなくなっていた首輪を見つけた。 「黒猫くんはついてなかった気がするけど、この子飼い猫かなー」 「こんなに綺麗だし、もふもふしてるからそうじゃない? 迷い猫かも」 「えー?」 「ほら、もしかしてこれ、この子じゃない?」  女の子の一人が四角い物を指先で撫でて、その面をもう一人に見せている。 「似てるけど『見つかりました』ってなってるし……」 「また逃げちゃったんじゃない? 黒猫の彼氏に会いに来たとか」  希望がにゃー! と元気よく答えた。そうなんです、ライさん探してるんです! と主張する。 「またなんか言ってるー。ほんとに探しに来たのかも!」 「ほんとにー? 黒猫くんなら、昨日もこの辺で見たけど……」  希望がピンッ! と耳と尻尾を立たせて、キラキラと瞳を輝かせた。にゃあ! と喜びの声を上げるので、女の子たちが目を丸くする。 「でも、首輪に連絡先とかないかなー? やっぱりこのまま放っておくの危ないよね?」 「そうだね、なんか最近この辺ヤバイのいるらしいし……」 「猫ちゃん、おうち帰ろうねー?」  そう言って女の子がそうっと抱っこしようとする。希望は一瞬考えた。抱っこは気持ちいい。抱っこは好きだ。可愛くて優しい女の子に抱っこしてもらうのはもっと好きだ。でも、希望にはライに会いに行くという使命がある。ライに会いたいのだ。だから、今お家に帰るわけにはいかなかった。  希望は名残惜しいが、女の子からパッと離れて走り出した。あっ! 待って! 危ないよ! と女の子たちの制止を振り切って、希望は走った。  ライが最近近くにいたという情報が、希望の心を奮い立たせる。ライは来てくれたのだ。嬉しかった。会いたくて飛び出したものの、もういらないって言われたらどうしようと不安もあった。でも、ライがここまで来てくれたのはもしかしたら希望に会うためではないか、とそんな期待をしてしまう。    ライさん、ライさん。  今度はもう泣かないよ。取ってきてくれるネズミも小鳥もちゃんと食べるよ。食べるものも、一緒に見つけにいくよ。  だから、だから。  ライさん。  今度こそずっといっしょに。    希望はその想いのままに、走り回ったのだった。    ***    希望がふと気づいた時、周囲はもう薄暗くなってしまっていた。一生懸命探したが、ライは見つからなかった。薄暗くなった道をとぼとぼと希望は歩いている。時々ライの匂いがした気がするが、どこにも姿は見えないので、きっと勘違いだろう。会いたくて 会いたくて、そんな勘違いを何度もしてしまった。  ここ、どこだろう。  暗くなっていく道を見回して、希望は不安そうにみぃー……と鳴いた。見たことがあるような景色だが、先程からこの辺りをずっとうろうろしている気がする。  ライさんは見つからないし、お腹すいたよー、怖いよー、と希望は悲しくなってきた。さっきの女の子たちはもう帰っちゃったかなぁと歩いていると、背後に気配を感じて振り向いた。  後ろから、男が近づいてくる。ジャージのフードを被っていて、手には白いビニール袋を持っている。お買い物帰りなのかなあと希望は思ったが、そのビニール袋は空っぽのようで、ヒラヒラとしている。こんな状況でなければ、希望は飛びかかって遊んでいただろう。  希望が振り向くと男が立ち止まった。にゃーあ? と希望は首を傾げる。男が再びじりじりと近づいてきたので、希望は撫でたいのかなぁと思って、座った。どうぞ、もふもふですよ、と男を待ってみる。  けれど、希望は立ち上がった。じりじりと近づいてくる男の、こちらをじっとりと見つめる目を見ていたら、なんだか怖くなった。  なんでだろう、なんだろう、と希望が戸惑っていると、男は目の前まで来ていた。逃げなきゃ、怖い、と希望は走り出そうとした。しかし、その瞬間、ぐわっと男の手が伸びて、希望を掴んでしまった。  ニャアッ! と希望は悲鳴を上げた。飼い主や女の子たちの、そうっと宝物を抱えるような優しさなどは微塵もない、物を掴むような乱暴な強さで掴まれ、希望は暴れた。いたいいたい! と暴れる希望だったが、そのままビニール袋の中に放り込まれてしまう。  にゃああ! と希望は鳴いた。仰向けの状態に袋に入れられて、鳴いてじたばたと懸命に暴れるけれど、ビニール袋ががさがさと音を立てるだけだった。その上、男はビニール袋の口をぎゅうっと結んでしまった。狭くなって、身動きも取りづらくなって、希望は鳴いた。  怖い、苦しい、なんで。  みゃあみゃあ、と鳴いているけれど、そのまま男は歩き出したようだった。    怖いよ、苦しいよ、助けて、助けて!  ライさん助けて!    希望がミャーッ! と必死に鳴いた、その時、男の動きが止まった。 「な、なんだよ……」  男の声は狼狽えて、進んできた道を一歩、後ずさる。希望はビニール袋の中にいるから、外の様子がわからない。 「わ、わあっ!?」  男が悲鳴をあげて、ガクンと体勢を崩した。驚く希望だったが、袋の下側、ちょうど希望の背中辺りのビニールが裂けて、希望はするんっと落ちてしまう。背中から落ちていったがくるんと回って何とか足から着地することができた。突然のことに着地して伏せたままだった希望の前に、ざっと大きな影が現れる。  艶々とした黒い毛並みに、大きくてしなやかな足や体。    ライさん?    希望が見つめていると、大きな影がちらりと振り向いた。希望が会いたくて 会いたくて仕方がなかった、綺麗なエメラルドの瞳が希望をじっと見ている。    ライさん!    希望がみゃあ! と鳴いた。希望が鳴くと、ライは再び前を向いて男を睨む。ライが低い声で、威嚇するように鳴いた。ライの声を希望は初めて聞いた気がした。猫というより、虎か何かのような、強くて大きい生き物のような、低く長く響く、不気味な声だった。  男は苛立たしげにビニール袋の残骸を投げ捨てて踏みつける。ぶつぶつぶつ何か呟いていた。  突然、男が大声を上げてライに迫る。ライが臆することもなく向かっていくと、それに驚いたのは男の方だった。飛びかかるライに驚いて、ひゃああっと声を上げて両腕をバタバタとさせたが、ライはその腕をジャンプ台代わりにして、男の顔目掛けて飛びかかり、男の顔に容赦なく爪を立てた。男のぎゃあっと悲鳴が響いた。目を押さえて、うあああ、いてぇええと叫んでいる。顔を押さえたまま、よろよろとしている男の足元にライが掴みかかると、うぇ、え、あああっ、と奇妙な声を上げてよろめき、派手にバランスを崩した。ライは素早く男の後ろに回り、塀の上に飛び登ると男の後頭部目掛けて飛び蹴りを喰らわせた。バランスを崩していた男は蹴りの衝撃で目の前の電柱に頭をぶつけて鈍い音を立てる。頭を抱えたまま倒れた男は、う、ぐう、うぅぅ、と呻いていた。  ライは希望の側に駆け寄るとぐいっと鼻で押して立つように促す。希望は慌てて立ち上がって、走り出したライに続いた。少し遅れて、くそおおお殺してやるうう、と男が喚きながら追いかけてきて、希望は怖くて泣きそうだった。    なんなんだろう、あの生き物は。  もしかして、人間じゃなかったのかもしれない、と希望は思った。飼い主や女の子たち、今まで希望が出会ったどの人間ともアレは違っていた。女の子たちが「ヤバイのがいる」って言っていたのを思い出して、ぞっとする。きっと、コレがそうだ。こんな怖いものが飼い主やあの優しい女の子達と同じ生き物なはずはない。    希望がライの後に続いて走っていると、ライはとある民家のブロック塀の穴から中に入った。外で戸惑っている希望を中から覗いて、『入ってこい』と促すように見つめる。男が喚きながら走ってくるのを見て、希望は怯えながらも小さな穴に頭を突っ込んだ。大きなお尻がつっかえそうだったが、何とか全部入れて、穴から離れる。その瞬間、男の腕が穴からぐわっと伸びてきて、希望はみゃあああ!? と悲鳴を上げた。悲鳴を上げる希望を押し退けて、ライはその腕を冷たく見下ろして、また容赦なく爪を立てて引っ掻く。ぎゃああ! とまた男の悲鳴が聞こえて、続けて、ちくしょおおおと叫ぶ。塀を乗り越えようとしているのが見えて、希望が怯えていると、ライが尻尾を引っ張って奥へと連れていった。そのままライに押し込まれるように奥へ進みながら振り向くと、男がまさに今塀を乗り越えようとしているところだった、が。 「ちょっと君、何してるの?」 「へぇ……!?」  男が塀の上で固まって青ざめていく。先程までは怒り狂って顔を真っ赤にしていたのに、みるみるうちに白くなって、青くなっていった。ブロック塀の向こう側には、男に話しかける男と、あともう一人いるらしい。 「ここあなたのうちじゃないですよね? ちょっと降りてくれます?」 「あ、あ、あ、いや、あの」 「ああ、降りてからでいいですよー」  男が大人しく降りていく。姿が見えなくなって、希望はほっとした。ライが視線で、こっちにこい、と促すのでその後に続く。 「何してたんですか?」 「いや、あ、あの、ねこが」 「あー猫ちゃん追いかけてたんだ? でも塀は登ったらいけないですよね?」 「いや、でも、猫が、」 「あれ、その傷はどうしたんですか?」 「ね、ねこに」 「そうなんですかー。痛そうですね。何して引っ掛かれたんですか?」 「あ、いや、その」 「さっきぶっ殺してやるって言ってたけど、猫ちゃんに? 怒鳴りながら追いかけてたのも猫ちゃん?」 「いや、その、……す、すいません、な、なんでもないんで」 「いやー僕らびっくりしちゃいましたよ。なにごとかなー? って。最近この辺りで猫や飼い犬が傷つけられたりする被害が続いてましてね」 「あ、う、」 「これは念のためなんですけど、ちょっと鞄とポケットの中見せてもらえます? すぐ終わるんで」  優しいお兄さんたちの声が続く中、希望はライとともにその場を後にした。    ***    ライが前を歩いている。会いたくて会いたくて、ここまで来てしまった、そんな大好きな猫が目の前のいる現実に、希望はふわふわとしていた。怖い目にあったし、ひどい目にあったから、現実を心が受け入れきれなくてふわふわしている気がする。  ライさん。ライさんだ。本物だ。  みゃぁ、と希望が控えめに鳴くと、ライが立ち止まって振り返る。綺麗なエメラルドの瞳が見つめてくれる。じっと見つめて、希望に近づいてきた。  ライさん、ライさん。怖かったよ。二度と会えないかと思って悲しかった。会えて嬉しいよ。  希望がうるうるとした瞳で見つめるとライも希望を見つめていた。思いが通じている気がして、希望の気持ちはぶわりと溢れる。  ライさんっ!! と希望が抱きつこうとしたが、その前に、ライの片手でべちん、と地面に叩きつけられてしまった。  にゃうんっ!? と希望は潰れた声を上げて、ライを見上げる。ライは希望を見下ろして、ぎゅうっと潰している。その上、ぐりぐりと押さえつけた。  あ、あれえ? なんで? どうして??  みゃぁ~…と希望が情けない声で鳴いていると、押さえつけられていた体が軽くなる。希望が恐る恐る見上げると、ライがじいっと見下ろして鋭い眼差しを向けていた。少し目を細めて、じとりと希望を睨んでいる。怒っている、気がした。  希望が震えていると、ライはがぶりと希望の首に噛みついた。みゃっ、と小さく悲鳴を上げた希望を持ち上げて、またどこかへと運んでいってしまう。みぃ~っ! と希望の鳴き声が長く遠くまで響いて消えていった。    ***    希望がライに運ばれてきたのはお家のお庭だった。もっともっと遠くまで来ているかと思ったけど、あっさりとたどり着く程度の距離しか離れていなかったことに、希望は驚いた。あんなに頑張ったのに、お家の周囲をうろうろしているだけだったのだ。何だか切ない。  希望がしょんぼりとしていると、ライはお家の一階の窓の下までやって来て希望を下ろした。窓の枠に飛び乗って、窓を叩く。普通の猫ならカリカリ、とかトントントン、というような音がするだろうにライが叩いたらバンバンバン! と大きい音がした。強い。怖い。希望は下から見上げて様子を伺っていた。  すると、家の中の窓の側に希美が現れる。窓の向こうにいるから音はあまり聞こえないが希美はライを前に、フーッ! と威嚇しているようだった。ライはそんな希美を気にした様子もなく、下にいる希望を顎で示す。希美も気づいて、目を丸くして窓から離れた。ライは窓から降りると、希望のそばで待っていた。  少しして、希美が外に出て来て駆け寄る。貴様、また希望を!! とにゃあにゃあと抗議しながら駆け寄った希美は、ライの前に来た瞬間ぶっ飛ばされた。ライの猫パンチ(というにはあまりにも強すぎる攻撃)で、希美は、んにゃッ!! と悲鳴をあげて転がっていった。転がっていった距離が、ライの攻撃の強さを物語っている。  の、希美――――!? と一瞬遅れて、希望が慌てて駆け寄った。希美は何があったのかわからないというような、呆然とした顔で頬に手を当てている。  希美に何するんだ! 乱暴者! と希望がみゃあみゃあライに抗議する。ライは人間だったら舌打ちでもしそうな顔をして、希美と希望の方へ近づいた。希美を見下ろして、ゴンッと額を合わせて睨む。    てめぇ、何でまたこいつから目ぇ離してんだよ。逃がしてんじゃねぇぞ。  え? え?  ちゃんと見張っとけって言っただろうが、ああ? ふざけんなよ。  え? いや……え?    言ってなくない……? と希美は思った。  けれど、ライが低い声で唸りながらゴンゴン、と額をぶつけて来るから、心の中に留めることにした。  ライの後ろでは、希望が「希美にひどいことしないで!」とライの尻尾を噛んで引っ張っている。みぃみぃ! と抗議する希望を、ライは尻尾から振り払い、その尻尾でぺしんっと軽く希望の顔を叩く。    え、なにそのかる――――いやつ……。    希美はさっきの自分への猫パンチと今の希望への『ぺしんっ』があまりにも差がありすぎて、色々なものが腑に落ちない。  ライは希望に向き直った。フーッ! と威嚇する希望を見下ろして、ひとつため息をつくと、その場から離れるために歩き出す。  希望は慌ててライについていった。が、その前にライがまた希望を見て、顔でぐいぐい、と行く手を阻んで追い返す。  希望はやだやだ! 一緒に行くよ! と進もうとしたが、ライの片手でぎゅむ、と押さえつけられてしまった。  やだやだ! ライさん、ライさん! とじたばた暴れる希望をライは見下ろしていた。  お前外出るな。邪魔だ。  そう言うと、ライは走り去っていく。希望が悲しい声で鳴いても、ライは振り返ることはなかった。      しかし、希望は諦めなかった。  また次の日もその次の日も、何とか脱走しようと企てる。しかし、その度にライに見つかってあっさり連れ戻された。外出るなって言っただろと怒られて、ついでに希美もまた殴られた。  脱走していることに気づいた飼い主に希望が運ばれていくのを確認して、ライは再び去ろうとした、が。  にゃ――と微かに声がして、ライは振り向いた。また出てきたのかどうなってんだこの家のセキュリティはなどと考えながら、振り向くと、希望は窓からこちらをじっと見つめていた。  窓に張り付くようにして、出れないよーライさん、いかないで、と窓を引っ掻いて悲しい声でにゃーにゃー泣いている。その姿にライは呆れ果てて言葉を失った。  希望は外では生きられない。それはもうよくわかった。だから帰してやったのに、とライは呆れた。このままでは希望はきっとまた何とかして脱走しようとするのだろう。最近は庭の外に出る前にライが見つけられているからいいが、最初の時のように外まで出ていたら。またおかしなやつに連れていかれたら。今度は間に合わないかもしれない。  ライは希望を手に入れたかったが、希望が外では生きられないから、仕方なく帰してやったのだ。それなのに、他の誰かに連れ去られるなど許しておけるはずがない。例えそれが人間であっても、許しがたいし耐えがたいことだった。  だけど希望はライを追ってこようとする。    ライは深く重いため息をついた。    仕方がない。希望をこの家に閉じ込めておくには、すぐそばでライが見張っているしかないのだ。  希望は言うこと聞かねぇし、希美は使えねぇし、ユキはムカつくし、なんなんだこいつらふざけやがって。  ライは飼い猫になる気は毛頭なかったが、希望の家の庭に住むことにした。    ***    ライは外で寝る派だ。だから、希望も一緒に寝ようと外に出た。  お外は寒いなぁ、でも、ライさんと一緒なら暖かいはずだ。心が。と考えていると、くしゃみが出た。  ライは何も言わずに希望の首根っこを噛んで運んでいく。希望はにゃぁー……と情けない声で鳴いて、運ばれていく。玄関で待っていた飼い主とともにおうちに入った。 「希望ちゃんまた外出てたの? おうちで寝なさいって言ってるでしょ? いつもありがとうねーライくん」  飼い主はライの分の寝床も用意してくれていた。ライはそれを眺めて、ため息をついている。 「これでよろしいでしょうか……?」  と飼い主が尋ねるとライは、いい、もう行け、と言わんばかりの態度でふんっ、と鼻を鳴らす。    ライさんはすごい、と希望は思う。  ライは庭に住み始めてすぐ、飼い主に連れられて病院にいった。まず飼い主がおやつを用意して新しいキャリーバッグを開けて「黒猫く~んおやつですよーイケメンでちゅねぇ、おやつでちゅよ~」と一生懸命呼んだ時は全然見向きもせず、なんだったら飼い主を冷たく見つめていた。飼い主は「めっちゃクールだしバカにされているのがわかる眼差し。かっこいい、すごい」と笑いながら泣いていた気がする。わかるよ飼い主、と希望は頭がもげそうなほど頷いた。  しかし、二度目に「あの、病院にお連れしたいので、大変不本意かとは存じますが、こちらの中にお入りいただいてよろしいでしょうか……?」と飼い主が丁寧に言ったら、希望を見た後に仕方なさそうに入ってくれた。病院の診察台に乗っても、ライは鳴き声一つあげなかった。希望はいつもお医者さんを前にすると怖くて怖くてずっとみゃあみゃあ泣いてしまうのに、ライはじっとお医者さんの目を見ていてすごい。お医者さんは「ねぇ、君本当に猫?」と何度も確認していた。  首輪も最初は着けてくれなかったけど、飼い主が希望とお揃いのにしてくれたから、希望は一生懸命「つけてつけて!」ってお願いした。今は渋々つけてくれている。希望は嬉しかった。      玄関に飼い主が用意してくれた大きな編み籠があって、その中に希望のお気に入りの毛布を敷いてある。  初めは一緒にいちゃ行けないって言われてしまって悲しかったけれど、最近はもう大丈夫らしいのだ。それでもライは玄関までで、お家の中までは入らない。希望が呼んでも来ないので、希望は玄関で一緒に寝ることにしたのだ。飼い主は「ライくんが慣れてきたらおうちに入ろうね」と言っていた。他にも飼い主はいろいろしているけれど、希望にはよくわからない。  希望が先に籠に入って、タシタシと隣を叩く。ライさんこっちだよ、一緒に寝ましょう、と希望がみゃー! と鳴いた。    その姿を見てライは考える。  ライが外に出たら、希望も外で寝ようとするのだろう。くしゃみしてるくせに。外で寝たことなんて、ライが寝床に連れ帰ったあの一週間だけのくせに。甘えられないくらいに弱ってしまったくせに。身の程を知れ、とライは思っている。  しかし、そんなライの考えなど露知らず、希望はお目目をキラキラ輝かせて、ライを見つめる。俺の隣、空いてますよ! とみゃあ! と元気に教えている。  ライは重い足取りで希望の隣に潜り込んだ。もふもふと暖かい毛布は希望の匂いがする。籠の中に入ると希望がすり寄ってきた。すりすりと身体をすり寄せて、甘えたような声でみゃぁう、と鳴く。ライは希望を囲うように体勢を変えた。希望も中に収まって、こてんとライの体に頭を乗せた。  ライさん、だいすき。と希望がみゃあんと鳴く。    希望は外では生きられない。ライはどこでも生きていける。人間の世話になるのは多少窮屈だが、取るに足らないことだ。ライはいつだってやりたいように生きていく。    しばらく静かにしていると、希望の力が抜けて、ライに乗せた頭の重みが増した気がした。  すよすよと幸せそうに眠る希望に、ライは小さく息をついて、自分も目を閉じる。        希望が外で生きられないなら、ライが希望に歩み寄るしかない。希望がライに歩み寄ろうとすれば、希望は生きていけないのだから、仕方ない。  仕方がないのだ。    だからライは、希望のために、ほんの少しだけ、自分の在り方を曲げてやることにした。

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