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-Prologue-

200年前、アルストリア王国は突然、領土を二つに分けた。 一つは人間の、もう一つは獣人の領土とし、お互いが干渉せず、領土には一歩たりとも踏み込まないという誓約が交わされた。 それは200年が経った今でも破られることはなく、そしてこれからもずっと続いていくものだと思われていた。 ある日一人の少年が、それを破るまでは― 太陽に照らされると透けてしまいそうな白い肌。 柔らかくてキラキラと輝く金糸の髪。 少し潤んだようにも見える緑色の双眸はまるで宝石のようだった。 そんな出で立ちの青年が見たものは、自分が知っている国の姿とはかけ離れた、広大な自然が形成する一つの国の姿だった。 「なんて、綺麗なところ…」 青々とした草原が目の前に広がり、黄色や白、ピンクといった色の綺麗な花が咲いている。 空気を胸いっぱいに吸い込むと、自然と調和して体が軽くなるような気がした。 その壮大な景色に心を奪われていたルイは、背後に忍び寄る影に気付くはずもなかった。 ジャキっという金属がぶつかり合う音が聞こえ、ハッとして振り返ると、そこには狼のような顔を持ち、腕や足には獣そのものの被毛をたたえた人間が、鋭く尖った短剣をルイに向けていた。 「…人間がこんなところで何をしている」 その声は脳に直接響いてくるような深みのあるものだったが、少し若さを感じる声でもあった。 ルイは獣人という種族がいることも、それがどんな姿をしているのかも知っている。 それはルイだけではなくて、人間なら誰もが知っていることだ。 古くからその姿は伝えられ、そしてその種族とは関わってはならないとも教えられた。 この国が領土を割ったその時から、そう決められていた事だからだ。 当然、ルイが生まれた時にはすでに領土は分かれていて、獣人の存在を知っていても、直接会った事など一度もなかった。 つまり、この国がかつて種族を分けず一つであったなどとは、現実味を持たない話であった。 「…あなたは、獣人…ですか?」 ルイの中ではそうである確信があったが、それでも獣人に会う日が来るとは思っておらず、そういう意味では「信じられない」という気持ちがあった。 しかし、獣人はその問いに応える事はなく、「何をしているかと聞いている」とさらにルイ に問い詰めた。 「あ…あの、間違って迷い込んでしまって…」 「迷い込んだだと?壁があるのにか?」 このアルトリアという国は他の国とも独立した島国のようになっていて、それを均等に左右に二等分して領土を割っていた。そこには容易に越える事が出来ない分厚く高い壁があり、それは陸地はもちろんのこと、国が保有する海域まで伸びているので、どこからも互いに侵入する事は不可能だった。 それでもルイはこの場所に意図せず辿り着いてしまった。 「あの…こっち」 ルイは自分がここに抜けた穴へと獣人を案内する。 獣人は向けていた短剣を降ろしてルイの後をついて行った。 「ここから抜けられたんです。あっちは古い井戸になっていて、今は誰も使っていません。中が気になって入ってみたらここに繋がっていて…」 ルイは改めてこちら側の穴を見ると、向こうとは違って本当にただの穴のようだった。 その横には鉄格子の蓋が落ちているが、それはルイが穴を通る時にはすでに外れていた。 「古い用水路か何かかも知れないな。まさかこんなところで繋がっていたとは…」 獣人は穴の中を覗き込んだ後、険しい表情で短剣を鞘に納めてルイを見下ろした。 「悪意があったわけではないのは分かったが、人間であるおまえがこちら側に居てはならないのは分かるな?」 そう言われて誓約の事を思い出したルイは、静かに俯いて頷いた。 「ならば戻れ。そして二度とこちらには来るな」 「でもっ…!」 「誓約を破るつもりか?」 そんな事をすればルイ一人の問題ではなく、アルストリアという国全体の問題になってしまう。 場合によっては人間と獣人の間で紛争が起きてもおかしくはない。 だけど、この美しい世界がもう二度と見れないのは、ルイにとって酷く悲しいものだった。 「すでにここに足を踏み入れている事で、その誓約を破っていると言ってもおかしくはないんだ。俺が見逃す今しかチャンスはないんだぞ」 そう言われてしまうと、ルイはもう頷くしかなかった。 ルイは大人しくその穴に入り、獣人を見上げた。 「おまえが行ったらここは封鎖する。二度と開く事はない」 獣人が何の感情もない顔でそう言った。 「あの!最後に、名前だけ…教えて頂けませんか?」 「二度と会う事もない相手の名前を聞いてどうするんだ」 険しい表情で獣人がそう言うと、ルイはまた静かに俯いた。 ややあって小さなため息が聞こえてくると、「ラスターだ」と獣人が言った。 「…ラスター…」 「もういいだろう。早く行け」 「あ、あの、俺はルイ!ルイって言います!」 そんな事はどうでもいいという風に獣人が片眉を上げた。 だが、しばしルイを見つめた後でポケットから何かを取り出してルイに差し出した。 「…せめてもの土産だ。それを思い出にして二度とこちらには来るな」 そう言って渡されたのは、雫の形をしたイヤリングだった。 手のひらに乗せられたそれを見て、ルイは無意識に「綺麗…」と呟いた。 「もう片方は俺が持っていてやる。俺も生まれて初めて人間を見たからな。これを見て、たまには思い出してやる」 その言い方は凄く上からだったのだが、ルイはとても嬉しくて何度も大きく頷いた。 それと同時にラスターの後ろから、ラスターを呼ぶ声がした。 「もう行け。早くしないと他の誰かに見つかる」 促されてルイは穴の先にある通路に向かう。 最後にもう一度振り返ってみたが、そこには鉄格子がはめられていて、すでにラスターの姿はなかった。 鉄格子をはめたラスターは、自分を呼んだ部下の方に向かって「ここにいる」と言うと、すぐに駆けつけた部下は不満げなような呆れたような顔をした。 「ラスター様!勝手に屋敷から居なくならないで下さいといつも申しているではないですか!」 「一人でも大丈夫だといつも言っているだろう」 「万が一という事があるんです!一体何度言えば守ってくださるのか」 「何回言われても同じだ。父上の言いつけなのだろう?俺が勝手に出歩いたところでおまえにお咎めなんかないだろう」 「だとしても、貴方を守ることが私の使命ですから、守らせて頂かないと困るのは私です」 こんなやり取りはもう幾度となくして来た。 自由なようで自由ではない自分の境遇を思えば、先程会った人間は自分よりずっと自由に見えた。 「…あれが人間か。甘い匂いがして…嫌な生き物だ」 ラスターのその呟きは誰の耳にも届かなかった。 穴から降りて暗い通路を歩いていたルイは、人間の領土とはまるで違う獣人の世界に未だに心を奪われていた。自分のいる世界ではその半分も自然は残っていない。自分たちの生活に必要だからと伐採を続けた末路である事は明白で、いまやそれを取り戻すだけの苗もない。 木々を増やす為の研究は続けられているが、何をしたって生命を活かすには時間がかかる事が分かっている。 人間と獣人の領土が分かれた事で、文明すらも二分されたのだとルイは知った。 そして、どうして人間は獣人のようには生きられなかったのかと憤る。 あんな美しい世界で生きられたなら、無駄な文明が無くたって幸せだったのに。 ルイは立ち止まり、来た道を振り返る。 そこには闇しかなく、もうあの世界とは通じる事はない。 そう、あの獣人が言ったのだ。 左耳につけたイヤリングに触れる。 あの獣人の姿も声も、景色もこのイヤリングも。 全てが本物だったのに、今はもう夢であったような、むしろ夢だと思わなければならないこの現実は、15歳のルイには酷く残酷なものでしかなかった。 「…ラスター」 もう二度と会う事はない獣人の名は、静かに闇へと消えて行った。

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