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第1話
それから5年の月日が経ち、ルイは成人を迎えた。
左耳には透明な雫のイヤリングをつけたままで、あの景色を忘れた事はないが、あの日以降あちらの領土には踏み込んでいない。
何度も何度も行こうかと悩んだけれど、それがもたらす意味を考えたら、間違えて迷い込んだあの時のようにはいかない。
もう二度と見れない景色だから、会えない獣人だから、忘れないようにイヤリングをずっとつけたままにしている。
木陰に隠れるようにしてある、あの古い井戸を遠巻きに眺める。
ラスターは二度と通れないようにすると言ったから、仮にルイが行こうとしてもたどり着く事は出来ないのだ。
そう思うと悲しいような寂しいような、とにかく気持ちが落ち込んでしまう。
「ルイ、先生が呼んでる」
ルイの後方からそう声を掛けたのは、同じ孤児院で育った幼馴染のカオルだった。
ルイとカオルはほとんど同じ頃に孤児院の前に捨てられていた。
年も同じでずっと一緒に育ってきたから、幼馴染というよりは兄弟のようなものだった。世話焼きなカオルはルイにとっては兄のようでもあったが、いつもなにかとトラブルに巻き込まれがちなカオルを助けていたのはルイで、結局どちらが上かなんて分からない。
分かるのは、お互いがお互いを必要だと思っている事だけだ。
それは育った環境もそうだけど、二人にはもっと類似した境遇があったからだ。
親がルイとカオルを捨てた本当の理由は分からない。けれど、概ね想像出来る事はあって、それはルイもカオルも男性Ωであるという事だった。
この世界には男性と女性という性別の他に、α、β、Ωという性も存在している。
簡単に言えば、αは有能、βは一般、Ωは劣等という見方をされてはいるが、それはずっと昔の話で、実際今ではそれを強く意識する人は多くない。
特にΩは3ヶ月に一度発情期が訪れて、特有のフェロモンを放つ事でαを誘惑し、子孫を残す為にセックスの事しか考えられなくなるとされていた。
挙げ句に、Ωの場合は男性女性関係なく子宮を保有する為、どちらも妊娠が可能だった事で余計にΩという生き物が性に貪欲な生き物と蔑まれて来たのだ。
しかしどういうわけか、200年前に獣人と人間の領土を分けた時から数年後には、この属性はあまり意味をなさなくなっていた。
男女問わず妊娠出来る事も、定期的に発情期が来る事も変わらなかったが、その時に発するフェロモンは同じ人間には効果がなくなってしまったのだ。
Ωはただ、発情期に興奮状態なるのが辛いだけで、それに漬け込んでセックスをしようとする者が居たとしても、フェロモンに誘惑されはしないので、そんなものがあるだけΩにとっては損だった。
しかしそれもまた数年後には抑制剤が開発されて、発情期を抑えたり、あるいはずらしたり出来るようになった事で、いまやαもβもΩもあまり違いはないようになった。
基本的なポテンシャルには多少の違いはあるが、努力すれば叶う事も今は多い。
そんな世界に変わりつつあったのだが、それでもまだ、自分の子供としてはΩを受け入れられない人がいるのも事実だった。
劣等の子が生まれた事もそうだろうし、将来的には抑制剤が必要になるから、どうしたって費用がかかる。
色んな理由で自分たちでは育てられないと思った親は、大体孤児院に子供を置いて行った。孤児院ではΩの子供を引き取って成人になるまで育てていたから、孤児院の前に捨てて行けば拾ってくれるだろうと思うのだ。
ルイとカオルも多分に漏れずそうだったのだと思う。
だからと言って、親を恨んだ事はない。
恨むほどに親というものを愛してはいない。
親代わりとなった孤児院の先生がいて、親から受けるはずの愛情は先生からもらった。
愛情に飢えてなどいないルイには、親を恨む気持ちはなく、むしろ、殺さずに孤児院の前に捨ててくれた事は、親も少なからず生きていてほしいと思ってくれたのだと思うと、感謝の気持ちも持っている。
ルイがカオルの方を振り返って「先生がなんだって?」と聞くと、少し困ったような顔をしてカオルが言った。
「さぁ?探してるとしか聞いてないけど、でも抑制剤の事じゃない?ルイはそろそろ発情期になるでしょ…ていうか、また気にしてるの?井戸の事」
「…うん、まぁ」
5年前に間違えて獣人の領土に入ってしまった事は、秘密にしておかなければならない事だと分かっていたが、どうしてもあの素晴らしく美しい世界の事を誰かに話したくて、カオルにだけは話していた。
古い井戸があるのは孤児院の裏の木陰になった場所だから、カオルはその場所も知っている。
それを聞いたカオルは「僕も見てみたいなぁ」とは言ったが、やはり自ら行こうという気はなかった。
誰しもがその罪の重さを理解しているのだ。
カオルも井戸を遠巻きに眺めて肩を揺らした。
「見てない僕には分からないけど、それでもどんなに魅力的でも行っちゃダメって事だけは言える」
「大丈夫。行くつもりなんかない」
「本当に?僕はたまに心配になるよ。昔のルイは冒険が大好きだったから、好奇心には勝てないって事も知ってるもの」
「今はもう大人。カオルよりもね」
ルイの本当の誕生日も分からないが、孤児院では引き取った日や拾われた日を誕生日としている。わずか3日しか違わないのだが、それでも先に拾われたルイはカオルよりも先に20歳になった。
「体的には僕の方が大きいんだけどな」と言いながら、カオルはルイに並んで少しだけルイを見下ろして来た。
実際そんなに大きな差はないが、ほんの少しだけカオルの方が背が高い。
とはいえ、二人の体格は一般的には小柄で線が細い。
これもまた、Ω特有の体型と言えた。
側から見ればどんぐりの背比べだが、二人にとってはこんな小さなものでも競う材料にはなり得るのだ。
それは二人に物心がつくようになった頃から、当たり前のように繰り返された光景だった。
そんな日常とも言える時間の中で、不意に日常には合わない子供の泣き声のようなものが聞こえてきた。
「誰か泣いてる?」
「井戸の方から聞こえる。ちょっと見てくる」
「え、僕も行く」
ルイとカオルは声のする方を辿って井戸の側までやってくると、その声が井戸の中から聞こえてるのが分かった。
「中からだ」
「子供が落ちてたら大変だ」
「俺が様子見てくるから、カオルはここで待ってて」
「僕も一緒に…」
「いや、もしかしたら誰か呼んで来た方がいいかも知れないから、そうなったら下から言うから」
「そっか、分かった」
ルイはカオルをそこに残して井戸の中へと入っていく。ここに入るのはあの日以来で、誰が入れたか分からない梯子もあの時のままそこにあった。
少し朽ちたようにも見えたが、足を掛けても多少軋むだけで折れそうなほどでもない。
慎重に梯子を降りていくと、以前と同様に水は何も溜まっておらず、先には暗い通路が穴から横向きに続いていた。
子供の泣き声はそこから聞こえていて、しかも随分と近くにいるようだった。
それでも光を一切通さないそこは、伸ばした手すら見えない程に暗く、あの場所までは真っ直ぐにしか伸びていない事を知っていても一歩を踏み出すのには躊躇った。
「今そっちに行くから動かないで待ってて!」
暗闇に向かってそう言ってみるが、子供の泣き声が大きすぎて届いている気はしない。
とにかく行くしかないので、うっかり子供を踏んでしまわないように注意しながら前に進んだ。
慎重になり過ぎたせいか、近くにいると思っていた子供を見つけたのは中を歩いて5分程経った時だった。
目の前に足が見えて、ホッとしてその子に手を差し出した。
「迎えに来たよ。どうしてこんなところに…」
そう言いかけてルイは言葉を詰まらせた。
差し伸べた手にしがみついて来た小さな体が、予想していたものとは違う感触を伴っていたからだ。
信じられない思いでその子供を見下ろすと、その子の顔は狼のような顔をして、それでもやはりあどけない子犬のような幼さがある。
そして、ルイの手にしがみついて来たその小さな腕にも、ふわふわとした被毛が生えている。
「えっ…獣人の子!?」
そう言ってルイが瞠目していると、その小さな獣人もルイが人間である事に気付いて驚いていた。
掴んでいたルイの手を離し、慌てて逃げようとするその子をルイも慌てて引き留めた。
「待って!危ないから走っちゃダメだよ」
ルイはその子に言い聞かせるのだが、人間であるルイが怖いのか、腕を離せと言わんばかりに暴れている。
その子を後ろから無理矢理抱きしめて、小さくて柔らかな頭を優しく撫でた。
「大丈夫。いじわるしないよ」
そう言いながら何度か頭を撫でていたら、子供は抵抗するのをやめてルイをこっそりと見上げて来た。
それから鼻をヒクヒクと動かして、ルイの匂いを嗅いで何かを確かめているようだった。
「怖かったよね。ごめんね」
ルイはそう言うが子供は何も言わずにルイを見上げている。さっきまで地上まで響くほど泣いていたのが嘘のようだが、目の前にある理解し難い状況に涙さえも引っ込んだのかも知れない。
そう思うとこれ以上無闇に刺激したくはないので、努めて優しく静かにルイは言った。
「あっちの方から来ちゃったんだよね?どうやって中に入ったの?」
その問いかけにも子供は無反応なままだった。
獣人の子供はよく分からないが、もしかしたらまだ言葉を理解するほどの年齢じゃないのかも知れないなと思った。
このままでは埒があかないと、ルイはその子が来たであろう方向を指差して、その後で自分とその子を交互に指差した。
そのジェスチャーで意図を汲んでくれたのか、一つ頷いたその子がルイの拘束をやんわりと外した後でルイの手を握って来た。
一緒に行こうと言うルイの意図はちゃんと理解してくれていたようでホッと胸を撫で下ろした。
それから何故かその子がルイを先導するようにズイズイと暗い通路を突き進んで行く。
その時になって気付かされたのは、人間のルイよりも獣人であるこの子の方が、夜目が利くのではないかという事だった。
その証拠にルイにはあまり見えていない先をその子は見据えているようでもあった。
暗い通路を抜けて穴の出口が近づいて来た時には、ほんのりと明るくもなって来ていて、そろそろここで別れなければとその子を一度引き留めた。
「ごめんね。ちゃんと最後までついて行ってあげたいんだけど、俺はここまでしか行けないんだ。出口もすぐそこだから、もう大丈夫だよね?」
ルイはその子の目線に合わせて問いかけるが、やはり言葉を理解出来ていなさそうで、挙げ句に首を傾げられてしまった。
再びジェスチャーでなんとか伝えたのだが、それには首を振ってルイの手を強く何度も引っ張った。
良くないとは分かっていたが、出口のギリギリまではついて行く事にして、ルイはその子と手をつなぎ直し、明かりの見えるその先へと向かった。
出口が近づくにつれて涼やかな風が体を通り抜けていく。
5年前、偶然ここにたどり着いた時と同じ、あの風の匂いがした。
行ってはダメだと分かっているのに、期待する心はその理性を抑えられない。
ルイはその子に手を引かれながら、5年ぶりにあの日と同じ大地を踏みしめていた。
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