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第2話
目の前に広がる光景は、あの頃と全く変わっていなかった。
木々が織り成す街並みが、自然と調和しながら生きている。
「やっぱり綺麗…」
ルイがそう呟くと、手を繋いでいた獣人の子がルイの手をぐいぐいと引いた。
ハッとしてその子を見下ろすと、その子はさらにルイを街の中へと連れて行こうとする。
他の獣人に見つかると大問題になる。
さすがにそれだけは出来なくて、ルイはその子にこれ以上は一緒に行けないと手振りで伝える。
その子は見るからに悲しんでいて、どうして先程会ったばかりのルイを強引な程に連れて行こうとするのか不思議だった。
「ごめんね。本当は俺はこっちに来ちゃいけない人間だから」
なんとかそう伝えるのだが、獣人の子は弱々しく首を振りながら、ルイの手を離そうとしない。
途方に暮れるルイだったが、ここで長く押し問答をしていてはいずれ他の獣人に見つかってしまう。
可哀想だと思ったが、こればかりは心を鬼にしてその子の手を引き剥がした。
「本当にごめんね。でももう戻らないとならないから」
そう言ってルイが穴の中に入ろうとしたところで、その子が今度は足に纏わりついてくる。
「えっ、ちょっ…!」
足が縺れて倒れ込んだと同時に、目の前に影が差した。
地面に倒れると思っていたのだが、ルイの体は温かくて柔らかいものに包まれていた。
「…え」
反射的に瞑っていた目を開け、おもむろに顔を上げると、そこには狼のような顔があって、ルイの体はその獣人の腕の中に綺麗に納まっていた。
心臓が跳ね上がり、顔から血の気が引いて行く。
5年前のあの時には感じなかった恐怖が一気にルイに襲いかかった。
慌てて獣人の体から離れようとしたのだが、その胸についたルイの手を獣人が掴んで離さない。
「ごめんなさい!違うんです!あのっ」
「二度とこちらには来るなと言わなかったか」
獣人は無表情のままルイを見下ろしてそう言った。
その言葉に驚いてルイは獣人の顔を凝視した。
「え…もしかして…ラスター?」
ルイがその名を口にすると、獣人は深いため息を吐いてルイの腕を離した。
「懲りないやつだな、おまえも。次は迷い込んだなどと言い訳は出来ないぞ」
そのセリフに確信を得たルイは、あまりの嬉しさにラスターに抱きついた。
「凄い!こんな偶然ってある!?」
「何をしている!早く離れろ!」
ラスターは自身に纏わりつくルイを引きはがすが、ルイはラスターの腕を掴んで喜色に富んだ顔で見上げた。
「本当に奇跡みたい!あれからずっと来てなかったのに!」
「だったらなぜまた来たんだ。来るなと言っただろう」
そう言われてようやくあの獣人の子の事を思い出した。
ルイの足に纏わりついていたはずのあの子はどこに行ったのか。辺りを見渡すとラスターの後ろで隠れるようにしてルイを覗き込んでいるその子を見つけた。
「あ、その子。あの穴の中に迷い込んでたから連れてきたんだ。」
ラスターは後ろを振り返ってその子を確認すると、突然その子に拳骨をした。
その行動に驚いて慌てて止めに入ると、その子はルイの影に隠れてラスターを睨んでいた。
「ちょっ…なんでそんな急に!」
「アッシュ!またおまえは!」
「え?」
ラスターがその子に向かって怒鳴りつけると、その子は体をビクッとさせてルイの足にしがみつく。この状況を見てルイにある考えが浮かんだ。
「もしかして、この子、ラスターの…?」
「甥だ。兄の子だからな」
「あ、そうなんだ」
ホッとしたようながっかりしたような、どちらともとれない感情を覚えたが、その理由を考えるよりも今のこの状況をどうにかする方が先だった。
「あの、とにかく俺は帰らないと…」
「あ、あぁ、そうだな。」
その子…アッシュがラスターの甥ならば、もう任せてしまっても問題はないだろう。
さすがにこれ以上アッシュが駄々をこねるとも思わないので、足に纏わりつくアッシュの手を握り、足からゆっくりと離した。
「アッシュ、ここでさよならだよ。俺に会った事は誰にも言っちゃダメだからね?」
目線を合わせてそう言い聞かせるのだが、やはりアッシュは言葉があまり分かっていないようだった。困ったルイはどうしたものかとラスターを見やる。
「ラスター、アッシュはまだ言葉を理解していないの?」
「…いや、もう5歳になるからな。ある程度会話は出来るはずだが…」
「そうなの?でも中で会った時も今もずっとこんな感じで、まだ言葉が分からないんだと思ってたんだけど」
「そんなはずは…」
そうラスターが言いかけた時、アッシュが何やら小さな声で囁いた。
聞き取れなかったルイは「なに?」と聞き返して耳に手を当てると、先程よりも大きい声でアッシュが呟いた。
が、ルイにはそれが何を言っているのかさっぱり分からなかった。
それはアッシュが子供だから聞き取りづらいというわけでも、支離滅裂な事を話しているというわけでもなく、アッシュが話す言語そのものが分からなかったのだ。
「え、なに?何語?」
「何語?普通に話してるだろう」
「え?なんて?」
「おまえのそのイヤリングを知ってるって言ったんだ」
「えっ、そんな事言ってた!?」
ラスターは平然と頷く。
ルイにはとてもそうは聞き取れなかった。
「まぁ、アッシュが知ってて当然だけどな」
ラスターはそう言って、自身の腰に下げていた小さな巾着から、ルイの耳にあるイヤリングと同じものを取り出した。
それはあの時ラスターがルイにくれたイヤリングの片割れ。
「…持っててくれたんだ」
「当たり前だろう。俺がおまえにあげたものだ」
そうだけど、人生の中では一瞬でしかないあんな出来事を、ラスターも大切に思ってくれていたのかと思うと、それだけで凄く嬉しかったのだ。
そしてアッシュがまた何かを言った。
それもルイには聞き取る事が出来なかったので、ラスターが通訳をしてくれた。
「俺が持っているものと同じだったから、友達なんだと思ったって言ってる」
アッシュはアッシュなりに、あの穴の中にルイも迷い込んだのだと思い、同じイヤリングをしているルイがラスターと友達なら連れて行ってあげなければと思ったらしい。
それには人間とか獣人とか、そういう種族の違いは関係がなく、困っているなら助けなければという優しさでしかなかった。
それにまだアッシュは獣人と人間の間に領土の問題がある事は知らない。
ルイがあちらに戻らなければという意味も分かってはいなかったのだ。
「ありがとうアッシュ。おかげでラスターに会えたのは俺も嬉しい」
ルイはそう言ってアッシュを抱きしめた。
その言葉もアッシュには通じていなかっただろうが、それを通訳する必要はなかった。
抱きしめるルイの腕からその気持ちはきっと伝わっていただろうから。
「感動的なところで悪いが、そろそろ帰った方がいい。どうしてまたあの穴が開いたのか分からないが、こんな事はもう二度と起こらないようにする」
「…そうだね。これは俺たちだけの問題じゃないから…アッシュにも秘密だって伝えて」
ルイがラスターにそう言うと、ラスターも神妙な顔で頷いた。
もし万が一アッシュがこの事を誰かに話せば、それが大きな問題を生み出すことになる。
それはルイだけが責められるものではなく、ルイを見逃したラスターもその責を負われる事になるだろう。
「ありがとうラスター、二度も見逃してくれて」
「…三度目はない」
「分かってる」
ルイは名残惜しむ気持ちに蓋をして二人に別れを告げる。
本当にもう、会う事はないだろう。
5年前も同じように思った。
そして再び偶然が起こってしまったけれど、それももう起こりはしない。
起こってはならない。
ルイが身を屈めて穴に入ろうとしたその時、不意にラスターがその肩を掴んだ。
「待て」
「え?」
ラスターの耳がピンと立って、ルイには聞こえない音を拾っているようだった。
「まずい。誰か来る」
「えっ!」
「アッシュ、ついて来い!」
そう言ってルイを腕の中に抱え込んだラスターは、素早く穴に蓋をして、足早に木陰に駆け寄り身を隠した。
「何!?」
「黙れ…!」
ルイの口はラスターの手によってふさがれ、その声を封じられる。
ラスターの腕の中からこっそりと辺りを伺うと、先程まで自分がいた穴の近くには別の獣人が立っていた。
ラスターはその獣人が近づいてくる足音が聞こえて、咄嗟にここに身を隠したのだ。
「…まずいな」
「どうしたの?」
「あいつは俺の部下だ。多分、俺を探してここに来たんだろう」
「部下って…どうしてラスターを探しに?」
ルイが小声でそう聞いたが、ラスターがそれに応えるよりも先に部下の獣人が木陰の方に向かって歩き始めた。
このままここに居ては見つかってしまう。
ラスターは少し悩んだ後で、再びルイを腕の中に抱きこむと、アッシュを片手で抱きかかえ、建物などを上手く利用して街の中をなんとか通り抜けていく。
バレないのが奇跡のようなものだったが、そうして行き着いた先は、どの建物とも趣が違う豪華な宮殿だった。
正門を通らずに建物の横を通って行くと、建物の中間あたりの壁にラスターが手を付いた。
するとその壁は隠し扉になっていて、表裏同じ模様の壁がぐるりと反転した。
その中は大きな一室になっていたが、その中央には部屋に見合うほどに大きなベッドが置かれていて、そこが寝室であるという事だけがルイにも分かった。
そこについてようやく解放されたルイは、部屋をぐるりと見渡して「ここは?」と聞いた。
「…俺の部屋だ」
「えっ…!ここが!?」
ルイは驚愕の表情でラスターを見るが、決して冗談で言っているような素振りはない。
改めて部屋を見渡してみるが、どう見たって一般階級のお家柄ではない。
「あの…ラスターって…王様かなんかなの?」
「王様ではないが、家系としては似たようなものだ」
「そう、なんだ」
ラスターは疲れたとばかりにベッドに腰を落ち着けると、アッシュを降ろして「まだ出て行くなよ」と言った。
「でも、どうしようか…戻らなきゃならないのに」
「何か方法は考える。とりあえず今はここで待っていろ」
「さっきの人、ラスターの部下なら見逃してくれたりはしない?」
「難しい問題だな。確かにあれは俺の部下だが、国に忠誠を誓った者だ。国を揺るがす問題となれば、それが自分の上司の事だろうと黙ってはいないだろう」
そうでなければ国や街は立ち行かないのだ。
一人の傲慢やエゴイズムも許してしまっては、国はいつしか無法地帯となってしまう。
これは獣人の世界だけではなく、人間の世界でも同じだった。
その思考は種族が持つものではなく、この国に生きる者の価値観として受け継がれてきたものだ。
「忠誠心が仇となるってことか…でもしょうがないね。これは俺が招いたことだから、裁きを受けるべきは俺の方だもの」
苦笑を受けべながらルイが言うと、ラスターは厳しい顔つきになって「俺も同罪だ」と言った。
そのラスターの言葉にアッシュが反応をして、困った顔でラスターに縋り付いた。
きっとルイが言った言葉は伝わっていないだろうが、二人の雰囲気が不穏である事は感じているはずだ。
「ラスター、アッシュを帰してあげて。お兄さんのところにはここから帰れるんでしょ?」
「…あぁ、というか、うちの一族はここが皆の家になっているからな」
それはルイもそうではないかと察していた。
これだけ大きな建物で、しかも王様に似た家系であるのなら、一族で所有する建物なのだろう。むしろ、ここにラスターが一人で住んでいると言われた方が驚いてしまう。
ラスターはアッシュに「ルイの事は俺たちだけの秘密だ」と約束を取り付けて、アッシュは「秘密」という言葉に何か使命感の様なものを持って頷いていた。
アッシュが部屋を出て行ってから、ルイとラスターはしばらく沈黙していた。
厳しい顔つきで考え込んでいるラスターを、ただじっと見つめていたルイだったが、改めてその姿を眺めていた事で、ラスターが獣人という種族である事を思い知っていく。
「ラスター、聞いてもいい?」
ルイがそう問いかけると、ラスターは表情を変えずに「なんだ」と言った。
「そんなに自分を追い詰めないでよ。こうなったのは俺のせいなんだから、もし向こうに帰れなかったとしても、ラスターに迷惑は掛けたりしないから」
「…別に、迷惑だなんて思っていない」
「だけど、もし見つかってしまったら、迷惑では済まされない問題だから」
「それはそうだが…」
「せっかくこうやって話せる時間があるんだから、そんな厳しい顔ばかりしてないでラスターの事を教えて?」
今の状況を考えれば、ルイのセリフは呑気だと思われるだろう。
大罪を犯している真っ最中に、お互いの事を知ろうなんていう友達ごっこをしている場合ではない。
さりとてそんな事はルイだって分かっている。
だけれど、こんな時でなければラスターの事を知れる時間がないのだ。
「ラスターの歳はいくつ?」
「…そんな事を聞いてどうするんだ」
「ねぇ、いくつなの?」
楽しそうに聞いてくるルイに、ラスターは呆れた顔で「25だ」と答えた。
「そうなんだ、俺より5つも年上だ」
「…そうか。人間てのは童顔なんだな」
「そんな事ない。獣人が老けてるだけだ」
と言うより多分、ルイが人間の中では童顔な方で、ラスターは獣人の中でも大人びているだけなのだが、それを比較出来るものをお互い持っていないので知りようもない。
「ラスターは恋人はいるの?」
「そんな事まで言わなきゃならないのか」
「いいじゃない。どうせこの先二度と会う事はないんだし。帰れても、帰れなくても」
「帰す。必ず」
ラスターのその思いにルイはまた嬉しくなる。
本当ならばラスターはルイの為にそんな危険を犯す必要がないのだ。
今すぐにでもルイを然るべき場所に突きだして、勝手に入ってきたところを見つけたとでも言えばラスターは何も疑われる事はない。
もちろん、そうでなくても手引きしたわけでもないラスターが疑われる余地はないのだけど。
「ねぇ、その、触っても、いい?」
ルイは恐る恐るそう尋ねた。
人間の世界では見る事がない被毛に包まれた大きな体に触れてみたかった。
正確に言えば、ここまで連れて来られている間も触れてはいたのだが、その時は必死に体を縮こませていて、手触りを確かめている余裕なんてなかった。
いくら被毛があるとはいえ、体に触れていいかと聞かれて快諾されるわけがないと思っていたのだが、ラスターはあまり気にした素振りもなく「勝手にしろ」と言った。
それにはむしろルイの方が驚いて「いいの?」と聞き返した。
「別にかまわん」
やはり至極どうでもよさそうにラスターが言うので、ルイは自分から言った癖に少し躊躇いがちにラスターの横に腰を降ろした。
「じゃあ、お邪魔、します」
どうにも合っていないセリフを吐いて、ルイはラスターの腕に触れた。
自分の指先が厚い被毛の中に半分ほど埋まる。
柔らかくて温かい被毛の下には、しなやかな筋肉があるのが分かる。
「これが獣人なんだ…」
ルイがそう呟くと、ラスターが一瞬目を丸くした後でふっと笑った。
「随分と今更な事を言うんだな」
「そうかな?だって前回会った時も今日会ってからも、ろくに考える時間もなかったじゃない」
「それもそうだが…獣人なんて見れば分かるじゃないか」
「そうだけど、そうじゃないって言うか…だって、ラスターだよ。5年前に会った時からずっと忘れたことなんてなかったんだから。もう二度と会えないと思っていたのに、また会えたなんて本当に奇跡でしかない」
「確かにな」
「そうだ、どうしてラスターはすぐに俺だって分かったの?」
再会を果たしたあの時に、ラスターはすぐにルイをルイだと分かっていた。
それには何の迷いもなくて、ルイにとっては負けたような気分だった。
5年前のあの日からこの世界の事も、ラスターの事も、毎日のように思い出していたのはルイだけだろうし、その思いは絶対にラスターに負けていないと自負できる。
それなのにいざ再会してみると、ラスターはルイに気付いていて、ルイはラスターに気付けていない。それは酷い敗北感を味わうものだった。
だからこそ、どうしてラスターがルイだと分かっていたのか知っておきたかった。
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