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第3話
ルイが「どうして分かったの?」と催促すると、ラスターは少々の気まずさを覚えながら答えた。
「匂いだ。おまえの…匂いがするんだ」
「え、匂い?」
「あぁ、甘くて美味しそうな香りがするんだ」
「美味しそうって…獣人は人を…」
「食べるわけないだろう。そういうのではなくて、なんというかこう…誘われるような香りなんだ」
そう言われてルイは自分の腕の当たりを匂ってみたが、なんの香りも感じない。
自分の匂いというのは自分には分からないものだからしょうがないが、それでも他の人からも未だかつてそんな風に言われた事はなかった。
「それは俺にしかない匂いなの?」
「あぁ、前に会った時も同じ香りがした。と言っても、俺はおまえ以外の人間には会った事がないから、もしかしたら人間は皆同じ香りがするのかも知れないがな」
「そっか…でも、これからもきっと会う事はないから、その匂いは俺の匂いになるんだね」
甘くて美味しそうな、そして誘うような香り。
そう聞いて悪い気はしないのだが、その表現には何か引っかかるものがある気がする。
「それにしてもおまえは熱いな。人間は皆こんなに熱いものなのか?」
「え…?そんな事はないと…」
そう言いかけてルイははっと息をのんだ。
本来、獣人と人間では獣人の方が微妙に体温が高い。個人差があるものだが、健康的に生きていれば大体はそういうものだ。
だけど人間もある一定期間は獣人よりも体温が高くなる時がある。
風邪を引いた時などの病を抜かせば、大体理由は一つしかない。
「…どうしよう」
「なんだ?」
「ラスター、これは凄くまずい事態だ」
「だからなんだ」
「…俺、多分発情期が来る」
ルイの言葉にラスターも驚愕してルイから体を離した。
「どういう事だ。抑制剤は飲んでないのか」
「今回はまだ…」
ラスターから舌打ちがこぼれた。
だが、その気持ちはルイにも大いに分かる。
本当ならば、急に発情期が来たとしても危機的な状況ではない筈だった。
人間同士であれば、たとえルイが発情期になろうとも他の誰かが影響を受ける事はない。
苦しいのはルイだけのはずだった。
けれど、今目の前にいるのは獣人で、もしラスターがαだったなら、問答無用でルイの発情フェロモンに当てられる。
そうなったら最後、ラスターかルイが抑制剤を飲まなければ、どうなるかは知れた話だ。
「一応聞くんだけど、ラスターって…」
「αだ。くそっ、こんな事になるとも思ってないからうちに抑制剤なんかないぞ。うちは皆αの家系だから抑制剤なんか必要ないんだ」
なんとなく分かっていたが、真実を知ればそれはより残酷に聞こえてくる。
このままルイの発情期が本格的になれば、フェロモンは増大し高い確率でこの建物内にいるαにルイの存在が知れる。獣人に影響を与えるフェロモンを放つのが人間だけならば、フェロモンを感知されただけで終わりなのだ。
そうなる前になんとか手を打つ必要がある。
「今からあちらに戻れば間に合わないか?」
「分からない…ラスターが感じた甘い匂いが俺のじゃなくてフェロモンだったとしたら…もう体まで熱くなってきてるのに、このまま外に出たら他の人に気付かれるんじゃ…」
そんな話をしている最中でも、ルイは自分の体の変化に気付いていた。
体温の上昇だけではなく、自分の中に湧き上がる制御しがたい性欲が、今にも目の前にいる獲物を捕らえようと触手を伸ばしているようだった。
このままではラスターを巻き込んでしまうのに、ルイにはどうする事も出来ない。
その変化にはラスターも影響を少しずつ受けていて、めまいがするほど甘い香りがルイから流れているのが分かる。
二人はこの変化の速さにいつまでも悩んでいる時間がない事を悟る。
「…どうしよう…このままじゃ…」
「選択肢が、ないわけじゃないが…」
「本当!?だったらすぐにっ!」
「だが、そんな簡単じゃないぞ」
浮かない表情でそういうラスターだが、ルイとしてはこの問題に打開策も浮かばない分、ラスターのその言葉は唯一の救いだった。
例えそれがどんなに困難な事であっても、どうにかなるならやるしかない。
そう思った。
「どんな事でもやるよ。それしか方法がないんだから」
ルイは強い眼差しでラスターを見る。
しかし、ラスターはそれでも難しい表情を崩さない。
「今優先すべき事は、おまえがこちらの領土にいる事を誰にも気づかれないようにする事だ。発情期である事が最大の問題でもあるが、それはこの際後回しにも出来る」
「…うん?」
発情期でフェロモンが増大しているから問題なのに、それを後回しに出来るとはどういう意味だ?
ルイはラスターの言葉に首を傾げたが、ラスターはそれを無視して話続ける。
「一応必要な知識としてαとΩの関係やそれぞれの特性については知っているつもりだ」
「…それで、どうしたらいい?」
今は長い前置きを黙って聞いてられる時間がない。
どうせやらなきゃならないなら、それにおけるリスクなど聞かない方がいい。
ルイはそう催促すると、ラスターは一度ため息を吐いてから意を決するように言った。
「俺とおまえが、番になればいい」
「……は…え…?」
番とはαとΩ同士でのみ結ばれる体の契約だ。
心は別の人を好きだったとしても、番契約を結んだ者同士は、他の者とは性交渉を結べない。
それは規則という意味ではなく、体が他の者を受け付けなくなるのだ。
他の者が触れれば体が勝手に拒絶し、場合によっては嘔吐するなどの症状も出る。
番を結ぶというのは、体の奥から相手の為に作りかえるという意味でもある。
そして、他の者を寄せ付けない体になったΩのフェロモンは、番のαにしか影響を与えなくなる。
つまり、ルイがラスターと番になれば、ルイのフェロモンはラスターにしか感じなくなるという事だ。
そうすればルイが発情期となってどれだけ強いフェロモンを溢れさせていても、他のαにルイの存在を知られる事はなくなる。
「番になればおまえの存在は消すことが出来る。今はそれしか方法がないんだ」
「…分かってる…分かってるけど…」
番という契約がある事は知識としてルイも知っている。
それは皆が何かしらの性別を持つ以上は当たり前の知識だった。
どうやったら人が生まれ、死んでいくのか。
それを学ぶ事となんら違いはない。
けれど、その知識だけはとても現実的なものではなかったのだ。
獣人と人間が交わらない世界では、それはどんな昔話を聞くよりも現実的ではない。
それなのに今はそんなありえないと思っていた事が起きようとしていて、ルイはとてもこの状況について行けない。
番契約をして、体がラスターだけを求めるようになって、そして、Ωはどうなるんだったか。
非現実的なものを今の自分の状況とすり合わせられる程、冷静な頭でいられなかった。
それでも唯一分かっているのは、こうする事でしかルイはラスターの事も自分の事も守れない。
そして、ラスターもルイを守れないのだ。
僅かな時間、悩んでいるだけでもルイの体は変化を続けている。
動悸が激しくなり、息も次第に荒れてくる。
「もうそんなにはもたない。早く決断するんだ」
「分かってる!けど、それでラスターはどうするの!?番になって、でも俺はあっちに帰らなきゃならないのに!」
「それは後で考えればいい!今はおまえがここにいる事を知られるわけにはいかないんだ!」
番になった先はもう誰も知れない世界だ。
領土が二分された日から、誰一人として異種間で番を結んだものはいないからだ。
未知なものは怖い。
それは誰しもがそうだ。
でも、怯えていてはどうにもならないのだ。
「分かった…番になる。ラスターと、番になる」
「いいんだな?」
「これしか方法がないんだし…それに…」
ラスターと番になるのならきっと悪い事ではない。
本当は出会うはずのない獣人。
会う事は許されない人なのに二度も会えた。
きっとそれは、運命だったのだと思う。
「ラスター…あなたに会えた事は…幸運だったと思いたい」
ルイはこの先に起きる事に願いを込めるように言った。
きっと上手く行く。
ラスターとなら、きっと。
ルイはラスターに背中を向けて、首筋にわずかにかかる金糸の髪を上げた。
番契約を結ぶためには、αがΩの項を噛まなくてはならない。
そうすれば契約は成立し、ルイはラスターのものになる。
その身を捧げるルイの姿を不憫に思いながらも、ラスターは同情とは違う気持ちも抱いた。
それがフェロモンの影響に寄るものなのか、それとも別の心で感じる何かなのか、それを判断するだけの冷静さは今のラスターにはありはしない。
「必ず守る」
ラスターは項に鼻先を寄せてそう囁いた。
その時ルイがどういう表情をしたのかはラスターには分からない。
けれど、「うん」と返したその声は、凄く安らかなものに聞こえた。
ルイの項に舌を這わせ、噛むべき場所を確かめるようにそこを愛撫する。
そうするだけでルイの体からは濃度を増した香りが漂い出す。
まるで視界がぼやけるような酔いを感じたかと思うと、胸の奥で熱いマグマのようなものがうねりを上げるのが分かる。
ラスターはその衝動に逆らう事なく目の前にある白くて柔らかな素肌に牙を突き立てた。
フェロモンに当てられて標準よりも伸びた犬歯がその柔肌にぷつりと刺さり、いとも簡単にルイの脊髄を刺激した。
「あっ…!あぁっ!んんっ…!」
ずぶずぶと中に侵略してくるその牙にルイは甘い悲鳴を上げた。
突き刺さる痛みがないわけではないが、それよりも体の奥から止めどなく噴き出してくる熱に翻弄されて、痛みの方は気にならない。
心臓の音が部屋中に響いているとさえ感じ、呼吸は強く、喉を鳴らして繰り返される。
ラスターの名を呼びたいと思っても、声を出す術も分からなくなる。
「くそっ…!匂いが強すぎる!」
「あ…あぁ…!」
番を持たないΩのフェロモンは、どのαをも誘惑する香りだったが、特定のαにだけ向けたフェロモンの香りは、明らかにこれまでのものよりも香りが濃くなる。
ルイの体がラスターの為に作り替えられたのだから、フェロモンもラスターの為のものに変わるのは当然で、その香りをラスターは強いと感じるのも当然というより、そうでなければならない。
そしてただでさえ危うかった自制は、この変化によっていとも簡単に奪われてしまう事となった。
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