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43.『さくら』
訃報を受けたのは、出張先の石巻でだった。
追われる心地で宿を出た。どこの桜もまだ、裸の枝に硬く花を守ったままだ。
「『ぼくは桜の花はあまり好きでない。』」
老眼鏡の向こう、眦に皺の寄った優しい桜嫌い。
あの夜、私が犯した罪悪を、彼は知らない。ゼミ合宿の夜。桜の見える露天風呂。この目で彼を汚したのを。骨ばって脂の失せた体に、胸の頂に、歯を掠らせたいと願ったのを。
罪悪から逃れるように、歩が早まる。知らず息が切れ、目が血走る。
枯れた木肌のような背中に。浮き出た脊椎に、指を舌を這わせたいと願った。
いつしか血走った目から、水が溢れた。とうとう、絶対に届かなくなった。それに安堵しているのか、絶望しているのか判らない。判らないまま、闇雲に走った。
ふと眼前が白く開いた。盛大な枝下の桜。
嗚呼、嗚呼。
その下に、彼がいた。
なんといふ、気まぐれなさくらだらう。
それは、的皪として私の目を射抜いた。
「好き、です。」
それはまさしくさくらの幽霊だった。
他の誰も、見ていなくって良かった。
叶うことも告げることもなく散った鴇色の感情に私は膝を折って嗚咽した。
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