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アネモネ 第1話
山下さんと俺はただの同僚だ。知っていることと言えば、歳は38で、妻がいて、社畜で、趣味はマラソンと犬の散歩だというくらいである。ついでにその妻と最近うまくいってないのも知っていて、目の前で酒に溺れている山下さんは気の毒なくらい可哀想だった。
「山下さーん、もう帰る時間ですよ」
「嫌らね。俺は帰りたくない」
呂律の回らない口調で残っていた熱燗を煽り、山下さんは撃沈した。
「ほら……そんなに無防備だと、どうにかなっちゃいますよ」
「………………」
返事がない。
場末の居酒屋は閉店準備を迎えていて、慌ただしく客が帰っていた。陳腐な歌謡曲が更に哀愁を漂わせている。
帰りたくない理由を汲み取ってあげれれば、どんなに楽だろうか。
孤独な日々を救ってあげたいけれど、山下さんにも俺にも、覚悟があるのか分からない。
俺は、1度だけ寝たことのある身体を摩ってみた。次があれば、間違いなく戻れなくなるだろう。確実にお互いの世界が変わってしまう。
「やましたさん……」
伏せた彼へ近付き、手の甲に唇を落とす。嗅いだことがない柔軟剤の匂いがした。
「…………俺は、帰らないからな」
念押しのように降ってきた言葉に応えるように、居酒屋の隅で唇を重ねた。
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