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第1話 ①

 駅のホームに入って来る見慣れた車両を眺め、その車両の混み具合を目測して小さな息を吐く。丁度帰宅ラッシュに重なる時間帯。開いたドアから流れ出る人波が落ち着くのを待って目の前の車両に乗り込んだ。  ドアが閉まると同時にガタンと大きく車両が揺れる。次第に加速していく電車の中で夕陽のオレンジ色がやがてピンク色と混ざり合い、次第に藍色が濃くなっていく空をぼんやりと眺めた。  電車の心地よい揺れに身を任せながらふと隣に立つスーツ姿のサラリーマンを見た。歳は四十前後といったところだろうか、洒落た眼鏡がその顔によく似合っている。などとつい見定めてしまうのは、職業病か。  船口哲平(ふなぐちてっぺい)は大手メガネ店勤務。入社四年目。三カ月前二つ年上の先輩社員が出産の為退職したのを機に、その後を引き継ぐ形で店長に昇格。仕事は順調。どこにでもいる普通の二十六歳。  ふいに胸元で小さな電子音がし、哲平は揺れる電車の中ドアに寄りかかりスーツの胸ポケットからスマホを取り出した。少しずれた眼鏡を中指でそっと押さえ、SNSアプリの画面を開く。 【来週、予定通り休めそう? 久々にゆっくりデートできたらいいなぁ!】  可愛らしい絵文字とスタンプ付きのメッセージを送ってきたのは恋人の坂下小夏(さかしたこなつ)。三つ年下の彼女とは職場の同僚に誘われた飲み会で出逢い、その付き合いもそろそろ一年になる。  店長に昇格してここしばらくバタバタしていてデートどころではなかった。久しぶりに彼女との時間が取れる。スマホを慣れた手つきで操作し、来週の約束に問題がないことを伝えると、即レスがあり愛らしいウサギが嬉しそうに飛び跳ねているスタンプが返って来た。  彼女らしいと画面を見て思わず小さく笑うと、哲平はここが電車の中だということを思い出して表情を引き締めそのまま手にしたスマホをポケットに戻した。    最寄り駅に到着すると、哲平はそのまま駅を出て徒歩で自宅まで向かう。駅から自宅までの所要時間はおおよそ十五分程度。近すぎず遠すぎず、歩くのにはちょうど具合のいい距離だ。  家族と共に住んでいる今の自宅は、哲平が小学校に入学するのと同時に引っ越してきた当時大規模といわれた新興住宅地。あれから二十年。立ち並ぶ家々も今となっては古くなり、新しさよりも味わいのほうが強くなった。  車が多く行き交う大通り沿いのコンビニエンスストアから一本道を入ったところにある住宅街を歩くとじきに自宅が見える。普段はほとんど人通りも少なくひっそりとしている自宅前が珍しく明るいことに気づいた哲平はその歩調をほんの少し速めた。  自宅前に佇む見覚えのある人影。それが両親だということに気づいて小さく息を吐く。 「ただいま。何してんの、そんなとこで」 「ああ。哲平か。おかえり」 「どうしたの」  そう尋ねると両親が顔を見合わせてから、少し声を落とし口を開いた。 「……いま、大変だったのよ。隣の(ゆう)くんのお父さん、救急車で」 「救急車?」 「たったいま運ばれて行ったとこ……」  そういった母が心配そうに隣の家を見つめた。 「病気かなんか?」 「いや、どうだろうな。つい一昨日の晩、顔合わせた時には普通に元気そうだったけどな」  今度は父が首をかしげながら答えた。  哲平自身も二、三日前の朝、玄関先で挨拶を交わしたばかりだ。丁度朝方雨が降りだして『朝からまいっちゃうよなぁ……』なんて少しぼやくように笑った顔は普段と変わりないように見えた。 「おばさん、病院?」 「ああ。一緒に救急車で」  隣の家の岩瀬家とは哲平たちがこの住宅地に越して来た頃から家族ぐるみの付き合いをしてきた。今では挨拶や世間話を交わす程度だが、小さい頃は週末に両家で遊びに出かける事も度々あったほどだ。 「心配だな……」  そう呟くように漏らした父親の言葉にまともな相槌も返せないほどには、この隣家の事件は哲平にもショックな出来事だった。 「お父さん、もう入りましょ。哲平、あんたもご飯食べるでしょ?」 「……ああ。一服してから行く」  両親が家の中に入るのを見送って、煙草に火をつける。数年前に父親が煙草を止めて以来、家の中で煙草を吸うことを禁じられた哲平の専らの喫煙所がこの玄関先のみ。世は禁煙ブーム。どこにいても肩身の狭い思いを強いられるがこればかりは仕方ない。  煙草を咥えたまま昔はよく出入りしていた隣の家の二階の窓をぼんやりと眺めていると、勢いよく通りの角を曲がってこちらにやってくる車のヘッドライトが哲平の顔を照らした。  ライトの眩しさに反射的に目を細めると、やってきた車が隣の家の目の前で止まり運転席から背の高い男が降りてきた。バタンとドアの閉まる音がして、車から降りた男が哲平に気づいて動きを止めた。 「久しぶり。おじさん大変だったな」 「……ああ。哲平も知ってんのか親父のこと」 「いや。さっき帰って来て親から聞いて」 「そっか。俺もさっき連絡もらって職場からすっ飛んで来たとこ──」  隣の幼馴染みとこうして言葉を交わすのも随分と久しぶりだ。  幼馴染みのこの男の名は岩瀬悠介(いわせゆうすけ)。哲平がこの町に引っ越してきて最初にできた友人だ。家が隣同士、双方の子供同士の年齢も近かったことから、家族ぐるみで仲良くなった。  子供たちの成長に伴ってある程度の距離は出来たが、昔ほど親密ではないにしても今でも両家は良好な関係を築いている。  ピリリ、と悠介が手にしたスマホが暗闇の中で光った。 「あ、悪い。電話だ……」  悠介がそう断って電話に出た。 「ああ。姉さん?……うん、いま家。……や、わかんない。病院には母さん付き添ってったけど。いや、だからいっぺんに言われても──詳しいこと分かったら連絡するから、うん。じゃあ、また」  電話越しの姉に矢次早に質問を浴びせられたのだろう。悠介が電話を切るなり溜息をついた。  悠介の姉は数年前に結婚して、確か隣県に住んでいる。 「いまの葉月(はづき)姉ちゃん?」 「ああ。母さんから連絡だけ貰ったらしいんだけど、いろいろ聞かれたって俺も分かんねぇってのに……」  悠介が少し困ったように頭を掻いた姿を、なんだか少し懐かしいと思った。 「悠介もこれから病院?」 「──いや、たぶん入院になるだろうからって必要な物用意してくれって母親に頼まれて帰ってきたとこ」  悠介は高校を卒業するとすぐ一人暮らしを始めたため、今はこの家に住んでいない。ただ隣町に住んでいるということで、悠介の母親も遠くに住んでいる娘より息子をあてにしたのだろう。 「……なんか、久しぶりだな」  こうして悠介とまともに顔を合わせるのは。近いところに住んでいても盆と正月くらいしか家に寄り付かない、などと悠介の母親がぼやいていたのを思い出す。 「ああ」 「元気だった?」 「うん。哲平は?」 「元気だよ、俺は」  昔よく遊んでいた仲の良かった幼馴染みとの会話がぎこちないのは、ある時を境に、悠介との間に距離が出来たからだ。喧嘩をした覚えもなければ、何かそうなるきっかけがあったとも思えない。  その理由はいまも分からないまま。 「あのさ──」  そう言いかけた言葉は 「ごめん。バタバタしてるからまたな」  悠介の少し申し訳なさそうな笑顔と、玄関のカギを開ける音に遮られた。 「……ああ、そうだな。おじさん、大したことないといいな」 「ん。ありがとな」  ──俺が何かしたかよ?  あの時、そう訊けていたら何か変わっていたのだろうか。  夕食を済ませリビングから自室に引き上げると、隣の家のちょうど哲平の部屋に隣接する位置にある悠介の部屋にも明かりがついていた。  悠介は大学に入ると同時に一人暮らしを始め、実家に戻ってくるのはそれこそ盆と正月くらいのもの。年に一度か二度顔を合わせ世間話をする程度で、その付き合いはすっかり疎遠になった。  世間一般的な幼馴染みという関係など、そんなものなのだろうか。    初めて悠介と顔を合わせたのは哲平が小学校に上がったばかりの頃。  新しい土地に引っ越したばかりで周りには友達もいない。土地勘もなかった哲平の登校を心配した母親が、ちょうど同じ年頃の悠介に哲平の世話を頼んだのがそのきっかけ。  そこからは簡単だった。元々その年頃の子供同士が仲良くなる事などは光の速さと言っても過言ではないが、自分たちも例に漏れることはなかった。  登下校はもとより、帰宅後に遊ぶのも一緒。悠介が所属していた近所のサッカーチームにも誘われ、とにかく気づけはいつも悠介の傍にいた。  悠介はサッカーも上手かったし、勉強もよくできた。優しく面倒見もよく人気者だった悠介は哲平にとってまるで自慢の兄のような存在だった。  あのままずっと近くにいられると思っていたのに──。 「悠介は──あんま変わんねぇな」  ついさっき。久しぶりに顔を合わせた幼馴染みの顔を思い出しながら呟いた。  母親讓りの少し茶色掛かった髪と瞳。はっきりした目鼻立ちにふっくらとした唇。  小さい頃からいわゆる美少年ではあったが、成長した今もその面影は失われていない。むしろそこに男らしさが加わり、ますます魅力的になっていた。  未だもやもやと胸にくすぶり続けている感情。自分が何かしたかと思い返してみても哲平自身には思い当たるような出来事は何もない。  悠介はどうして自分を遠ざけたのだろうか。

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