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第1話 ②
午後八時。プルルルル、と店の電話が鳴り、哲平は書き掛けの報告書の手を止めてその電話に出た。
「お電話ありがとうございますアイコンシェ……──、あ、お疲れ様です」
途中で社名を名乗るのを止めたのは、相手が系列店のスタッフからだと分かっているから。閉店時間を過ぎたこの時間帯の電話は本日の売上報告の電話。
哲平の勤める眼鏡店は全国に百店舗ほどあるチェーン店。
そのおよそ百店舗が地区ごとに分かれ、さらに細かいブロックに分けられ、売上報告はそのブロックの長がまとめて本社に行うことになっている。
ブロック長の問いに本日分の売り上げを報告し、ちょっとした業務連絡と雑談を交わしたのち電話を切る。
この売上報告が済めば、本日の業務はすべて終了だ。
「俺も帰るか」
店の電話を留守電に切り替えて、カウンターの上を片付ける。書き掛けの報告書の提出期限は明日の夕方。比較的客の少ない昼までに片づければいい。
哲平の勤務する松浜 店は、ブロックの中で二番目に規模の大きな店。規模の大きな店というのはそれなりの売り上げ成果も求められる。
ロープライスの眼鏡店が勢力を伸ばしつつある昨今、昔ながらの眼鏡店の売り上げの実情は厳しい。以前は二百店舗近くあったうちの支店もここ数年で半数近くまで数が減った。
ロープライス店が低価格で押し切ってくるのなら、それに対抗するだけの商品品質、サービスなど付加価値が必要になる。
店舗勤務は嫌いじゃない。入社早々に本社の総務部に配属された同期のことを思えば、自分が店のトップになり実質煩い上司のいない現状はさほど息の詰まることもない。その分求められることも多くなるが、それは仕事をする上で致し方ない事。
周りの友人たちの話を聞く限り、特別給料がいいということもなければ悪いということもないが、昇給もあればボーナスも出る。まぁまぁ恵まれた職場だと言えるだろう。
仕事を終えた哲平は自宅に帰る途中、コンビニに立ち寄った。
今夜は父親が職場の飲み会。母親はそれを狙ったかのような友人たちとの夕食会。妹の梢 は彼氏とのデート。珍しく家には誰もいない。
普段は母親が夕食を用意してくれているのだが、さすがに今夜は息子一人だけのために夕食を用意していく気分にはならないのだろう。今朝家を出る際に、夕食は自分で何とかしてね、と母親に念を押されている。
料理ができないというわけではないが、帰宅後にわざわざそれをする気力も残っておらず、迷わずコンビニ飯を選んでしまうあたりは致し方ない。
「何食うかなー」
そう小さく呟いてコンビニに入るなり店の奥の冷蔵庫に向かうと、お気に入りの銘柄の缶ビールをカゴに放り込んだ。
その足で弁当コーナーに行くと、見知った男の横顔を見つけ、その男が手にしたカゴの中身を横から覗き込んだ。
「はは。悠介もコンビニ飯かよ」
そう声を掛けると、ハッとした悠介がこちらを見て驚いた顔をした。
「お、わ。……なんだ哲平か、びっくりした」
「こっち帰ってんの?」
「──ああ。親父のことで母さん参ってるみたいで。家にいてもろくに寝れてないみたいだし、さすがに心配で」
悠介の父親が救急車で運ばれたあの夜からすでに一週間が経とうとしていた。
「おじさん、結局何だったんだ? そんな悪いのか?」
「……ん。ちょっとな」
悠介が周りを気にするように少し声を落とし曖昧に答えた。
確かにこんなところでする話でもないと思い、哲平は目の前の棚から適当に弁当を選んで、先にレジに並んだ悠介の後に続いた。
真後ろからちょうど目の前にある悠介の後頭部を眺めた。少し色素の薄い茶色がかった髪の色や柔らかそうな質感は昔のままだ。
会計を済ませコンビニを出ると、先に外に出ていた悠介と並んで歩き出す。
中学の頃、哲平はまだ背が低くて以前は頭一つぶんくらい悠介のほうが背が高かったものだが、今では横に並ぶ悠介と目線がほとんど変わらない。そんなところにも月日の流れを感じる。
「親父さ──」
悠介が言葉を発した。先程の話の続きなのだろう。哲平はチラと悠介を見た。
「心筋梗塞だって。……幸い発作が軽かったから助かったけど」
哲平も詳しくはないが病名くらいは聞いた事がある。ケースバイケースではあるが、運が悪ければそのまま命を落としかねない恐ろしい病気だ。
「──それって」
「うん。一歩間違えればやばかったみたいなんだけど、母親がすぐに救急車呼んだのが良かったらしい」
「おじさん、今は?」
「入院してるよ。今度手術するんだって。……カテーテル手術っつうの? なんか足の付け根のトコから管 入れて心臓の血管が狭くなってるとこ広げんだって」
悠介の言葉に思わず顔をしかめた。
手術と聞くだけで身体がすくむのは、自分がそういうものとは無縁の生活をしてきたための得体のしれない恐怖からか。
「……それって難しい手術なのか?」
「や。手術自体はそんなに難しくないらしいよ。胸切る手術より身体への負担も全然少ないみたいだし」
哲平の手にしたコンビニの袋がガサッと小さく音を立てた。
「そんな顔すんなよ。大丈夫だって。親父、今んとこピンピンしてっから」
悠介が小さく笑った。
「へ?」
「すでに血管広げる薬点滴から入れてるから。安静に、とは言われてるけど、意識もしっかりしてるし手術さえすれば、すぐ退院できるらしい」
その言葉に哲平は安堵感と共にはぁと大きく息を吐き出した。
「そうなんだ。ビビらせんなよ」
「や。運ばれたとき危なかったのは事実だからな」
そう言った悠介の言葉は一見しれっとして聞こえたが、自分自身を安心させるための強がりのようにも思えた。
哲平は悠介のこんな顔を前にも見たことがある。大事なサッカーの試合前、チームのキャプテンだった悠介がチームメイトを安心させるために見せたなんでもないという顔。
「親父より母さんのほうが精神的に参ってるみたいでさ。今日主治医の先生の説明聞いてきた感じだと、手術して血管広げられれば大丈夫そうな感じだから平気だって言ってんのにさ──」
不安がない訳がない。
自分の父親が、一歩間違えれば亡くなっていたかもしれないという恐怖。
親子という関係上、いつかそういうときが来るのは誰しも分かってはいるが、それがリアルに感じられるという事に不安を感じない筈はない。それは悠介の母親にしても同じことだ。
「とりあえず、手術すれば問題ないってことか?」
「まぁ、そうだな。問題ないってこともないけど、手術してそのあとも血管広げる薬飲み続けて──あとは経過観察ってとこらしい」
「そ、か。……よかった」
哲平自身も悠介の父親のことは小さい頃からよく知っている。とりあえず、今すぐどうこうという状態でないということに心からほっとした。
「それじゃ」
悠介が軽く手を上げ、コンビニの袋がガサと音を立てた。気づけばすでに自宅前に到着していた。普段点いている部屋の明かりはなく玄関のポーチだけが点いている哲平の家に対して、悠介の家は部屋の明かりが漏れている。悠介の母親がいるのだろう。
悠介がチラと哲平の家を軽く指さし笑いながら言った。
「珍しいな。哲平ん家、電気点いてないの」
「ああ。今日、みんな居ねぇんだ。親父は飲み会。お袋は夕食会。梢はデート」
「ははっ。哲平だけぼっちかよ。デートする彼女くらいいねぇの?」
そう訊かれて一瞬言葉に詰まったのは、悠介がそういう話題を振ってくることが意外だったからだ。
「……うるせぇよ」
照れくささからそう少し乱暴に答えたが、なんだか嬉しかった。
久しぶりに味わった懐かしい感覚。お互いの間に遠慮なんてなかったあの頃のような。
このまままた会えなくなってしまうのはなんだか寂しいと思った。原因も分からず距離を置かれたままで、何年も何年も心の中に引っ掛かっていた棘のようなもの。
取り返せるんじゃないかと思った。ここから、また昔のように──。
「なぁ。悠介」
呼びかけた哲平の声に、悠介がズボンのポケットから取り出した家の鍵がその返事のようにチャリと音を立てた。
「こうして会うの久々だし、一緒にゆっくり飯食わねぇ?」
哲平は電気の消えた真っ暗な自宅を顎で指し示すように言った。だが、誘いに乗ってくれそうな雰囲気さえあった悠介の顔が一瞬曇った。
どうしてなのだろう。
どうして自分は悠介にこんな顔しかさせられなくなってしまったのだろう。
「──いや、やめとく。いま母さん一人にしとけないしな」
「そっか。そうだな」
哲平はただ引き下がるしかなかった。
「しばらくいんの?」
「うん。ずっとじゃないけど、しばらくは母さんの様子見に。来週親父の手術もあるし、落ち着くまではちょいちょい顔出すつもり」
「悠介って、いまどこ住んでるんだ?」
「言ってなかったか? ずっと松浜だよ」
「──え? 俺、職場松浜……」
そう答えると、悠介が驚いた顔をした。
「どこ勤めてんだっけ?」
なんという今更感。哲平は悠介が大学卒業後、隣町のシティーホテルに就職したことを母親づてに聞いていたが、悠介のほうはそれすら知らなかったという事実。
「駅北の大通り沿いのアイコンシェルジュって店なんだけど」
「ああ。あの眼鏡屋か!」
「知ってんの?」
「や。店だけな? 哲平の職場ってのは初耳。地元に就職して家から通ってるっつーことしか」
昔は知らないことなどなかったというのに。あれから十数年経ったいま、お互いに対する情報量がこの程度だったということに愕然とする。
「悠介」
「ん?」
「また──会えるよな?」
そう訊ねたのは自分の希望。あの頃に戻れるとは思わない。
けれど、あれほど仲の良かった幼馴染みとまたこのまま疎遠になってしまうのは嫌だと思った。
「はは。何だよ、それ? 会えんだろ? 家だって隣同士だし」
悠介が笑った。
「……そういうんじゃなくて」
哲平は唇を噛んだ。
「昔みたいに。普通に、友達としてって意味だよ」
なぜ、避けられたのか。どうして悠介は自分から離れて行ったのか。
理由があったのだとしたら、それを知りたい。自分が何かしたのならそれを改めたいし、ここからまた悠介との時間を取り戻せるものなら取り戻したいと思っていた。
「俺、あの頃悠介に何かしたか?」
それとなく悠介に訊ねたことがある。けれど、悠介は「何も」と少し悲し気に微笑むだけだった。
「……」
「なぁ! 何かしたかよ?」
哲平の言葉に悠介が困ったように微笑む。あのときと同じ顔。あれから随分月日が流れているというのに、また悠介に同じ顔をさせてしまう原因は一体何なのだろう。
「何もしてないって、昔から言ってるだろ? 俺もあの頃受験とか考えなきゃなんない時期だったし、高校行ったらそっちの友達とつるむようになるのも自然な事だろう? 家出たのは、早く自立したかっただけだし、そんなの普通の事だろ? 幼馴染みだからっていつまでも一緒ってほうがおかしいだろ」
悠介の言っていることは尤もだった。頭では分かっていた。分かっていた事だが、どこか自分の中で消化できない思いがあった。
もともと何かに執着するような性格ではなかったはずだった。
趣味でもスポーツでもハマれば精一杯取り組むほうだが、何をおいてでも譲れないものなどなかったはずだ。友人関係も恋人も、来るものは拒まず、去る者は追わず。それでいいと思っていたし、それを後悔することもなかった。
なのに、何年たってもここに拘ってしまうのは、ある種の執着なのか。
「だったら、連絡先教えろよ」
哲平が言うと、悠介が一瞬驚いた顔をしてから静かに目を伏せた。
──まただ。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「何で、そこで困った顔すんだよ? 俺が迷惑?」
「そうじゃない」
「んじゃ、いいだろ。携帯教えろよ」
自分でも不思議だと思う。どうして悠介に執着してしまうのか。
離れて行ったことを、まぁ仕方ないといつものように済ませてしまえないのはなぜだろう。
「……分かったよ」
そう答えた悠介が羽織ったブルゾンのポケットからスマホを取り出した。それからまるで呪文のように早口で携帯番号を口にする。
「──ちょい、待てって!!」
哲平もスーツのポケットからスマホを取り出して、ダイヤル画面を出して悠介の口から吐き出される番号を慌てて指でタップしていくが、途中で分からなくなった。
「だぁっ! ……もう一回最初から!」
「すぐ覚えろよ、たかが十一桁の数字くらい」
「るさいっての。悠介ほど頭良くねぇの、俺は!」
言い訳のように口にすると、悠介の表情がふっと緩んだ。
「……何だよ?」
「いや? 懐かしいなって思って。哲平、昔から数字弱かったもんな」
悠介が仲が良かった当時の事を思い出したかのように呟いた。哲平は悠介を見つめながらそうだな、と言いかけた言葉を敢えて呑み込んで、スマホに入力した数字の羅列からダイヤルをタップした。
するとすぐに悠介の手の中のスマホがピリリと鳴り、青白い光を放つ。
「ははっ。もう一回とか言ってたくせにちゃんと聞き取れてんじゃん」
悠介がスマホの画面を哲平に向けて、クスと笑う。
画面に表示されているのは間違いなく哲平の携帯番号だ。悠介はしばらく画面を見つめていたが、やがて鳴り続けている電話を切るとスマホをブルゾンのポケットに戻した。
「哲平。ほんと強引な、昔から」
そう言った悠介の言葉は、決して哲平を咎めているようではなかった。
昔からそうだった。小さい頃はよく喧嘩もした──が、最終的に折れてくれるのはいつだって悠介のほうだった。
「……それじゃ、またな」
別れ際、哲平は敢えて念を押すように言った。
「ああ」
悠介が少し困ったような呆れたような表情で返事をすると、玄関の鍵を開けて家へと入って行った。
哲平はそんな悠介を見送ってから門戸に手を掛け、玄関先でスーツのポケットから煙草を取り出して火を点けた。家に誰もいないのが分かっていてもこうして律儀に玄関先の喫煙所で煙草を吸うのは、すっかり染み付いたある種の習慣だ。
手に提げたままのコンビニの袋がガサ、と音を立てる。
無理矢理連絡先を聞き出したこと。多少強引であったのは認めるが、拒絶はされなかった。
長年途切れたままになっていた自分と悠介を繋ぐ糸を、どうにか手繰り寄せたことに無意識に頬が緩んだ。
「……ガキみたいだな」
そうだ。自分は寂しかったのだ。
ずっと続いていくと信じて疑いもしなかった悠介との友人関係が、まさかあんなにもあっけなく途切れてしまうなんて事を、あの時までは想像もしていなかった。
離れて行った悠介に恨みがましい気持ちを持ったことはなかった。
ただ、どうしてなのだろう? 自分が何かしたのだろうか? できるならあの頃みたいに、ごく自然な友人関係を取り戻したい、ただそれだけを願っていた。
ぼんやりと手にした煙草の先の煙を眺めていると、サワサワと髪を撫でる夜風とともに、どこからともなく桜の花びらが舞った。
哲平の家から数メートル離れたところにある小さな公園に、桜の木が一本植えられているのを思い出した。
小学校低学年くらいの頃だっただろうか。不格好に突き出た幹を足場に、どちらが早く上まで登れるかなどと無邪気に競い合った思い出が蘇る。
「はは……」
悠介のことが大好きだった。それは出会った頃から今までずっと。
仲のいい友達はそれなりにいたが、哲平にとって悠介は特別だった。たぶん、それは今でも──。
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