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第2話 ①

 悠介が玄関のドアを閉め家に上がると風呂場のほうから物音が聞こえた。どうやら家にいた母親が風呂に入っているようだ。  父親が倒れてからというもの、母親が精神的に不安定になっているのは事実だった。だが当初の事を思えば、病名を含め今後の治療の目処がついてきたという点では随分と落ち着いてきていると言える。  父親の倒れるところを直に目撃してしまった母親にとって、その動揺は計り知れなかっただろうが、それは悠介にとっても同じことだ。  自分の父親が一瞬でも死の淵を彷徨いかけたなどと思うと、想像だけで背筋が寒くなる。  悠介はたった今買ってきたばかりの弁当をダイニングのテーブルの上に置き、軽くキッチンで手を洗うと、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出しグラスに注いだ。 「あら、悠介。帰ってたの?」  ふいに背後から声がして振り向くと、風呂から出たばかりの母親が立っていた。 「……びっくりしたな」 「あら。それはこっちのセリフ。こっち帰ってきて大丈夫なの? ホテルの仕事忙しいんでしょう?」 「いや。そこまで忙しい時期でもないし、明日も昼からだし」  頻繁に実家に帰って来ているのは、そうは言ってもやはり母親の事が心配だからだ。  大学入学と同時に家を出て、Uターンで地元に就職したものの実家に帰ることをしなかったのは、家族と離れていたい理由があったから。  家族仲が悪いとか、そういう事ではない。すべて自分の個人的事情。負い目というわけではないが、好きなようにさせてもらっている分、こうした緊急時にはできるだけのことを、と思っている。  悠介には姉がいるが、その姉も隣県に嫁に出ていてそれこそ盆と正月くらいしか実家に帰ってこない実情。父親が不在の今、悠介にできることといえば、できるだけ傍にいてやることくらいだ。 「そういえば。さっき、話し声聞こえた気がしたけど……」  母親が思い出したように訊ねた。 「ああ。外で、哲平と。コンビニでバッタリ会って」 「あら、そうだったの。哲っちゃんのとこにも心配掛けちゃってるわね、きっと」 「──と思って、父さんの様子簡単に話しといた」 「そうだったの。哲ちゃんに会うのも久しぶりなんじゃない?」 「そうだな。こっち帰って来ても滅多顔合わせることもないし」  事実、この数年哲平と顔を合わせることなどほとんどなかった。悠介が実家に帰るのも年に数えるほど、その数回の帰省にたとえ顔を合わせることがあったとしても軽い挨拶を交わす程度だった。  それは、悠介が敢えてそうしていた事だった。哲平と深く関わりを持つことがないように。 「お弁当買ってきてたの?」 「や。来るって言ってなかったし、さすがに飯ないかと思って」 「やぁねぇ。あんた一人分くらいなんとでもなるのに。変な遠慮しないのよ」 「……はは」 「私、先に休むわね」 「ああ」 「ああ、そうそう。手術の日は葉月が来てくれるっていうから、悠介はいいからね」 「分かった。でも、仕事終わったら少し顔出すよ」 「うん。ありがとう。おやすみ」  そう言うと母親は洗面所に戻ると、髪を乾かしてから部屋に戻っていった。  ダイニングテーブルに着くと悠介はまだ温かい弁当を開け、箸を手に取った。  ポケットから取り出したスマホをテーブルの上に置き、そっと着信履歴の画面を開いた。一番上にはついさっき電話を鳴らした哲平の電話番号が表示されている。 「……」  数年ぶりにまともに顔を合わせた哲平は、幼い頃の無邪気さと強引さはそのままに、精悍な青年へと成長を遂げていた。 「変わんないな。ああいうとこだけは」  見下ろすのが常だった哲平の背は、自分より少し高いくらいに伸びていた。華奢なほうであった体つきもすっかり男らしく変わり、以前は掛けていなかった眼鏡がその印象を変えている。変わらないのは、感情がそのまま顔に出るあの素直さ。  関わり合うことを避けるために自ら距離を置いたはずなのに。  再び関わり合ってしまえば、それを心のどこかで嬉しいと思う自分がいる。 「……ダメなんだよ」  小さく呟いた声は、音のない部屋に吸い込まれるように消えて行った。    ふいにテーブルの上のスマホが震え、悠介は一旦箸を止め、口の中のものを飲み込んでからスマホを手に取り耳にあてた。 「……はい」 『岩瀬? もしかして、いま実家か?』 「ああ。言ってなかったっけ?」 『いや。帰るかも、としか。……その後、親父さんどうだ?』 「症状は落ち着いてる。この間言ってた手術、来週に決まった」 『──そうか。とりあえず、良かったなって言っていいのか?』 「まぁ、とりあえずね」  電話の主は、成島瑛士(なるしまえいじ)。高校の時の同級生であり、現在は悠介の恋人でもある。  悠介はこの辺りでは割と学力レベルの高い男子校に通っていた。なぜ男子校か、といえばただ家から近かったことと、当時の悠介の学力に合った高校だったからということ以外に特に理由があったわけじゃない。  クラスメイトとして知り合った成島とは、なんとなく一緒にいるようになったが、当時から今のような関係だったわけでもなければ、付き合いが続いていたわけでもない。成島と今のような関係になったのは、お互い社会に出て何年か前に偶然再会を果たしてからの事だ。 『仕事は?』 「うん。普通にしてる。多少気ぃ使ってもらえてんのか、早く帰してくれてるけど。今週暇だったからあれだけど、来週はそうもいかないし、手術の日は姉ちゃん来てくれるから」 『……そうか、ならいいけど。つか、連絡くらい寄こせよ』  父親が倒れて一週間ほど経つが、悠介自ら連絡を入れたのは当日くらいのもので、あとは成島からの連絡にSNSアプリのメッセージで返信を返す程度だったことを思い出す。 「悪い、バタバタしてて……。来週はそっち帰るから」 『分かった。んじゃ、来週な?』  そう言って成島は用件のみで電話を切った。こういう深くを追求しないあっさりとしたところが、成島のいいところだと思っている。

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