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第2話 ②
悠介が自分の性癖を自覚したのは、いわゆる思春期と呼ばれる年の頃。
友達の多くは小学生ですでに好きな女の子ができて、そこまではいかずとも異性を意識するというごく当たり前の変化を遂げて行ったが、悠介にはそういう感覚が正直ピンと来ていなかった。
成長には個人差があることは知識として分かっていたし、自分はたぶん『遅い』のだろうと、深く悩んだりしたこともなく過ごしてきた。
なんとなくの違和感を覚えるようになったのは中学に上がってしばらくしてからの事だった。
周りの友人たちが異性を強く意識し始め、クラスの中の誰が可愛いだとか、誰の胸がデカイだとかそんな話をするようになり、校内でちらほらと付き合い出す者が出始める。
そういった周りの環境の変化はさほど気にも留めなかったのだが、自分の環境にまでその影響が及ぶとそうもいかなくなるのは必然で。次第に自分が女の子たちに注目されていることに気づき始め、好意を持たれていることも自覚できるまでになった。
自分を好きだと告白してくれる女の子たちの気持ちはありがたいと思うが、そのことに心躍ることもなく、たいした関心も持てずにいた。
結果、誰とも付き合うことはなく友人たちには「勿体ねぇー!」などと言われ続けたが、女の子に囲まれるより、男友達に囲まれていたほうが格段に居心地がよかったのだ。
その年頃友人たちが興味を持つような、その手の雑誌やらDVDにも興味が持てず──もちろん付き合いという意味ではそういうものの鑑賞にも参加してみたが、画面の中で卑猥な声を上げている女に興奮を覚えることもなく、どちらかといえば、その女を悦ばせている男の骨ばった長い腕や、割れた腹のほうが悠介の目には余程厭らしく映った。
その辺りからだろうか、うっすらとした違和感のようなものが、形を伴って見えてくるようになったのは。
それでも女を好きであるべきという当然の事のような倫理観というものは、当然自分の中にあって、何度も女相手に卑猥な妄想を繰り広げようと試みたが、それが固い筋肉で覆われた男の姿にすり替わり、次第に自覚せざるえなくなった。
自分は、女性に性的興奮を抱けないのだ──ということを。
そういった事を自覚したからと言って、世界がひっくり返るわけでもなく、これまでと何ら変わることなく日常は流れる。ごくごく当たり前の学校生活を続けていくうちにあっという間に月日は流れて行った。
そんな時、たまたま買った男性向けファッション誌のモデルの男の半裸で抜いてしまったときには、もの凄い罪悪感に見舞われたりしたが、それも時が経てば慣れて日常に埋もれていく。
──そんな日常に小さな亀裂を入れたのは、悪気のない無邪気かつ、無知な哲平の行動だった。
* * *
その日はちょうど試験前で、部活もなく学校から真っ直ぐ家へと向かっていた。
「悠介ー!」
後ろから大声で名前を呼ばれて振り向くと、哲平がこちらに向かって走って来るところだった。哲平は今の実家が当時まだ新興住宅地と呼ばれている頃、同時期に隣に越して来て共に育ったいわゆる幼馴染み。
出会った当時、悠介は小学二年。哲平は小学一年。悠介は小学校の学区内からの引っ越しだったたため、すでに近所に友達も多かった。
哲平は小さい頃から人懐っこい性格で誰からも可愛がられていたが、特に悠介にはよく懐いていた。
悠介自身もそんな哲平を可愛いと思い、まるで本当の弟のようにかわいがってきた。その関係は中学に上がってからも続いていた。
小学生の頃所属していたサッカー教室からの繋がりで哲平は悠介の後を追うようにサッカー部に入り、持ち前の運動神経と努力で、二年ですでにレギュラーを取っていた。
「哲平もいま帰り?」
「あ、けど。多田先輩に言われて、部室掃除だけしてきた」
「そうか」
息を弾ませ隣に並ぶ哲平も、昔に比べずいぶんと背が伸びた。そうは言っても哲平は小柄なほうで、悠介との身長差は頭一つ分。そのぶん足が速く、小回りも利き、体格の大きな対戦相手を翻弄できるのは哲平の武器であった。
「悠介、これから勉強すんの?」
「……ああ、少しはね」
自分でいうのもなんだが、勉強にはわりと自信があり、市内で学力水準の高いことで有名な進学校を目指している。
「いいなー、悠介は頭良くて。俺、数学マジやべぇ」
「ははっ、いまどこやってんの?」
「連立方程式とか。さっぱりわかんねーっうんだよ」
「哲平、算数も苦手だったもんなー」
「そーなんだよ。未知過ぎて泣く」
がっくりと項垂れた哲平の姿にあまりに哀愁が漂っているのを見て悠介は思わず吹き出した。
「俺、教えてやろうか? 少しくらいなら付き合ってやってもいいけど」
そう提案すると哲平の顔が急にパッと明るくなった。
「マジで⁉」
「マジマジ」
「やった!! 持つべきものは隣の悠介だな!!」
半ば飛びつくように悠介の肩に手を掛けた哲平が、まるで犬のように身体を摺り寄せてきたのを手で押し返す。
「うっわ! ウザい。哲平、距離近けぇ!」
「帰ったら、着替えてすぐ部屋行っていい!?」
「分かった分かった」
哲平が部屋に遊びに来ることは日常茶飯事だったし、勉強を教えてやるのも当時は珍しいことではなかった。
言葉通り、哲平は荷物を置いて着替えるとすぐに勉強道具を携えて悠介の部屋にやって来た。
「今日、おばさんはー?」
「まだ仕事」
父親はもちろん仕事だが、母親も当時はパートに出ていたし、姉も高校生で夕食時まで家には誰もいないのが常。
「哲平なんか飲む?」
「ああ。じゃあ、お茶」
「分かった。……ちょい、エアコンつけといて」
「うぃーす」
こんなやり取りも慣れたもの。小さい頃から行き来している家でお互い遠慮も何もないのが当たり前だった。
「うわー!! もう無理、頭ん中数字でグルグルしてるわ」
そう言った哲平が、両手を伸ばしドサッと床に仰向け寝転んだ。勉強を始めて一時間。哲平にしてはよく持ったほうだ。
「ははっ。早いな、根をあげんの」
「ちょい、休憩さして」
「いいけど。部活は絶対弱音吐かないのに、勉強は全然だな」
「……人には向き不向きってもんがあんの」
そう答えた哲平がゆっくりと起き上がって勉強用に出した小さなテーブルの上の麦茶を一気に飲み干してからこちらを見た。
「悠介、今年受験だろ? 志望校もう決めてんの?」
「ああ。だいたいは」
「やっぱ聖条?」
「んー。狙っては、いる」
「そっか。さすがに追っかけらんねぇなー、聖条じゃ」
哲平が天井を見上げながら呟いた。哲平は運動神経は抜群だが、勉強は平均並み。悠介が狙っている高校には運動部の推薦制度があるが、少し残酷な言い方になるが哲平がその枠に入れるとは限らない。
「まぁな。いくら仲いい幼馴染みっつっても、ずっと一緒にいれるわけじゃないしな」
どんなに仲がよかろうと、人にはそれぞれの道というものがある。哲平が将来何をしたいか、どんな勉強をしたいかによって選ぶ高校も変わってくる。
それを寂しいと感じないわけではないが、その先にも、またその先にも別の道が待ち受けているのは仕方ないこと。悠介自身も自分の進路を考えるにあたり、そういう現実を実感しつつある。
「なぁ! 休憩ついでにいいモン見ねぇ?」
そう言った哲平が、勉強道具を持ってきた小さなバッグの中から一枚のDVDを取り出した。
「……なんだよ、それ」
「久住先輩に借りた。ひとりで見るのもなんかアレだしさ、悠介もどうかと思って」
久住とは同じサッカー部の三年。少し嫌な予感がした。悠介はその久住達が仲間内で貸し借りをいるDVDがどの手のものか、知らないわけではなかったからだ。
哲平が勝手知ったる様子で悠介の部屋のポータブルプレイヤーを手に取ると、そこにDVDを入れ込んで再生ボタンを押す。
「悠介、こういうの観たことある? 俺、見たことないんだよなー」
哲平の口ぶりから、その中身の内容をある程度知っているのだと気づいた。
「おまえ、これ中身知ってんの?」
「あ。悠介、もう借りてた?」
「俺は借りてない。興味もないし」
そう答えると哲平が意外そうな顔をした。
「マジで? なんで⁉ 俺はあるよ。そーいう年頃だろ?」
そんなやり取りをしている間に、唐突に男と女が絡み合う映像が画面に映し出され、卑猥な声が大音量で部屋に流れ出したのに驚いた哲平が「うわぁ!!」と声を発して慌てて音量を下げる。
そのあたふたした行動に、少し笑いが込み上げたが、まだ幼さの残る哲平がそういった事に興味を持ち、まわりの友人たちと変わらない“雄”に目覚めつつあるという事に悠介はある種の衝撃を覚えた。
「……やめろって。そろそろ母さん帰ってくる」
「じゃあ、帰ってくるまで」
「おまえ、何しに来たんだよ。勉強しに来たんじゃないのかよ」
「そうだけど。いいじゃん、ちょっとくらい。息抜き大事だろ?」
そう言って画面に見入る哲平を見つめ、呆れたように息を吐いた。
確かに特別おかしなことではない。むしろこうしたことに興味が出てくるのは自分たちの年齢的ではごく自然な事だ。
「うっ……わ」
画面を食い入るように見つめる哲平の顔が次第に紅潮していく。
画面の中で甘い声を上げる女と、身体を広げた女に卑猥な言葉を浴びせる男。映像は主に女の裸体を映し出している。
「……おい。哲平マジやめろって」
「なんで? 悠介は本当に興味ねぇの?」
「ないよ」
その言葉に嘘はない。画面の中で悩ましげな声を上げて悦んでいる女になどこれっぽっちの興味もない。
ただ、その女を啼かせている男のごつごつした指、引き締まった身体には自然と目が行ってしまう。
興味がないといった言葉とは裏腹に、漏れ出る女の甘い声と、乱暴な男の声に少しずつ興奮を煽られていくのは事実で。画面から慌てて目を逸らし哲平に視線を移すと、哲平も明らかに興奮を煽られ、それを悟られないよう抑えているように見えた。
「哲……」
その映像によって性的興奮を煽られた哲平の表情に悠介は釘付けになった──。
少しずつ大人へと変化を遂げつつも、まだどこか幼さの残るその表情。部活の影響で真黒に日焼けした肌、それと対照的な口元から少しだけ覗く真っ白な歯。
体つきはまだ「男」というには幼くて、けれど少年というにはどこか大人びていて。まさに発展途上にある危うげな造形。
──触れてみたい。
思わず──半ば衝動的に哲平の首に伸ばしかけた腕を悠介は慌てて引っ込めた。
初めての衝動だった。実体を伴った誰かの──まして幼い頃から傍にいて弟のように思っていた哲平の身体に「触れてみたい」などという気持ちが沸き上がったのは。
ちょうどその時、玄関のドアが開く音と共に「ただいまー」と悠介の母親が仕事から帰宅した。悠介はその瞬間ハッと我に返り、哲平もさすがに慌てていかがわしい映像を再生していたポータブルプレイヤーを閉じた。
なんとなく気まずい空気の中、悠介はゆっくりと立ち上がり、哲平の手にしたポータブルプレイヤーをそのまま乱暴に哲平の胸に押し付けた。
「続き観んなら、そのままこれ持ってっていいから。今日はもう帰れ」
「え?」
「いいから。俺も自分の勉強したいし」
少し冷たい声で言い放つと、哲平がそれに気圧されたように小さく頷いた。
哲平はバタバタとテーブルの上に広がった勉強道具を片付けると、プレイヤーからDVDを取り出してそれをノートや教科書と一緒にバッグに詰めた。少し張り詰めたような空気の中、哲平がさすがにこんな空気を作った原因に気づいたのか身体を小さくする。
「──ごめん、そんな嫌がると思わなくて」
哲平にとっては悪気のない興味本位からの行動。頭では分かっているが、未だほんのりとした興奮を伴ったままの哲平の顔を見つめ返すことさえ、このときの悠介には苦痛以外の何物でもなかった。
「ごめん。たいして勉強教えてやれなかったな」
悠介は敢えて哲平を帰すことを決定づけるように言った。
このまま何事もなかったように勉強を教えてやれる気にはなれなかった。
「……いや、俺こそごめん。助かったよ」
哲平は小さな身体をさらに小さくさせてそのまま悠介の部屋を後にした。
哲平が部屋を出て行った後、階下から母親が哲平に「あら。テスト勉強? もう帰るのー?」と呑気に声を掛ける声が聞こえた。
哲平は悠介の母親に愛想よくそれらしい返事をして「お邪魔しやしたー!」といつも変わらない元気な声で挨拶をし、帰って行った。
「……」
悠介はテーブルの上のポータブルプレイヤーの電源を切り、息を吐いた。
「ありえないだろ、マジ」
哲平相手に、ほんの一瞬でも妙な気を起こしかけたこと。その罪悪感は、悠介にとって初めて雑誌のモデル相手に自己処理をしたあの時の比ではなかった。
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