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第2話 ③
少しばかり気まずい事があろうとも、翌日にはほぼ元通りというのが長年の付き合いである幼馴染みというものの特権で、翌朝顔を合わせた哲平に「うっす」と声を掛けると、哲平が少しはにかみながら隣に並んで歩き出した。
「悠介、昨日何時に寝た? 俺寝るときまだ電気点いてたけど」
「や。一時過ぎくらいだよ。哲平こそ、少しは何とかなったのかよ?」
「……とりあえず公式だけは頭に叩き込んだけど」
「それ出来てりゃなんとかなるよ」
「だといいけどなー」
昨日の事には触れない。それが『ほぼ元通りの鉄則』だって事くらい、お互いよく分かっている。
そうしてテスト期間も終わり、部活も再開され、また代り映えしない日常が戻ってくる。
そういう日常にまた埋もれていくのだと思っていた。何もかもこれまでと同じように。
* * *
いつの間にか季節は過ぎ、長かった梅雨が明け、夏休み前には日常の一部であった部活も引退し、いよいよ受験に向けてやること考えることが増えていく。
いままで部活三昧だった夏休みの予定は、通い始めた塾の夏期講習の予定で埋め尽くされて行く。塾帰りに自転車で学校の裏を通りかかると、グラウンドで夏休みの部活に勤しんでいる後輩たちの姿が見えた。悠介は自転車に跨ったまま、ペダルの動きを止めた。
グラウンドを走り回る大勢の後輩たちの中に、すぐさま哲平の姿を見つけることができるのは、哲平が一際目立っているからなのか、ただ単に悠介の目にだけ特別そう映って見えるからなのか──。
「頑張ってんだな……」
悠介たちの年代はさほど強くはなかったが、哲平たち今の二年には才能溢れる選手が揃っている。
「暑ちぃ。……帰ろ」
じりじりと照り付ける日差しを見上げ、額に滲んだ汗を拭うと、悠介は再び自転車のペダルを漕いだ。
部活を引退してしまえば、当然今までに比べれば哲平と顔を合わせる機会は減るが、そこは家が隣同士の幼馴染み。何かと理由をつけて哲平は悠介の元へやって来た。
「なぁ、これ買って来たけど、食う?」
哲平は近所のコンビニで買ってきたと思われるアイスを悠介に差し出した。
「……食うけど」
「レモンスカッシュ味と、クリームソーダ味、どっち? つか、俺クリームソーダがいいや」
「聞いた意味ねぇー」
こういうところは本当に自由で、悠介の都合などお構いなしに突然部屋に現れる。
「夏期講習って盆休みもあんの?」
「いや。さすがに休み。おまえも部活休みだろ?」
「うん」
「今年の二年強いから、秋の大会いい線いけるかもな」
「だと、いいけど」
アイスを口に食べた哲平が、眉間にしわを寄せ一瞬渋い顔をした。
「ははっ。頭キーンってなった?」
「ん。痛てぇー」
夏休み前に比べるとますます日焼けした肌。ますます笑った歯の白さが際立つ。
肌の色だけではない。背も少し伸びたのか、その表情も少しだけ大人びた気がする。
「哲平、身長、いくつんなった?」
「やっと一六〇。悠介は?」
「俺、一六九」
「マジか! あとちょっとで追いつけそうかと思ったのになぁー」
「ははっ。そう簡単に追い越されるかよ」
「ちょお! 立って比べてみようぜー」
「は? なんでだよ」
「測ったの六月だし。もうちょい伸びてるかも」
「いやいや。それ、俺も同じだかんな」
「悠介。早く!」
「……面倒くせ」
アイスを咥えたままの哲平に無理矢理腕を引かれ立ち上がると、哲平が悠介の目の前に立った。
思いのほかその距離が近くて後ろにのけ反ると、哲平が笑いながら悠介が倒れないように腕を引っ張った。
以前は頭一つ分くらいだった哲平との身長差は、いつの間にか少しだけ縮められていて。つむじを見下ろす以前の光景が、今ではその目線が少しズレる程度になっている。思わぬ至近距離に胸の奥の何かがザワザワと騒ぐのを誤魔化すように、悠介は敢えて意地悪に微笑んで言った。
「ちっさいなりに伸びてんのな」
「うっせ! 俺、平均並みだしな。悠介がデカイんだよ」
「ははっ」
「来年には追いつくかんな!」
「俺もそのぶん伸びるし」
「悠介は止まれ、その辺で」
「ヤだよ。せめて一七〇超えたいわ」
「もう超えてるようなもんじゃん」
そう言うと背比べに満足したのか、哲平が悠介から一歩離れた。アイスが垂れないように哲平が少し緑色に変色した舌を見せて溶けかけた部分を舐める。
──近い。
そんな些細な仕草から慌てて目を逸らした。そのくせ哲平のよく焼けた首元や、程よく形づいてきた腕や足の筋肉に瞬時に視線を走らせなんとも言えない気持ちを抱えたりもする。
これは同じ男に持ってはいけない感情。
まして、共に育った大事な幼馴染みである哲平などに。
気のせいなんかではなかった。
あの日から、哲平を見る目が以前とは違うことを自分で自覚している。
「食い終わったらゲームしねぇ?」
「……何でだよ」
「いいじゃん。勉強ばっかしてるとバカんなるぞ」
「しねぇとバカんなるの間違いだろ」
「息抜き、大事!」
「哲平は息抜きばっかしてんだろー?」
「違げぇよ! 悠介の息抜き」
このまま近くにいてはいけない。
邪気のない哲平の笑顔を見ていると自分がとんでもなく汚れているような気がしてくる。
哲平にだけは、自分の中にあるこんな感情を知られるわけにはいかない。
こんな自分を見せたくはない。嫌われたくない。
まだ大人とは言えなかった当時の悠介には、他にどうすることもできなかった──。
それからしばらくして、受験を理由に徐々に哲平から距離を置いた。
哲平自身も秋の大会が近づき忙しい時期に入り、その距離は自然と開いていった。
それでも、顔を合わせれば今まで通り当たり障りのない会話をし、表向きはうまくやれているつもりだった。
「なぁ。悠介最近なんか変じゃねぇ?」
「何が?」
「やたら忙しそうだし、俺と全然しゃべんねーし」
「実際忙しいんだよ、受験生だし。べつにしゃべってなくないだろ。現に今だってこうして話してんじゃん」
そう尤もらしい答えを返す悠介に、哲平は不服そうな顔をする。
そんな不満げな顔も可愛いな、などと思ってしまうあたり、誤魔化しのきかない哲平への気持ちを自覚してますます罪悪感に苛まれる。
「なんも、ないから。受験終わったらまた今までみたいに遊ぼうぜ」
何か言われるたび、不自然にならない言い訳を探して哲平をなだめるのもいつのまにか上手くなった。
高校に入学すると、それこそ哲平と顔を合わせる機会は激減した。
隣に住んでいるといえど、生活サイクルが少しズレるだけでその遭遇率は驚くほど低くなる。高校に入ってからもサッカーを続けていたが、一年目の冬に怪我で膝を壊しそのまま引退した。
サッカーは好きだったし、そこそこ上手いと言われていたが、プロになりたかったわけでもないし、辞めた事によって何か大きなものを失ったという気まではしなかった。
ただ、長年続けていたことが続けられなくなったという事に対する戸惑いのようなものだけが色濃く残った。それによって自棄になることはなかったし、何か新しいことを見つけたい、変化が欲しい──そんなふうに思っていた時に出会ったのが、現在の恋人、成島瑛士だった。
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