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のぞくひと

 隣の部屋の様子がおかしい、ということに気が付いたのは、春を少し過ぎた日の夕刻だった。  元々住んでいたアパートの取り壊しが決まり、立ち退きを迫られたのは二カ月程前だったと思う。新卒入社と同時に住み始めた部屋は、別段不便も無いため気に入ってはいたけれど、確かに老朽化が目立っていた。  大家の老夫婦に、マンスリータイプの契約アパートにするために建て替えようと思って、と、すまなそうに頭を下げられ、まあそういう時代だろうなと納得した。大家夫婦が優先的に近くの物件を紹介してくれるというので、それに甘えることにして、実際に引っ越したのが一か月前の事だ。  ワンルームタイプのよくあるアパートだった。三階建てで木造だ。  二階の角部屋だったが、隣近所への挨拶のタイミングを逃してしまった為、アパートの住人の顔も知らない。そのまま、時間だけが過ぎて一カ月だ。  住人の大半は学生のようで、女性の入居者も多いらしい。お隣さんもどうやら女性のようだ。  いまどきの女の子はセキュリティがどうとか面倒くさそうなのに、こんなボロアパートで暮らしている貧乏女学生も居るんだな、と、おっさんのような事を考えてしまった。  二十八にもなれば、世間的にはおっさんの仲間かもしれない。  会社ではまだまだ若造扱いされ深夜までこき使われる毎日だが、年下の新入社員には微妙な年齢の壁を感じる。友人もぽつぽつと結婚し始めた。嫁と子供ができれば、まあ、もうちょっと肝を据えてオッサンになれるのだろうけれど、今のところ恋人の影もないので、中途半端な独身人生を謳歌している。  プラグラムとかソフトのリリース系が主な仕事である俺は、普通の会社員よりは少し遅めに出社する。定時の十九時で帰れることはまず無い。なんだかんだ作業に追われて気が付けば終電の毎日で、帰ってきても風呂に入って寝るだけの生活だ。家でゆっくりぼんやりする暇なんてなかったわけだ。  その日は手掛けている案件のリリースが終わったばかりで、珍しく不具合も無く非常に晴々しい気分で半休となった。連日の残業の影響か皆疲れきっていて、打ち上げはまた日を改めてということになり、全員即効で帰路についた。  コンビニでちょっと高いビールとつまみを買って、最近は控えていた煙草も買った。まだ日が落ちないうちにメシが食える。飲める。風呂に入れる。休日でもないのにそんな贅沢ができる、と思ってしまうあたり、どうしようもない社畜だ。  さっぱりと風呂に入りビールの缶を開けたところで、俺は初めて、耳慣れない音の存在に気が付いた。  コツ、コツ、と。音がする。  うちのドアを叩く音か? と耳を澄ませたが、どうやら玄関先の音ではない。もっと、近いところから音は聞こえる。  なんとなくつけていたテレビを消して、缶ビールを持ったまま耳をすませた。  コツ、コツ。  コツ、コツ。  ……音がするのは、隣の壁からだ。  俺は経験ないけれど、友人や同僚の話を聞いていると、隣の部屋の住人から抗議まがいの壁叩きをうける、という事が時折あるらしい。  テレビの音がうるさかっただろうか。爆音だとは思わなかったが、もしかしたらこのぼろアパートは非常に壁が薄いのかもしれない。それか、隣人は非常に神経質な人なのか。  そういえば俺は深夜に帰ってきて寝て昼前に出社する生活だし、隣の住人は朝型なのか、俺が起きる頃には物音ひとつない。時折隣人らしき女性を見かけてはいたが、生活時間が被っている感じはしなかった。  いや、でも、ちょっとおかしくないだろうか。  抗議するならば、もう少し大きな音でないと意味が無いはずだ。壁を叩く音は非常に小さく、その上気味が悪くなる程一定の速度で聞こえている。  コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、……。  木魚叩いてるみたいだな、と笑えたのはたぶん疲れているからだった。  ちょっと頭のおかしい人なのかもしれない。まあ、トラブルになったところでこちらは成人男性だし、何かあっても逃げることくらいはできるだろう。  夜に隣の部屋の壁をコツコツ叩く女を想像して、若干笑えないかもしれないなとは思ったけれど。ささやかな音の被害以外には特に不快な事案は無かったので、実際気にしていなかった。  音の事は忘れることにして、久しぶりに風呂に湯を張り、ゆっくりと体を温めた。風呂場は隣室とは逆側にあったので、流石に音は聞こえなかった。  少しのぼせ気味になるまでぼんやりした。  今日給湯室で年下の女性社員にかけられた『桑名さんって奥さんいるもんだと思ってましたぁ。子煩悩パパって感じしますしー』という言葉が、地味に頭の中に引っかかっていて、そんな自分に苦笑する。  どういう意味だろう。そんなに老けて見えるということなのか、それとも良い人に見えるということなのか。女の子の言葉の裏は読みにくくて苦手で、つい曖昧に笑って流してしまったけれど。  微妙な気持ちを流すようにぬるいシャワーを浴びて、冷たいビールの前に煙草が吸いたくなった。  なんとなく、煙草は外で吸う癖が付いている。随分前に付き合っていた女性が煙草嫌いだったせいかもしれない。  あの子と結婚していたら、子煩悩パパになっていた歳かもしれないなぁなんて不毛な事を考えながら、ベランダに出て煙草に火をつけた。  そのとき。  ガラガラ、と、隣の部屋のベランダのガラス戸が開く音がした。  思わずびくっとして、そちらに視線を向けてしまう。なんだどうしたついに口頭で文句が来るのか、と身構えたが、そこから出てきたのは予想外な事に見慣れない背格好の、男だった。  道を歩けば女子が振り返りそうな、涼しげな顔のイケメンだ。さらりとした茶髪は少しだけ長めで、前髪が邪魔そうに見える。大学生くらいだろうか。テレビの向こうで活躍する若いアイドルとそう大差ないように思えた。  ……間男? 修羅場? くらいしか想像ができない。  なんだなんだと思っていると、隣のベランダから上半身を乗り出した男は切羽詰まった声で『タスケテクダサイ』と言った。 「……え。え?」  思わず変な声が出てしまった。  煙草の煙が肺に逆流して噎せそうになる。俺が次の言葉を探す前に、男――というか青年は、続け様に畳みかけるように口を開いた。 「あの、すいません超絶アヤシイなって自分でも思いますでもちょっとこれどうしようもないんです、玄関塞がれちゃってて、こっから飛び移るしかもう思いつかないんです、あの、部屋通過させてもらうだけでいいんで、ちょっと、すいませんとりあえずそっち行っていいですか……!」 「うん? ……ええと、まあ、どうぞ」  新手の強盗か詐欺か何かか、と一瞬考えはしたが、ベランダの彼は本当に必死そうだったし、特別凶器らしきものも持っていなかったので、俺は素直にどうぞと手を伸ばした。  ベランダの間には、一メートルくらいの隙間がある。  二階とはいえ夜だし、暗いし、中々スリリングだ。それを押してまで飛び移りたいほどの事情ってなんだという好奇心が、まあ、無かったとは言わない。  後々思い返せば、軽率な好奇心ってよろしくないなと思う。  思うが、やっぱりあの時全ての事情を把握していても、俺は彼を助けたような気がするし、隣のベランダに手を伸ばすことを躊躇しなかっただろう。  ベランダの青年は器用に俺の手を掴んで、こちらに飛び移ってきた。  驚くほど手が冷たいのは、俺が茹る程風呂に入っていた為か、それとも世にいう『血の気が引く』という状態になっている彼のせいか。  とにかく真っ青な顔をした青年は、今にも腰を抜かしそうな程ふらふらしていた。  部屋に入れた瞬間、本当に崩れ落ちるようにへたり込んでしまう。  がたがたと震えるその様子は尋常じゃない。警察沙汰とかに巻き込まれたらどうしようと不安になり始めたとき、また、あの音が鳴った。  コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。  一定の間隔で、静かに壁が叩かれる。  その音が合図だったように、青年が息を詰める。人間がリアルに「ヒッ」っと息を飲む瞬間を、初めて見たかもしれない。 「……あの、大丈夫……じゃないですね、えーと」  誰ですかって訊いてもいいものか。そう思ってとりあえず隣にしゃがみ込むと、隣室の壁に視線を馳せながら、震える声で彼は呟いた。 「……探してる……。なにこれ、なんなの。おれがなにしたっていうの、もう、ほんと、やだ……!」 「うん? うん、ええと、……とりあえず落ち着いて。ほら、ええと、ごめん、何さん?」 「木ノ下、です、すいません本当にごめんなさい、でもおれにも何がなんだかわからないです、久しぶりに帰ってきたら夜中にコツコツ床叩かれまくるし、玄関先に女は居るしなんなのこれ」 「え。キミ、お隣の住人さん? 彼女と同棲しているの?」 「……いえ、おれ、二〇二号室に一人暮らしですけれど」 「だって隣の部屋、ずっと女の子が居たじゃない」  そう告げると、青かった彼の顔がさらにざぁっと青ざめた。  コツ、コツ、と、例の音はまだ響いている。この時やっと俺は気が付いたが、どうやらコツコツという例の音は、少しずつ、ほんの少しずつ、横に移動しながら響いているように聞こえた。  ――探している。  そういった青年の言葉が、耳につく。  じわりと嫌な予感がしてきて、木ノくん、と声をかけて、隣室とは逆側の壁沿いのベッドに彼を移動させた。  たぶん年下だと思ったけれど、年齢を確認して自己紹介をするような状態ではないらしい、ということはわかる。流石に異常だと気が付いて、とりあえずテレビをつけた。  普段は見ないバラエティが映る。自虐ネタが得意な芸人が、敢えて馬鹿をして笑われている。そんな軽薄な笑い声に少し安心したのか、真っ青な顔をした青年もとい木ノ下くんは、長い指で自分の腕を抱きしめるように抱え、深呼吸をしたようだった。  すう、と吸って、はぁーっと長々と吐く。顔色はまだ、悪い。 「……すいません、本当に助かりました。おれ、木ノ下優世っていいます。ええと、大学に、普段は、泊り込んでいて。……一週間ぶりくらいに、さっき、やっと帰って来たんです。そしたら、部屋の隅から、コツコツ、音が……音が、聞こえるんですよね。なんか、床? 壁? 叩いてるみたいな。なんだよこれって思ってたんですけど、おれ、気が付いちゃって、その音、ちょっとずつ移動してるんです。……しらみつぶしに探すみたいに、コツコツ、何かを探してるんです」  ああ、まずい、この音は自分を探している。  そう思った木ノ下くんは、居ても立ってもいられず、とにかく部屋を出ようとした、らしい。  けれど玄関先は塞がれていた。玄関の向こうに誰かが居たのではない。  ――部屋の中に、髪の長い黒い女が背を向け、ゆらゆらと立っていた、とのことだった。 「……わぁ」  なんと答えていいかわからず、そんなおかしな返答をしてしまう。  今にも泣きそうな木ノ下くんの顔を見ていれば、それが口から出まかせの嘘ではないことだけはわかった。その女が俺たちの考える幽霊的なモノであったとしてもなかったとしても、事実としてコツコツという音は今も聞こえている。 「すいません、おれも自分で言ってて、まじあたまおかしいと思う……」 「いや、まあ、結構信じてるよ。ちょっと、流石にキミの動揺っぷりみてたら、嘘とか妄想とかじゃないんだろうなって思うし。あとこれ見間違いかなって思って、さっき自分の中で無かったことにしたんだけど、木ノ下くんが飛び移ってきたあと、部屋の中からこう……女の人が覗き込んできたんだけど」 「…………もうやだ」  あ、言わなきゃよかったかな、と思ったけれど実際自分も中々怖かったので申し訳ないけれど共有してしまった。  木ノ下くんの部屋のベランダの戸は閉まっていたと思う。開ける音もしなかった。けれど確かに、身を乗り出してこちらを覗き込むように、にゅるん、と。覗いた女が居た筈だった。  このまま此処に居て平気なのだろうか。  すっかりパニックになっている青年に、どう対処していいのかわからないし、先ほどの覗き込む女の異様に曲がった身体が記憶によみがえり、俺も変な動悸がしてきた。  どうしよう。霊媒師とかに伝手はないし、霊感がある信頼できる友人というのもいない。隣の席の同僚が寺の息子だった筈だが、寺と霊媒師って同じなのだろうか。電話越しにお祓いとかしてくれるもんだろうか。  ぐるぐる考えた結果、とりあえずファミレスとかそういう他人がいるところに行った方が落ち着くんじゃないかなと思い立ち、三角座りで震える木ノ下くんの横から離れようとしたら袖を掴まれた。  ……ちょっとびくっとしてしまった。俺も案外怖がりなのかもしれない。 「どこ、いくんですか」 「え。玄関見て来ようかなと思って。このままここに居るより一旦どこかしらに出て落ち着いて態勢を整えた方がいいかな、と。いや勿論ひとりで逃げたりしないから。木ノ下くんも一緒に連れてくから、落ち着いて」 「落ち着けないです本当に無理です隣に居てください無理、おにーさんがトイレに行くならおれも行くってくらい無理です」 「じゃあ一緒に玄関まで行こうか」  あまりにも木ノ下くんが必死なので、つい苦笑いしてしまった。  結構身長もあるイケメンなのに、泣きそうな顔で縋ってくるから、時と場合を忘れて微笑ましいような気分になってしまう。これが世にいうギャップ萌えというやつなのかもしれないけれど、心霊現象でギャップ萌えしたくない。  俺の手をしっかり握って寄り添う木ノ下くんを連れて、なんとなく音を立てないようにゆっくり歩いて玄関に行った。一応財布と携帯を持って鍵を手に取る。うちの玄関には後ろ姿の黒い女はいなくて、とりあえずは安心したのだけれど。  ドアのスコープを覗き込んで外を確認した俺は思わず、木ノ下くんの冷たい手をぎゅっと握ってしまった。 「今日会ったばっかりで、なんか、こういうのはどうかなって思うんだけど。……今日は、一緒に寝ようか」 「…………ぜひともよろしくおねがいします」  俺が何を見たのか訊かない木ノ下くんは頭が良いというか察しのいい子だなと思ったし、俺も彼に『玄関先で黒い服着た顔のない女がゆらゆらしながら立っていた』なんていう事実を説明したくなかったので、とりあえず手を握ったまま部屋に帰ってテレビの音量を上げた。  新しいアパートに越したら、隣の部屋のイケメンが心霊現象とともにベランダからやってきた。  ……冗談だと笑ってほしかったし、自分もそう思いたかった。

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