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たたくおと

 そういえば、ろくに部屋に帰っていない生活だった。  手をつけている実験がどうにも目を離せるものではなくて、その上人手もない。教授はフットワークが軽すぎてほいほいと講演を引き受け学会予定を詰め込み、日本中をふらふらとするような奔放な人だった。  それでもやりたいことができるから、実験や作業自体は苦にはならなかったけれど。  大学に通う手間を少しでも減らしたくて新居に移ったというのに、昼間に着替えを取りに帰るだけの生活だ。もしくは死んだように寝るとか、そのくらいだ。  今思えば確かに、家賃が驚くほど安かった。  部屋探しを手伝ってくれた先輩は、幽霊でも出るんじゃね? と笑っていたけれど、おれは霊感なんかこれっぽっちもなかったし、二十歳まで見なけりゃ幽霊は見ない、という噂を結構本気で信じていた。  実際に出たとしても、殺されるような事がなければスルーできるんじゃないかなーとか。  考えていたのは大間違いだと思い知らされたのは、久しぶりに教授が帰ってきて、いい加減木ノ下くんを帰らせないと他の先生に怒られるからしばらく休みなさいと、強制的に帰らせられた日のことだった。  夕方に帰宅したのはいつぶりだろう。  部屋の中は、自分の住まいだというのにどうにも他人行儀な気配がする。まあ、そりゃあんまり生活してないしそうなるか、と思いつつも、逢魔ヶ時なんていう単語が頭の中でちらちらした。  おれはホラー系に詳しくないけれど、いつも研究室に顔を出す女子たちがよくオカルト系の話をしている。女の子ってなんでそういう話好きなのかな、と、思いながらも耳に入るものは中々シャットダウンできず、仕方なくいらない情報を知ることになった。  真っ暗な深夜に比べたら、夕方なんてさして怖くも無いはずなのに。仄暗い色に落ち込んだ部屋の空気は異質で、そんな風に感じてしまうことすら気持ちが悪いような気がして、さっさとカーテンを引いて照明をつけた。  蛍光灯の明りというものは素晴らしい。部屋の中央に据えられた明りは、隅までしっかりと照らしてくれる。  多少安心してほっと息をついて、パイプベッドの上に腰をおろすと、急に疲れが襲ってきた。  昨日も一昨日もたいして寝てない事を思い出し、さらに瞼が重くなる。明日は休みだし。ひとり暮らしなのだから風呂に入らなくてもメシを食わずとも、誰に怒られるわけでもない。帰りがけに研究室に置いてあったマドレーヌを一つ齧っただけで、腹は空いていた筈だけど、まあ起きてから何か食えばいい話だ。  そう思って、横になってしまうともう駄目で、電気をつけたままとろとろと目を閉じた。  どのくらい寝ていたのだろう。  仮眠には慣れているけれど、慣れすぎていて熟睡ができない身体になっていた。  たぶん、一時間か二時間くらいかな、と思う。心地よいまどろみの中で、不思議な音を聞いていた。  コツ…、コツ…、コツ…、コツ…、と。  軽く、何かを叩くような音がする。  最初は夢の延長線上のような気持ちでいた。ぼんやりとした頭はまだ目覚める前で、その音に不信感も抱かなかった。  なんだろう。お隣さんがなんかしてるんだろうか。そういえば、入居した時は空き部屋だった二〇一号室に新しい住人が入ったらしい、ということに先週やっと気が付いた。  日曜大工が趣味なのかな。まだ木曜だけど。などとぼんやり考えながらうっすらと目を開けて、おれは違和感に気が付く。  それは音に対してのものではない。  部屋は真っ暗だった。うっすらと開いた視界には、白い天井がぎりぎり見える。  あれ。おれ、電気消したっけ。  そう思って実家に居た時の癖で、電気のリモコンを探してから、おかしなことに気が付いた。この部屋には電気のリモコンなんてない。旧式のおんぼろアパートは壁付けの電気スイッチすら無く、蛍光灯から直接紐が垂れ下がっていてそれを引っ張るシステムだった。  寝ぼけて消したとは、思えない。  確かにおれはカーテンを引いて電気をつけたし、そしてそのまま横になったはずだ。電気代もったいないな、まあ、あんまり帰ってきてないしいいか、と。思った、記憶がある。  それをはっきりと思いだすと急に動悸がし始めた。そしてコツコツという音も、止むことなく響いている。コツコツコツコツ。気持ち悪いくらい一定の速度と音量で聞こえる。なにこれ、なんの音だ、本当に。玄関のノック音じゃない。というか、すごく嫌な事に気が付いたんだけど……たぶん、この部屋の中から聞こえている。  暗闇の中で一歩も動けずに耳をすませた。  コツ…、コツ…、コツ…、コツ…。  ベッドとは反対の方の壁際から聞こえてくるような気がする。  コツ…、コツ…、コツ…、コツ…。  ああ、嫌だ、どうしよう、これ、まずい、やばい。 (――…移動、してる)  この時初めて心臓が止まるような恐怖を味わった。  コツコツと叩く音は、何かを探している。壁を、床を叩いて、そこに居るか居ないかを探しているんだと思った。被害妄想かもしれない。でも、何故かそう確信した。  壁近くを叩いていた音は、気が付けば部屋の真ん中程から聞こえる。  コツ…、コツ…、コツ…、コツ…。  相変わらず、一定の音で。 (とりあえず、電気、……)  そうだ明かりをつけよう。明るさは偉大だ。でも音がしている部屋の中央には行きたくない、と思ってベッドの上に立って手を伸ばして電灯の紐を引っ張った。  何度か小さく点滅して、明るい蛍光灯が部屋の中を照らす。その瞬間に何か見えたらどうしよう、と思ったがそんなものは杞憂だった。部屋の中には何もない。誰も居ない。音の原因も分からないが、とりあえず明るいと人間は安心できる――……筈、だったんだけど。  一通り部屋を眺めて安心したおれは、開けっ放しの部屋の扉から玄関方面に視線を巡らせ、そのまま見事に固まってしまった。  玄関前にはこちらに背を向ける格好で、黒い服の黒髪の女が、ゆらゆら揺れながら立っていた。  見なけりゃよかった。  電気なんかつけなきゃよかった。  ていうかこういうのって、ほら、明るいところが苦手っていう、そういうアレじゃないんですか、ねえ、ちょっと。 「………………ぅ、…………」  人間は本当にビビると声も出ない、ということを知った。  ついでに視線も外せない。怖い。だっておれが視線を外した瞬間に、すぐ目の前に来たら、どうするの。そう思いながら、玄関方面を見つめたまま、ベッドの上で後退る。  コツ…、コツ…、コツ…、コツ…。  あの音はまだ、おれを探している。音はもう、目の前まで迫っている。逃げなきゃと思う。逃げたい。たとえこの音が実害のないおれの妄想だったとしても、とりあえず精神安定のためにこの部屋を出たい、のに。  あの女の横をすり抜けていく勇気なんかない。絶対に嫌だ。無理だ。  普通に考えたら不法侵入だと思う。でも、本能が全力であいつはやばいと警告してくる。  普通じゃない。揺れ方もおかしい。  なんかこう、足が軸になっていない。もっと上から……ああ、そう、ほら、上から吊られてる、みたいな。  それに気が付くと意識が遠のきそうになった。歯がガチガチ震える。幽霊なんてスルーしたらいいじゃないなんて、どこの誰が言ったのって、笑う余裕すら無かった。  こわい。なにあれ、こわい。無理。どうしたらいいの、これ。  もう一回電気消したら消えるかな。でも暗闇になった瞬間の事を考えると、とてもそんな博打は打てない。  コツコツと音は近付く。女はゆらゆらと揺れる。その上耳鳴りもしてきて、なんだか焦げ臭いような、変な匂いもしてきた。吐きそう、やばい。早くここからでないと、ちょっと本当に倒れるかもしれない。  音に追い立てられるように後ずさりして、ベランダに続くガラス戸付近に来た時に、隣のベランダの戸が開く音がした。  その時初めて、そうだベランダから外に出られる、ということに気が付いた。  飛び降りる勇気は無いが、隣に飛び移ることくらいはできるかもしれない。どう考えても不審だけど、もうおれは恐怖で頭がおかしくなりそうで、とにかくこの部屋から逃れることしか考えてなかった。  思いきって玄関に背を向け、ガタガタ震える手でどうにか鍵を開けてベランダに出た。  お隣の二〇一号室の住人はありがたいことに男性だった。煙草をくわえたまま目を丸くする隣人に、縋る思いでタスケテクダサイと叫んだ。  ……というのが、この二〇一号室の桑名さんに保護されるまでのおれの、情けない上に客観的に見ても頭がおかしくなったんじゃないかと思われても仕方がない経緯だった。 「……鳥肌立った」  一連の流れをビール片手に、それでも真剣に聞いてくれた桑名さんは、とんでもなく良い人だ。  隣人が桑名さんで良かった。わりと本気で涙が出る程感謝した。というか、していた。現在進行形だ。  おれがこちらのベランダに飛び移り、その上で事情を説明して部屋から逃げようとしたら、玄関のスコープを覗いた桑名さんがやんわりと止めてきた。  もう、それだけで恐怖は最高潮で、情けなくも知らない年上男性の手を思いっきり握るというとんでもない行為に及んでいた。これも、ぶっちゃけ現在進行形だ。  左手でおれの手を握って、右手でビールを飲みながら、桑名さんはまあ落ち着きなよと声をかけてくれた。  正直落ち着いてなどいられない。  コツコツというあの音はまだ、おれの部屋の方から響いてくる。テレビの音量でどうにか誤魔化しているけれど、さっきから微妙におれの位置を特定したように同じところから音が響く、気がする。こわい。  おれがなにしたって言うの。  別に、呪われるようなことはしていない筈だ。普通に大学行って、そのまま院に進んで、普通に研究に明け暮れていた。無駄な殺生をした記憶もないし、恨みをかったような心当たりもないし、家系がどうこうって話もきいたことはない。  という話をしどろもどろに桑名さんに訴えると、まったりとした声で苦笑された。 「あー……まあ、家賃、安かったしね、このアパート」 「……元々居た、みたいな、事ですか? おれ、たまたまその部屋に当たっちゃったみたいなこと? いままで霊感なんか一切無かったのに?」 「まあ、そういうこともあるんじゃないかなって思うけど、俺も大してオカルト詳しくないからわっかんないんだよなぁ。自称『見えます』みたいなオンナノコはたまにいるけど、ああいうの本当に信憑性ないじゃない。本当に見えてて頼りになってやばそうなら自己防衛してくれるなら相談できるけど、下手に巻き込んでもかわいそうだし……男ならまだしも。あ、隣の席の同僚が寺の息子なんだけど。ちょっと訊いてみようか?」 「……こんなことお願いするの本当にお門違いだってわかってるし、おれの存在がもう迷惑なの知ってるんですけど、お願いしますもう縋れるものがないです……携帯おいてきたし……家の鍵もない……ていうか戻りたくない無理」 「うん、まあ、そもそもこっから出れないしなー。俺も明日仕事行けないと困るんで、あんまり木ノ下くんも気に病まずにどうにか脱出する方法か、むしろ気にしない方法を考えようか」  良い人すぎて涙出そうになった。  どう考えたって霊現象的なものはおれの部屋が根源なのに、桑名さんは一切責め立てない。元々そうなのか、ちょっとおっとりした感じの人らしく、桑名さんが声をかけてくれると不思議と少し落ち着いた。まあ、微々たるものだけど。 「…………手、離した方がいいですか」  ぎゅっと握ったままだった手を離すのがどうにも嫌で、小さな声で訊いたら苦笑いで『電話は片手でも出来るから』と言われた。恥ずかしいけれども、そんなことより恐怖が勝っていたので正直安心した。 「木ノ下くんって、見た目とのギャップがとんでもないね。モテるんじゃないの」 「え。いや、そんなことは……大概遠巻きにされますけど。怖いとか言われるし」 「あーそうか、年下から見たらそうなのかな。そんな感じもするな」  世間話みたいに話題を振ってくれるのも、たぶん桑名さんの優しさなんだと思う。  おれなんかより数倍モテるだろこのお兄さん。でも桑名さんが結婚とかしてて一軒家に住んでたりしたら、今こうやっておれと手を繋いでおれの精神状態を保ってくれる人もいなかったわけで、本当に世の女性がこの人と結婚してなくてよかったと思った。  器用にスマフォを操作して、桑名さんは電話をかけてくれた。  数コールで同僚さんとやらは出てくれた。おれたちの絶望的な状態とは真逆の、比較的軽い陽気な声が漏れ聞こえてくる。 「もしもし巻、いや待てよちょっと、うるっさいよ……うん、そう。そう。巻さんに折り入って訊きたいことがありまして。あのさ、おまえアレ、寺住まいだったよな。あのー……、除霊とかそういうのとか、まあそこまで行かなくてもいいんだけど、例えばこれは何の祟りですーとかそういうの教えてくれたりする人って誰か周りに居たりとか、うん。うん? え、そうなの?」 「……桑名さん、どうしたんですか」 「巻、ちょっと待て。――…なんか、仏教ではっていうかこいつの実家の宗派では幽霊は存在しないっていう概念だから、除霊とかできないんだって」 「え。え! そうなの!?」 「ね、初耳だしマジかよって感じだね。……ああ、うん、ちょっと今来客があって、うん、うん。え、でも霊感あるの? じゃあお前呼んだらなんかこう、あれは若くして亡くなった女性の怨念が、とかわかったり、……しねーのか。まあそうだよな」  どうやら聞いていると、桑名さんの隣の席の巻さんとやらは、寺の息子で除霊はできないけれど若干幽霊とかは見えちゃうだけという、普通にかわいそうな境遇の人らしい。  なんだそれ、人生しんどいだけじゃないか。と憐れみそうになったけれど、よく考えなくても今のおれの状況と変わらないかもしれない。深く考えると本当に人生しんどくなって涙が出そうだったので、あえて頭を動かさない事にした。 「うん。ちょっと厄介な感じになってて。まあ、今お前来ても巻き込むだけっぽいし、明日話すわ。夜中にいきなり電話して悪かっ……え?」 「…………」 「……いや、うん。悪い、気にすんな。じゃあまた明日。遅刻すんなよ」  社会人というよりも学生っぽい一言を残して、桑名さんは片手で器用に通話を切った。  なんか、微妙な顔でスマホを眺めてて、その無言が怖くて『どうかしましたか』と訊いてしまった。  訊かなきゃいいのに。……でも、ほら、知らないっていうのは、それはそれで怖い。 「……ききたい?」 「え、こわい?」 「うん、たぶん」 「……でも一応、聞いておいた方が、いいかなって、思うんですけど」 「俺もできれば共有したいです」  情けない顔で『ごめんねへたれで』と笑われて、おれがオンナノコだったらもう勢いで惚れてたかもと思った。桑名さんがかわいくて、ちょっとだけ恐怖が薄らぐ。  相変わらず、すんごい、こわい。気を抜くと耳が壁の音を拾っちゃうし、手はぎゅっと握ったままだけど、覚悟を決めて話の先を促した。 「なんか最後、もだもだしてましたけど。同僚さんに、何言われたんですか」  そしてやっぱり、訊かなきゃよかった、と思った。 「『コツコツ携帯叩くのうるせーからやめろよ』って言われました」 「…………涙出そう」 「うん。結構俺も泣きそう。とりあえず、霊障とかそういう話なら塩とか盛っとけばって言われたんだけどさ、あれ食塩で効くと思う?」  思いません、とも言えず、とりあえず二人で台所まで行って皿に塩盛って玄関先に置いて、テレビも電気もけせずに、やっぱり手だけはしっかり繋いでいた。

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