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みずにしずむ
「……学会…………」
そう呟くおれは、あまりにも絶望的な顔だったのだろう。帰り支度をしていた高瀬女史が一瞬動きを止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「うん、そう。そういう季節でしょ。ていうか、そういうものにお付き合いするのが私達のお仕事なわけだしね。何、木ノ下、嫌なの? 職務放棄なの?」
「いや……嫌というわけでは、ないですけど……」
「顔に『絶対行きたくないです』って書いてあるけどね。そんなに教授のこと嫌いだった? 木ノ下わりと気に入られてるじゃん。私と出掛けると不倫だなんだって騒ぎになるからいい加減嫌なんだって言われちゃってんだよ、代わりによろしく頼んだよ木ノ下青年。だいじょうぶ、たったの三日間教授の隣で眠気覚ましのお相手してたらいいから」
「みっか……」
オウム返しにその言葉を呟き、事実を確認して絶望する。
三日。
つまりは二泊三日ということだろう。二晩、おれはあの心霊アパートを離れ、教授と共に大阪に行かなければならない、という事実がしみわたるまで五分程、茫然と突っ立ってしまった。
人間はどうしようもない危機に晒されるとどうも、固まってしまうらしい。その事はここのところの心霊現象の嵐で体感してはいたけれど。
おれがやっと事態を飲みこみ、ぎこちない笑顔をつくりだした頃には、高瀬さんは白衣を脱ぎバッグを担ぎ颯爽と片手をあげていた。
「じゃあ日程とかは明日、教授の方から話があると思うから。まあ、学会自体はいい経験になると思うよ。顔を覚えてもらわないとなにも出来ない世界だしね。コネって最高。私大好き。ってくらい堂々と言えるように開き直ってがんばってきな」
「あの、高瀬さんは、その間研究室に……?」
「残念、実家の法事があんの。こんないい歳してもふらっふらしてる親不孝娘でも顔くらい出せって煩いようなわりとガチな奴。うちの実家長崎でさ。流石に学会ついでにってわけにいかないからねぇ」
「それは、大変……ですね……」
「そう、大変なのよ。もうほんと今から何着てったら親族一同の冷たい目線を避けられるか、クローゼットの中身と相談――……木ノ下、貧血か? 顔やばいけど。え、何、そんなに嫌?」
嫌と言えば絶対嫌だ。けれど、勿論おれにそんな事を言う権利はない。
高瀬さんが暇だというのならば、どうにかお願いして今回は学会の助手を代わってもらう事もできたけれど、予定があるのならば仕方が無い……なんて、納得して諦めて気持ちを颯爽と切り換えられる程、おれは大人ではなかった。
心配してくれる高瀬さんには『ちょっと昼抜いたんで栄養不足です』と答え、ふらりと椅子に座り直して一人で暫く呆然とした。
夏前に始まった怪異は、今も絶賛続行中だ。
なんとなくおれの部屋の物音は少なくなってきている様な気がする。定期的に桑名さんはおれの部屋に入り、霊能者的な方に言われたとおりの処置をしているみたいだ。おれは、一度も部屋に戻っていないのでよくわからない。
大家にも不動産屋にも話を聞いてみたが、のらりくらりと躱されるばかりで、結局何の話し合いにもならなかった。ただ、おれの口座から家賃は引かれなくなった。出ていけとも言われないしガス水道も契約したままなので、たぶん、契約破棄されたわけではないようだけれど。
おれ自身に降りかかる心霊というか、なにが要因かもわからない良く分からない気味悪い現象は、結局治まってはいない。
お守りのピアスも指輪も肌身離さず付けている。お守りが効いていて今の状態をなんとか保っているのか、それとも効力なんてあんまりないのか、それすらもわからない。おれも桑名さんも霊感なんてものはやっぱりないままだし、たまに見るだけという巻さんも、見えても別にそれが何かなんてわからないらしい。
見る事ができても、対処できないなら結局意味は無い。時折巻さんは霊能者的な人の候補を見つけてきてくれるし、桑名さんも調べてくれているみたいだ。けれど、結局現状維持以外のことはできていなかった。
部屋から離れる実験も実は何度かしてみた。
怪異の元凶は部屋だと思われるし、おれがターゲットになっているというのも霊能者的な人の話が根拠っていうだけで、それを丸々信じることもないんじゃないか。そんな風に疑ってかかった事を、三度程の実験で心の底から後悔した。
ビジネスホテルでも、友人の家でも、二十四時間営業のファミレスでも、もれなく怪異はおれに纏わり付いてきた。まあ、なんとなくもう諦めていたので、仕方が無い。最近は諦めて納得してどうにか改善しようと前向きになる、ということを心がけている。
悩んだ所でどうにもならない。へこんだところでしんどくなるだけだ。桑名さんにも、できれば暗い顔を見せたくはない。
いつも一緒に居てくれて相変わらず部屋を間借りさせてもらっていて、その上泣く程怖い時はぎゅっとして頭を撫でてくれるでろでろに甘い桑名さんに出会えた事は、不幸中の幸いだと言ってもいい。
本当にあの人は相変わらずで、ずっとおれに甘くて、なんだかもうそれが日常になってきていて良くないと思う。心霊現象とは別の意味で良くない。甘やかされるのが当たり前になってきていて、そう言えば彼は日々多忙なサラリーマンで、おれは院生という別の生活をしている他人だという事を忘れていた。
彼には彼の生活と仕事がある。
勿論、おれにもある。それは基本的には別のもので、お互いの生活は優先させるべきだ。と、思うから。
「…………みっか…………」
絶望的な気分で頭を抱え、何度か考えようとしてみたけれどどうがんばってシュミレーションしてもホラーな展開しかならない。
三日間、あの気持ち悪い自室の隣から解放されるのは嬉しい。けれど、三日間、桑名さんと離れ離れになる。
この夏はべったりと一緒に居た。
ここのところは休日も一緒に出掛ける有様で、巻さんはついに冷やかすこともしなくなった。でもだって桑名さんと一緒に居るとものすごく安心するし、あとおれはもうなんかいい加減認めた方がいいと思うくらい彼の事が、その、あれだ。うん。だって隣に居ると気分が上がるから。やっぱりほら、そういうのは大切だと思うし。
その彼と三日離れる。
たかが三日だ。されど、おれ的にはやっぱり『三日も生きていけるの?』という感じだった。
ふらりふらりと帰り支度を整え、ぼんやりと帰路を辿り、いつ見ても禍々しい我がアパートに帰って来たのは夕刻の事だった。
桑名さんは今日残業かも、なんて言って出て行ったから、おれは真っ暗なアパートの鍵を開けるのって嫌なんだよなーなんて思っていたんだけど、何故か桑名さんの部屋は明かりが付いていた。
予期せぬ事があると身構える癖がついている。
もしかして、これも何かの怪異かと一瞬引いたけれど、恐る恐る明けたドアの向こうから桑名さんの声が聞こえたので、ホッと肩の力を抜いた。
どうやら、電話をしていたらしい。おれの帰宅に気がついた桑名さんは、菜箸を置いて電話も切っておかえりと笑った。
……何度見ても笑顔が爽やかで柔らかくてかっこよくてもうやだなんだこのいけめん。しかも料理もできるイケメンは、おれのために飯まで作ってくれる。こんなの惚れない方ががおかしい。
おれのげっそりした顔を見た桑名さんは、へにゃりと笑って頭を撫でてくれる。
あまりにも衝撃的すぎて、三日間関西に行かなきゃいけない旨はすでにラインで報告してあった。
「桑名さん今日遅くなるって言ってませんでしたっけ……?」
「うん、朝はその予定だったんだけど。あー……切り上げて来れそうだったからちょっと裏技使って帰ってきちゃったんだよね」
「裏技……」
「秘儀、巻買収。いや大丈夫大丈夫、正直あいつの仕事を手伝ってた部分でかかったから、巻に無理させてるわけじゃないよ。明日は早めに出社するし。なんかこう、木ノ下くんがものすごく落ち込んで帰ってくる気がしたから」
「…………おれのため……」
「うーん、ていうか自分の為かな。そわそわしながら仕事してるより、さっさと帰って抱きしめたらいいんじゃないかって、さっさと決断しただけ」
ふんわり抱きしめられながらお腹すいてる? と声をかけられ、思わずぎゅっと抱きしめ返しそうになる。
巻さんにホモだとからかわれるのも仕方が無い。おれだってこんなんホモじゃんって思う。言い訳できない。でも桑名さんが今日も優しくておれに甘くてもうだめだ。
甘えるように首筋に頬を擦りつけると、桑名さんの手に力がこもる。照れているのがわかって、おれもなんだか熱くなる。
頬を頬にくっつけるようにすると、桑名さんは流れるように自然にキスをしてくれた。本当におれはこの人に甘えてばかりだし、桑名さんは甘すぎる。
「ご飯にする? 風呂入る? って訊こうと思ったんだけど、『それとも俺?』っていう選択肢を先に施行されちゃった、感じだなー……木ノ下くん、相当今参ってるね?」
「だって……みっか……まじで、むり……正直、桑名さんに甘えっぱなしだし、桑名さんはおれのお世話しても全然得する事なんかないし、そういうの全部わかってるから自分でなんとかしようと思うんですけどでも無理です桑名さんと離れて三日とか正気保てる気がしない……こんな、自分がしんどいときだけ甘さに頼るっていうか利用するみたいなの、ほんと嫌なんですけど……」
「いや俺は役得だから気にしないで沢山甘えてほしいよ。俺はね、木ノ下くんは全然好きでもない男にキスをねだったりする子じゃないって知ってるから、っていうかそういう風に勝手に思い込んで勝手に調子に乗ってるからね。好きに振りまわしていいんだよ。頼ってくれて甘えてくれて俺は最高に嬉しい。キスもできて更に嬉しい」
「耳が痒い……なんでそんなにいつも激甘なんですか……」
「勝手に口説くようになっちゃってるんだよね、なんかこう、木ノ下くんってずっと口説いててもずっとかわいいからなー。あ、お風呂入る? お湯ためたからゆっくり入ってきていいよ。俺は暫く料理してるからここにいるし」
アパートの間取りはまあ、一般的な1Kという感じで、風呂のドアの前にキッチンスペースがある。
寝る時と風呂の時が一番怖い。だから、桑名さんがキッチンに居てくれるのは大変助かる。
離れる前にもう一度キスをねだってしまい、そんな自分にほとほと呆れ、そんなおれの事がかわいいなんて言う桑名さんが次の口説き文句を繰り出す前にさっさと風呂の中に入った。
熱いのはきっと湯気のせいじゃない。
もういっそ一緒に入っちゃえばきっと怖さなんて感じないのだろうことはわかるけど。風呂に一緒に入ると、どうも桑名さんのえっちな部分がむらむらしてしまうらしく、相当な確率で怖いとかそんなのどうでもいいようなとんでもないえろいことをされてしまうので、それはそれで躊躇していた。
別に、いいんだけど。おれも嫌いじゃないし。でもやっぱり、どきどきするし恥ずかしいしえっちな顔してる桑名さん見てるとほんともうぎゅって抱きついてあらぬ告白とかしそうで怖いし、そういうのは心霊あれこれ落ちついてからの方が絶対良い、ってお互いわかってるから答えの見えている問題を無理矢理隠してできるだけ冷静な距離感保とうって思う。
依存したくはない。
好きって言ってもらえてうれしい。うれしいけど、やっぱり、今の全てを頼っている状況で流されるように言葉を返すのは嫌だ。
……せめてちょっと落ちついたら、きちんと言いたいんだけど。
いやでも最近はそういえば目立った怪現象は減って来た……ような、気がする。慣れただけという可能性もなくはない。
火照る身体にシャワーを当て、せめて冷静になろうと努める。
桑名さんに甘やかされている状況はもうどうしようもない。本人がそれで良いって言ってくれていることを真に受けようと思う。本当に甘えてばかりだけど。
ざぶん、とお湯に身体を沈めて目を閉じる。
問題は学会の三日間だ。
詳しい日程は明日教授から説明があるから、と高瀬さんは言っていた。多分来月の頭くらいだという話だ。二泊くらいなら、どうにか一人でも持ちこたえられるだろうか。いっそ教授にお願いして同じ部屋を取ってもらえば少しはマシかもしれない、けれど、なんて説明したら不自然じゃないだろうか。いや、どこに泊まるかもまだわからないんだけど。
一日三回くらい桑名さんの声を聴かないと生きていけないかもしれない……なんて本気で考えている自分に割合引いてしまい、あーもうこの依存感よくないぜったいよくないと思った所で、急に浴室が真っ暗になった。
電気が消えた。
そのことに気が付くと、暖かい湯の中で心臓がひゅっと縮まり全身に鳥肌が立った。
それでも真っ暗ではない。桑名さんがいるキッチンの明かりが見える。だからこそ、おれは、おれの隣に何かがいることがわかった。
うっすらとした明かりの中に、何かがいる。
浴槽の中に座りこんだおれの真横に、なにかがいる。輪郭しかわからない。その上おれの身体は金縛りで、全く動けない。
声が出ない。
身体はじわりと冷えて、指先が恐怖で震える。
怖い。『なにか』が、こちらを見ている気がする。痛いほどの視線を、隣から感じる。もしかしたら気のせいかもしれない。でも、怖い。そこに何かがいることが、まず、異常だ。
暫く荒い呼吸を繰り返していると、急に明かりが付き、身体が楽になった。眩しさに目を細め、つめていた息を吐く。
なんだったんだ、と、首を巡らし。
――五センチ前にいるのっぺりとした無表情な女の顔を見て心臓が止まりそうになった。
嫌に長い顔の女だった。
それが、顔面すぐそばにあった。
「…………ひっ、――……っ!?」
叫びそうになった時、急に足を引きずられ、ごぼりとおれは水の中に沈んだ。
かなり派手な音を立てたらしい。恐怖からか、パニックからか気を失ったおれはその後の事はおぼろげにしか覚えてないが、桑名さんが慌ててバスルームにかけ込んできた時にはすでに何もいなかったという話だ。
気が付いた時にはベッドの上に寝かされていた。
ものすごく心配そうな桑名さんと目が合うと、心底安心したみたいな顔をされて抱きしめられて正直なところおれの方こそほっとした。
「……びっくりした。ていうか、ちょっと……最近、慣れてたっていうか、気をつけるってことを忘れてたかもしれない。怖くても、別に命に関わることなんてそんなにないんじゃないか、とか思ってた節がある」
おれもだ、と思った。
怖くても、結局怖いだけだ。まさか死ぬような事なんてないだろう、なんてどこかでたかを括っていた。
視界が水で埋め尽くされた時の恐怖感は、たぶん、一生忘れない。怖い、なんて感じる暇はなくて、ただわけがわからなかった。
言葉に出すのも怖くて、おれは暫く桑名さんに抱きついていた。
脳裏に、あの長い顔の女が張りついて離れない。今も、隣にふといそうな気がする。最悪だ。今日は厄日かもしれない。このところ、毎日厄日みたいなもんだけど。
そして更に最悪な事に気が付いたのは桑名さんだった。
「…………木ノ下くん、ピアスは?」
おれの、魔除けというかお守りのピアスは、いつのまにか外れて無くなっていた。
今日の昼までは絶対にあった。夕方、帰って来たときもしていた筈だ。さっき鏡に映った自分もピアスをしていたと思う。
浴槽の中に落としたのかと思った。
うっかり、外れる事もあるだろう。そう思いつつ恐る恐る確認した右手には、いつも肌身離さず付けているお守りのリングが嵌っていなかった。
最悪だ。
その事に気が付いた時のおれたちは結構なパニックと絶望感で、お互い声も無く暫く沈黙してしまった程だった。
慣れていたし、舐めていた。
その事を痛感したし、より一層来月の三日間が悪夢のように思えた。
「……とりあえず、ごはん、食べよう。そしたら巻に電話して、ちょっと対策考えよう。最悪俺の有給を全力で使うから」
そんなの申し訳ない、なんて言える気力はなくて、おれはただ桑名さんに抱きつきつつ頷くことしかできなかった。
結局、ピアスと指輪は、浴室のどこからも見つからなかった。
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