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べったりとはりつく 01

「いやぁ、ごめんね本当に」  何度目かわからない謝罪にいいえと首を振りながら、実際にこの人は何度も同じ言葉を繰り返している自覚なんてないのかもしれない、なんて考えた。 「僕はさ、高瀬君でもよかったというか、もうね、今さら不倫だなんだと言われてもどうでもよくなってきたんだけど、いや勿論不倫じゃないけど。だから今回も高瀬君が一緒に来るものだと思っていたしそのつもりだったのに、なんだか急に『私ばっかり教授を独り占めして申し訳ない今回は木ノ下を行かせよう』とか言い出してさぁ。要するに彼女、たまには僕が居ない研究室でのびのびしたかったみたいなんだよ。法事だとか言っても、どうせ一泊もせずに飛行機で帰ってきちゃうんだから、高瀬君」  ごめんね、という言葉にどれだけの感情が込められているのか、正直さっぱりわからない。  三俣教授は見た目通りふんわりふわふわした人で、怒らないのはありがたいのだけれど逆に褒めるとか評価するとか、そういうすべての感情がすべからくふわっとしている。  高瀬女史いわく、『人生は軽いゲームだよね、なんて思いながら画面向こうでコントローラー握ってそうなオッサン』が、おれ達の研究室の主だった。  関西某所で開かれる学会にお呼ばれした三俣教授のお供は、いつもの高瀬さんではなく、まさかのおれだ。  二泊三日という話だったのだけれど、実家の用事でーちょっとーどうしても顔出さないとなんでーとかなんとか無理矢理ごねてどうにか一泊二日にしてもらった。  昨日出発した教授と今朝方落ち合い、そのまま学会会場に直行し、一日みっちりと他人の研究結果を頭につめこみ、会場を変えての会食をこなし、やっとホテルに帰ってきたところだ。エントランスで別れた教授は、それじゃあ明日ね、とふわふわさわやかに笑う。  元々教授は高瀬さんと来るつもりだったらしく、ホテルの部屋は別々になっていて、普段なら一人でのびのび出来て最高じゃんと思うところだけれど、正直なところダブルベッドでもいいから同じ部屋にしてほしかった気持ちでいっぱいで泣きそうだった。  一人になるのが嫌だ。ここ数カ月、研究室に居る時以外はずっと桑名さんと一緒だった。  おれの関西行きの話を聞いた桑名さんは、どうにか有給が取れないものかと画策したらしいのだけれど、タイミング悪く新しいプロジェクトが始まってしまい有給どころか普段の休みも怪しい状態になってしまった。  気を付けてね、と五回くらい言われたし、三回くらい名残惜しそうにキスされた。ついでにどこで買ってきたのか、山ほどのお守りを小袋いっぱいに入れて渡された。恋人との別れみたいに甘ったるく頭を撫でられたあの感触を思い出すことが、現状唯一できるおれの心を強く保つ方法だ。  桑名さんの部屋の浴室で溺れかけた日から、二週間が過ぎた。  あの日無くしたピアスもリングも、結局見つからなかった。排水溝に流れたと考えるしかない。ピアスとリングが同時に、なんて偶然にも程があるが、消えてなくなったと思うよりは物理的に流されたという方が幾分かマシだ。  ……いや、わかんないけど。消えてなくなったのかもしれないけれど。それがどういう意味を持つのか、おれはやっぱり考えたくなくて、ただただ無心に日々を過ごすことで精いっぱいなふりをした。  心霊現象は相変わらず、だと思う。  ちょっと多くなっているような気がしないでもないし、減っている気がしないでもない。数値や量でわかるものでもないし、おれが気付いていないだけとか、見ないふりをしているだけとか、要するに体感的なあれそれの問題もある。  あのお守りグッズを無くしたことがどういう影響を及ぼしているのか、結局のところわからない。  どれだけ幽霊に出会おうとも、おれも桑名さんも世に言う『霊感』的なものはやっぱり備わっていないからだ。  とりあえず巻さんはお守りリングとピアスをくれた霊能者さんに連絡を取るべくいろいろ聞いてくれているらしい。申し訳なくて涙が出る。でも、おれは『申し訳ないからそんなことまでしなくていいですよ』なんて言えない。  水の中に引きずり込まれた時、目の前が真っ暗になった。  訳がわからなくて、とにかく必死で、恐怖が押し寄せたのは桑名さんに抱きかかえられて目を覚ましてからだった。  今までの、ホラーに対する恐怖ではない。死ぬかもしれない、という恐怖だ。  命を落とすかもしれないという可能性がチラチラ見えているのに、他人を慮っている余裕なんてなかった。勿論本当に申し訳ないと思うしありがたいと思っている。それでも口がさけても『無理しないでいいです』なんて言えない。  出来る範囲で無理してでも協力してほしいというのが、おれのどうしようもない屑な本心だ。  自分でもできる事を探してはいるものの、一人になると途端に恐怖で背中がざわつく。  調べもの一つもまともにできず、このところ集中力も随分と落ちた。ろくなものを食べてないのと、うまく眠れないせいもある。桑名さんが隣人でなければ、おれはとっくに狂って死んでいるんじゃないか、とすら思えた。  今日の食事には肉片も爪も髪も混ざっていなかったけれど、テーブルの上の大皿の上に口を大きく開けた生首が乗っていた。  目にフォークが刺さっていて、思わず苦笑が漏れそうになった。怖いもんは怖いけれど、でも、いい加減笑えて来る。  机の下にガリガリの女がうずくまっていても、天井から長い髪と手が無数にぶら下がっていても、周りに人がいればある程度耐えられるようになってきた。  怖い。怖いもんは怖い。でも、叫ぶことはどうにか耐えられる。  ただ、やっぱり一人はダメだ。  この前の浴室の一件がかなりのトラウマで、ぶっちゃけ今は風呂でさえ一人で入れない有様だ。  さすがに桑名さんと仲良く一緒に入るってことはないけど、入浴はドアを開けて最短の時間でシャワーを浴びて身体を洗う事しかしなくなった。そんなおれが、知らない街の知らないホテルの一人部屋で、ゆっくりとくつろげるわけがない。  教授はこれから夜の街に繰り出すらしい。  おれも誘われたし、正直行こうか迷ったけれど、教授と一緒にいたどこそこの大学の何々センセイの肩に顎の無い男がしがみついていたので丁重に辞退した。  寝るような時間ではないけれど、さっさと寝て丑三つ時に目が覚めるのは一番嫌だ。絶対に避けたい。いっそ徹夜するくらいの勢いの方がいいような気さえする。  いつもの二倍くらいの速さで適当にシャワーを浴び、セミダブルのベッドに腰掛けたおれは、とりあえずテレビをつけた。  最近のビジネスホテルは設備がいい、と感心する。有料で映画も観れてしまうらしい。二作目までしか見ていないSFアクションの三作目を見つけ、もうこれ眺めてたらいいんじゃないのと思ったところで、うっすらとサイレンの音が聞こえた。たぶん救急車だ。  テレビ画面はよくわからないバラエティ番組を映している。  ホテルは駅前のわりと賑やかな場所にあった。こんな街中を救急車両が走るのは大変だろうなぁ、と。思っているうちに、サイレンに混じって不思議な音がしている事に気が付いた。  コンコン、コンコン。  と。なんていうか、そう……壁を、叩くような。そんな音が。 「…………………」  途端、おれの背中に嫌な鳥肌がぶわっと立つ。  異質な音は、何故だかわかってしまう。これはテレビ番組の中の音でも、隣の部屋の客のたてる音でもない。  音の出どころはこの部屋の中で、そしてたぶん、幽霊とか心霊とか、そういうもののたてる音だ。  耳の奥でコンコンと響く。ぞわり、と、その度に寒気が走り、肌に触れる空気が冷えるような気がした。  ベッドの上で固まったまま、音の正体を探りながら膝を抱える。 ぎゅっと握りしめた携帯で時間を確認、しようとしたところで、急に携帯が振動して取り落としそうになった。  メールでもラインでもない。着信中という画面の下には、どうしても有給が取れなかったと泣きそうな勢いで謝っていた人の名前が表示されている。 「…………っ、は、はい、あの、もしもし……っ」 『あ。木ノ下くん、お疲れ様。今大丈夫だった?』 「だいじょうぶ、っていうか、大丈夫じゃない、かも、しれない、あの、ヤバい、的な意味で……!」  思わず不審な音の事も忘れて携帯に飛びついてしまったけれど、『大丈夫?』という言葉に状況を思い出す。  時間は大丈夫だ。まだおれは寝ないし、もうホテルの部屋の中だし、周りには誰もない。そう、一人だ。いくら電話したところで誰も怒らない。  おれの精神が大丈夫かどうかで言ったら、もう確実に大丈夫じゃない状況まっしぐらな現状だった。  おれの震える声で、桑名さんは全てを察してくれたらしい。本当に申し訳ないけれど、この数か月ですっかりおれの保護者になってしまっている。ありがたいような、申し訳ないような、でも嬉しいような、情けないような、どれともつかない気分に陥りそうになるけれど、今は落ち込んだり浮かれたりしている場合ではなかった。 『あー……やっぱり、そこらへんで売ってるお守りじゃ駄目か。数撃てば当たるかな、とかちょっと思ってたんだけど』 「わかんな……きいてるの、かもしれない、けど、いまのところ音がする、くらいなんで……桑名さん、仕事は……?」 『今日に限って定時でもう家だよ。今巻が飯買いに行ってる。外注の方がやらかしてて、そっちの作業が終わってくれないと俺達何もできないからさ。その関係で明日も半休になりそうだから、時間わかれば東京駅まで迎えに行こうかな、と思って。あと巻が仕入れた情報があるから、その件も兼ねて電話したんだけど。あー……切る? それとも、ちょっとどうでもいい話する?』 「…………巻さんの仕入れた、話って……」 『ピアスとリングの霊能者さんの話。……木ノ下くん、いまホテルの部屋、だよね?』 「え。そうですけど。なにか……」 『なんか、ものすごい水の音がするんだけど、雨降ってる?』  降っているわけがない。さっきまで晴れていたし、いまだっておれの耳には水音なんかしない。窓は開けたくないから開けないけど。絶対に雨は降っていないし、降っていたとしても桑名さんのところに電話越しに音が聞こえるなんてことはあり得ないだろう。  おれの息を飲むような沈黙の後、桑名さんは電話口で苦笑したようだった。  ふわ、っと眉を寄せて息を抜くような柔らかな顔が、目に浮かぶ。東京と何キロ離れているのかわからないけれど、ほんと今そこにいるみたいな気分になって、猛烈に抱き着きたくなった。 『やっぱり、ちょっと楽しい話かなんかして、誤魔化した方がいいかな。どうする? 木ノ下くんの寝癖の話とかする?』 「え……なんですかそれ、それはそれでなんか嫌だ……どうせおれの寝癖がすごくかわいいとかそういうアレすぎる感じのメロメロな展開に持っていくんでしょ……」 『べたべたなのが好きなのかなーって最近気が付いたんだよね。俺あんまり裸エプロンとか新妻とかそういう方向のべたべたは興味ないんだけど、少女漫画みたいな青春真っただ中っぽいべたべたは好きかもしれない』 「……耳に……ダイレクトにくるのよくない……」 『顔が見えないとちょっと不思議な感じだよね』 「痒くて死にそうなんでもう平気です巻さんの話しましょう巻さんの」 『まあ、うん。早めに伝えときたかったから、木ノ下くんが大丈夫なら言うけど。ええと、どっから言ったらいいかわからないから結論から言うけど、巻が寺の伝手で探し出して相談して木ノ下くんに除霊ピアスとリングをくれた例の霊能者、奥襟さんっていうんだけど、先月末に亡くなっている、って話』  暫く何を言われたかわからず、ぐるぐると桑名さんの言葉をもう一度脳内で組み立ててからようやくおれは、『は?』なんていう可愛くもなんともない声を出してしまった。 「え……死…………え?」 『木ノ下くん落ち着いて。あのー、大丈夫、って言ったらアレなんだけど、木ノ下くんのせいとかじゃないんだって。完全に別件で、事故に巻き込まれて亡くなったらしい。木ノ下くんのピアスとリングが無くなったのは、もしかしたらこの人が亡くなったことが関係あるのかもしれないけど。要するに、同じ人から同じようにお祓いをしてもらうこともできなくなったし、隣の二○二号室の除霊もたぶん、終わらないまま放置になっちゃうんだと思う』 「あ。あー……そっか。そう、なりますね。ええと、じゃあ、おれはいま、」 『うーん……元からどれだけ奥襟さんの除霊が効いていたのかわからないけれど、とりあえず完全に無防備な状態になっているって事、かなーと。……木ノ下くん、大丈夫? 倒れてない? 生きてる?』 「……生きてるけど泣きそうだし今桑名さんの隣に居ない自分を殴りたいし帰りたいしもうなんか現実忘れて酒飲んで寝た、っひ!?」 『木ノ下くん?』  電話に夢中だったおれが、なんでドアの方に視線を向けたのかわからない。なんでそれに気が付いてしまったのかわからない。  わからないけれど、おれの視線の先のバスルームのすりガラスから離れることができなかった。  暗いその空間の中に、何かがいる。  白い、たぶん、あれは人間だ。白い服を着た、女だと思う。妙にでかい。すりガラスの上の方に顔があるような気がする。  妙にでかい白い服の女は、べったりと、すりガラスに張り付くようにそこに立っていた。  コンコンと叩く音の正体は、アレなのだろうか。  桑名さんが聞いた水音の正体は、アレなのだろうか。  何にしても、絶対に人間じゃない。いや、人間だったとしてもやばい。  ひゅうひゅうと乾いた息を繰り返すことしかできなくて、頭が真っ白になる。恐怖ってやつは身体の中心から一気に指先まで波のようにぶわり、と広がる。  目を閉じて開けたら目の前にいるかもしれない。  声を上げたら反応してこちらに出てくるかもしれない。  嫌な妄想だけがぐるぐる、沸いて出ては消えていく。桑名さんがおれの名前を呼んでいるのに気が付いた時、どれだけ時間が経っていたのかわからない。 『木ノ下くん、何が――木ノ下くん?』 「……ひと。ひと、が、硝子に、べったり……風呂場の、あの、すりがらすに、べったりくっついて……こっち、見て……」 『落ち着いて。大丈夫だからこのまま電話していよう。嫌でも、見ていた方がいいかもしれない。もしヤバそうなら、部屋から出た方がいいかもしれないけど』 「いまのところ……動いたりは、してない、けど。……あれ、出てきたら、おれ、どうしたら、」 『強気が良いって巻がいつも言ってるよね。そんなもんでどうにかなってたら、今まであんな怖い思いしてないだろって思うけど、怖い怖いって震えているより絶対に良い。怒鳴りつける勢いで、どっかいけこのやろうって思った方がいいのかも』 「どなりつける、いきおいで……」  そういえば、幽霊体験などの登場人物はみんな怯えるばかりで、幽霊に対して怒鳴ったとか怒ったとか、そういう人はあんまり見かけない。楽しい事を考えるのが無理なら、怒ったらいいのか。いや、正解なのかはわからないけど。でも桑名さんが横にいるときは強制的にキスされたりなんだりで最終的にホラーどころじゃなくなったりするけど、離れている今はそれもできない。  あっちにいけ。  ここから出ていけ。  あっちにいけ。  ここから出ていけ。  おれの前から消えろ。  ここから出ていけ。  必死に念じてどれ程時間が経ったのだろう。  気が付けば白いべったりとした人影は、浴室の中から消えていた。  ……今ので、撃退したのだろうか。こんなもので大丈夫だったのだろうか。後ろを振り返ったら今度はカーテンの向こうに、とか。そういう嫌なオチがついたらどうしよう、と。  ビビりながらあたりを窺ったけれど、特に、何事も無いように思える。  相変わらずテレビはどうでもいいようなバラエティをだらだらと流しているし、部屋の中が冷たいとか気持ち悪いとか湿っぽいとか臭いとか、そういうことはない。  たまたま、かもしれない。念じるだけで除霊できるのならばこれまでだって散々していたし。たまたま、消えただけなのだろう。  そう思って桑名さんに報告しようと携帯を持ち直したおれは、耳に当てたそれから流れる音に息を飲んだ。  ざぁあああああああああああああああああああああああああああ  と。音が、聞こえる。  この音を知っている。これは――。 「……あの、桑名さん、そっち、雨、とか……降ってません、よね?」  乾いたような声がでた。喉がカラカラで笑えない。たぶん、電話の向こうの方が、笑えない状態になっている筈だ。  やばい。やばい。どうしよう。やばい。 『あー……木ノ下くん、あのね。……こっちに、来ちゃったかも』  白い服を着た女が窓の向こうに立っている、と、桑名さんは言った。

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