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「・・・うん。美味いな」 「ああ、うん。良いじゃないか。美味しいよ」 「・・・うん」 そう言って茶碗に口をつけたまま、ちらりと咲里を見る。 正座の姿勢で同じように粥を啜るその姿はまるで一枚の美人画のようにも見えた。 圭一は時折、視線を逸らしながら数日前、自分が放った「・・・お前から離れたりしない」という台詞を思い出していた。 ・・・あの時、どうして自分はあんなことを言ったのだろうか?殆ど、無意識だった。 ただ、青い顔でへたり込んで震えるコイツを見ていたら、自然と言葉が出ていたこともまた事実で。 『・・・・・・考えるのは止そう』 そう思いながら、大根の漬物を口に放り込んだ。 「・・・・・・・・・・・・」 同じように茶碗を口につけたまま、卓上に視線を向けている咲里もまた、数日前の事を思い出していた。 ・・・迂闊だった。恐らく、先日のあれは自分に惚れた娘の友か、兄だろう。 悪い噂を娘からは聞いたことはないが、あの状況から察するに、私を探して町中を闊歩したのかもしれない。 あの後、風呂に連れていかれ、医師の診察を受けた後。壬晴さんに頭を下げた時の事が甦る。 『ああ。小紋に短い黒髪の‥』 『ええ。言われたんですが、朧気でどうにも印象が無く・・』 『・・あの娘さんは・・亡くなったよ』 『・・?』 『肺の方が、どうやら良くなかったらしくてね。もたつく足で君のその髪をずっと目で追っていたようだよ』 『・・・・・あの・・』 『ああ。手籠めにされたとかじゃない。それは安心して良いよ』 『そう・・ですか』 『どうして知っているのかって表情をしているね』 『あっ‥』 『大門をくぐって歩くうら若い娘さんがいるとね。・・・目立つんだよ。ここは』 『・・・・・・・・・・・』 『見つけたのが、うちの若い衆で良かった。うちじゃなかったら、どうなっていたか』 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 好いてくれる女の数など、数えた事も無ければ考えた事もなかった。 最近は、そう感じさせないように振る舞っていたはずだったが・・。 逆恨みなどしても仕様が無いと分かっていても、言わずにはいられなかったのだろう。 かくいう自分も、同じなのだ。汚して、遊んで、捨てて。 何度縋り付かれようが、袖を振り払い、繰り返したそのツケを自分で受けた。 罰だとは言いたくないし、思ってもいない。でも、そんな封じた日の事も一瞬で霞む程に、あの時の、眼前に立つ友の目は真っ直ぐだった。 嘘のない真っ直ぐな言葉に目が離せなくなるくらい、衝撃で芯が震えたのだ。 あのような気持ちになったのは、初めてだった。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 『でもきっと、彼は気に留めていないかもしれない。忘れているかもしれない』 彼を慕う友の姿に。何気ない日常の中で笑い合う姿を想うだけで、例えようの無い嫉妬にも似た黒い感情がふつふつと湧き上がってくる。 『・・・止めよう』 そう思って、彼は空になった茶碗を卓上にそっと置いたのだった。 「美味しかったよ」と言って帰ったその次の日。また咲里がやって来た。 よく見れば彼は何かを手にしている。 「・・・?」 眉をひそめる圭一にほいっと渡されたそれは、年季の入った外套(オーバーコート)と英語表記のトマトケチャップだった。よく見ればトマトケチャップは未開封でまだ新しい。 「・・何でこんなの持ってるんだ?しかもこれ・・輸入品じゃないか。買ったのか?」 「いいや。うちにはこういうのがわんさかあるんだ。炊事場にあった物を一本拝借したくらいじゃ叱られないよ」 そう言って咲里は笑う。その台詞に圭一のこめかみが痛くなった。 「・・こっちの高そうな外套は・・?」 「ああ。これ。私の使い古しで悪いのだけど、キミ。いつも首に襟巻を巻くだけで、あとは何枚も着物を重ねて着ているじゃないか。だから、もし良かったらと思って」 「・・・・・・・・・・・・」 「もしかして迷惑だったかい?」 青く大きな瞳を揺らしながら、悲しそうな表情でこちらを見る姿は、何処から見ても迷子の子犬のようで。うるうると瞳を揺らせながらこちらを見る姿に、何と言っていいのか分からなくなった圭一は「いや。誰かから物を貰う機会が無くて・・でもありがとう」と困ったように笑った。 実際の所。友人から何かを貰ったのは、ほぼ初めてに近かったからだ。 「・・・よかった」 「へぇ。輸入品かぁ・・初めて見たなぁ・・国内産はたまに見るけど・・高いんだよなぁ」 めずらしそうにケチャップを眺める圭一の表情に、咲里がホッと安堵の表情に変わり「また来るよ」と言って足早に部屋を出て行ってしまった。 「・・・・なんだあいつ・・忙しい奴だな」 『そうさねえ』 「でもこの外套・・ちょっと大きすぎやしないか・・」 『貰っておけばいいじゃないか。あげたいと思ったんだろう?』 「ま。それもそうか」 さてさて。外套は丈を直せばどうにかなるが、この部屋にはまだ洋風の風吹く機会はとんと無く、ケチャップの瓶を片手に、これを使う機会が無い。 空けても使いこなせない・・さて困った。圭一が何度も首を捻り考えた末に、置物として本棚にきちんと飾ることにしたその品を、後日、何とも言えないといった表情で咲里が眺めるのは、もう少し先の話となる。 次回・『奪われた肉体』へ続く。

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