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第21話
マシューは奴隷ではない。
奴隷商人の下で雑用をこなす下働きだ。
奴隷たちのように生活の保障も教育の保障もしてもらえないだろう。商人ではないから仕事を斡旋してもらえるとも思えない。読み書きもできない兎獣人を雇ってくれるところなどないに等しい。よしんば何かの職に就いたとしてもすぐにダメになるのは目に見えていた。
光の見えない未来に血の気が引いていく。どこかで野垂れ死ぬしかないのかと思えた。
「マシュー、お前は儂と…ッ!」
突然声をあげたのは、マシューの主人だ。そういえばさっき、彼は何て言った?
「マシュー、聞いてくれるかい?」
あちこちに視線を泳がせて顔を引攣らせるマシューの手を、主人の言葉を遮ったリヒャルトが優しく包みこむ。温かい手の感触に、マシューはリヒャルトと出会った日を思い出し身体の力がふっと抜けた。それに気付いたリヒャルトがゆっくりとマシューの手を開かせ、主人から取り返した小さな紫水の指輪を薬指に嵌めた。そしてあの日と同じように両手で包み込み、祈りを捧げるように瞳を閉じて額に当てる。
リヒャルトがゆっくりと瞳を開けると、神秘的な不思議な色の瞳に吸い込まれたように視線が逸らせなくなった。
「一緒にラビエル王国に来て欲しい。…君を、俺の伴侶として迎え入れたいんだ。」
真剣な眼差しに射抜かれて、高鳴る心臓は歓喜に打ち震え冷え切った身体に熱を送り、絶望で曇った視界がクリアになる。
マシューはすぐにも頷こうとしたが、頭を片隅を過ぎったある感情がそれを邪魔した。
それはマシューに根付いた劣等感。マシューは頷くことも首を振ることもできず、どうしていいかわからずにじわりと涙を浮かべた。
違う、泣きたいんじゃない。
あわてて目元を拭うマシューに、リヒャルトは口を開く。
「マシュー、無理にとは言わないよ。この指輪を売れば贅沢はできないが一生困らないだろうと思う。一緒に来るか、自由を得るか。君が決めていいんだよ。だけど…」
リヒャルトは一旦口を噤み、笑顔のような泣き顔のような、複雑で曖昧な笑みを浮かべた。
「だけど君の幸せを願うことは許して欲しい。紫水晶 は調和と調整をもたらす愛の守護石…愛する君に心穏やかな日々が訪れるよう、毎日でも祈るよ。」
リヒャルトは両手で包み込んだマシューの左手を解放すると、その指先に触れるか触れないかのキスをした。
それはまるで、誓いのキス。
リヒャルトは呆気とられるマシューにニコリと微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。極々自然な流れでするりと手が離れる。温もりが、離れていく。その温もりも夜風に晒されてあっという間に消えていき、残ったのは輝く紫水晶の指輪だけ。
「行こう、ゲオルグ。」
漆黒の髪をなびかせて、リヒャルトはマシューに背を向け一歩を踏み出した。
一歩、また一歩、マシューから離れていく。リヒャルトは振り返らない。きっと彼は後ろを振り返ることをしないだろう。きっとこのまま、永久に。
マシューは堪らず、走り出した。
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