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死の天使
ようやく取れた休日。昼下がりの穏やかな日が差し込む暖かいリビング。ラジオからは陽気な歌。
コーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、玄関で物音がした。一緒に住んでいるケイが帰ってきたらしい。
「あー疲れた。ただいまー、おやすみー」
ちょっと待て。俺達、会うの一週間ぶり以上な気がするんだけど。あわてて引き止めると、
「なに? ユウキ、さみしいの? ならベッド来て。優しくしてね」
ケイはそう言って、けらけら笑った。
そうは言うけど、いざ俺がベッドに入ると切実に抱きしめてくるのは、ケイの方だ。いつも子供のように、俺のぬくもりに埋もれて眠る。
一緒に住んで半年。時には海外に商用で出かけることもある実業家の俺と、夜仕事をしているケイ。出会いは、行きつけのバーだった。ケイはなれなれしく話しかけてきて、バーで何度か会っているうち、なんとなくそういうことになった。
俺達身分不釣合いってやつかな、恥ずかしくてどこで働いてるのかなんて言えないよ。俺が職業を言うと、ケイはそう言って笑った。
人なつっこくわがままで奔放。ケイは、俺が今まで出会ったことのないタイプだった。笑顔をきらめかせながら、素直に欲しいものは欲しいと言う。好き嫌いがはっきりしていて、自分の興味と欲求にまっすぐだ。その気ままさにつきあう苦労も、むしろ楽しいと思うようになった。惚れちまった。
「……死の天使って、知ってるか?」
ベッドの中でケイは唐突に、俺を見下ろしながら言った。
死の天使。毎朝新聞を見てれば、嫌でも覚えてしまう名前だ。
ある組織の殺し屋だと言われているが、誰もその正体を知らない。犯人につながるような証拠をいっさい残さないのはもちろん、その姿を見た者がいないからだ。
天使のように人に姿を見せることなく死を与えるから、ということなのか、いつからか記者達は、警察さえも舌を巻く証拠を残さない見事な殺人があると、「死の天使」の仕業だと報じるようになった。
単独犯なのか複数犯なのか、本当に同一犯なのかも分からない。それが今では、捜査が困難な殺人事件にぶつかると、刑事達も死の天使の犯行に違いない、と自らを慰めるまでになっているらしい。
「もちろん」
「やな名前だよな」
ケイはそう言って、俺の唇に軽いキスを落とした。
「そうだな、人殺しに天使だなんて」
俺の肩に顔を埋め、ケイは深いため息をついた。憔悴しているようにも見えるケイを、しっかりと抱きしめる。いったいケイはどんな仕事をしているのか、時々こうしてひどく消耗して帰ってくる。
「今日は本当に疲れた。俺、寝るよ。俺が寝ちまうまで、こうしててくれな」
ケイはそう言って目を閉じた。久々の休みを、一日恋人のぬくもりを感じることでつぶすのも悪くはない。俺もそう思って、目を閉じた。
互いに癒される優しい時間が、流れた。
それから数日後。
真夜中、俺は大きな物音に目を覚ました。ケイが帰ってきたんだろうか。それとも、強盗か。俺はそっとベッドから出て、物音に注意深く耳を澄ませながら寝室を出た。
明かりをつける。人の気配はない。物音もしない。気のせいだったのか。そう思って寝室に戻りかけた時。
「ユウキ……。ユウキ、ユウキ……。痛てえよう……」
ずくっ、と心臓がうずいた。弱々しいうめきは確かにケイの声だ。俺は玄関に走った。
「ユウキ、俺……撃たれちゃった」
明かりの下でケイを見て、俺は絶句した。玄関先にぐったり倒れているケイの、蒼白な顔が血にまみれている。
痛みに顔をゆがめて笑い、俺に伸ばそうとする手も真っ赤に染まっていた。
「痛てえよ……めちゃくちゃ、なんだもん……あいつらっ……」
「しっかりしろ、今救急車呼んでやるからな!」
俺は短い廊下を走って、テーブルに置いてあった携帯電話に飛びつき、救急車を呼んだ。
すぐにまた玄関に戻り、呆然とその場に立ち尽くす。
ケイは身を起こし、ドアにもたれてうめいていた。それまでケイが倒れていた場所には、ワインかと思うような濃い赤が広がっている。
死んでしまう。死んでしまう……。
「……なんだよ、その顔……」
ちらりと俺を見て、ケイは唇だけでかすかに笑った。
呆然としたままそばにしゃがみこんで、そっとケイの肩に触れる。その途端、閉じられていたケイの瞳から涙があふれた。
「大丈夫か、痛むのか?」
「……うれしいんだ。これで、終われる……。でも……、お前とも、これで……終わり、なんて……。やだ……やだよ……」
あふれる涙が、頬についた血を洗い流していく。小柄なケイの身体が、小刻みに震えだした。
どういうことだ? 終われる? でも俺ともこれで終わり……?
「パジャマ……汚しても、いいか……?」
ようやく聞こえるほど、かすかな声。
返事ができずにいると、ケイは俺の胸に倒れこんできた。反射的に抱きとめる。弱々しく、ケイが俺の背に腕を回す。パジャマが、べっとりと濡れていく。救急車のサイレンの音が、次第に近づいてくる。
「……ユウキ、ユウキ……。わすれない……、たのし、かった……」
ケイはうっとりとつぶやき、気を失った。真っ青な顔に、幸せそうな優しい笑み。
けたたましいサイレンの音が、すぐ近くで止まった。
ケイはあちこち撃たれて出血がひどかったが、幸い命に別状はなかった。でもどうしても銃の傷は熱が出るらしく、三、四日は高熱にうなされた。
俺は毎日ケイの病室へ通った。そばについていると、ケイは時々目を覚まして俺にうつろな目を向ける。しばらく無言で俺を見て、かすかに微笑む。
それが何度も繰り返された。俺は今にもケイを問いただしたいのをこらえ、眠るケイを見つめ続けた。不安だった。
撃たれた夜、ケイの言葉は、ふたりの毎日を勝手に終わらせていた。ケイの微笑みが俺をもう思い出にしてしまっているような気がして、どうしてあんなことを言ったのか分からなくて、俺は迷子のような心細さと切実さでケイの寝顔を見つめた。
でも熱が下がると、ケイは出血のせいで弱ってはいたけど、いつも通りだった。そんなことは言ってない、ときっぱり答えそうで、俺はほっとした。俺達はうまくいってる。別れなきゃならない理由なんて、どこにもない。
ある夜見舞いに行くと、ケイは大部屋から個室に移っていた。やっぱり個室は最高だと、まだ青白い顔で無邪気にはしゃぐ。
俺に愛しさを感じさせるいつもの笑顔。なのに、あの夜のケイの言葉と白く透き通る肌のせいで、怖くて手を伸ばせない。
「またわがまま言ったのか? なんでそんなに個室に移りたかったんだよ?」
「部屋は空いてたんだし、金はあるんだからいいだろ。それよりさ、ここ来いよ」
ベッドに横になったまま、ケイはうれしそうな笑顔で自分の身体の脇の空白をぽんぽんとたたく。
「まさか、寝ろって? お前、なに考えてんの?」
不安と恐怖の波が来る。それを押し隠し、俺は肩をすくめてみせた。
「お前はさみしくなかったのか? 俺はさみしかったぞ。個室なら、看護師さんさえ来なけりゃ好きにできるだろ」
あまりにもさらりと言うもんだから、笑うしかない。
「まったく、まいったよお前には」
ケイの手が、俺の手を握る。俺は苦笑混じりのキスを、ケイの乾いた唇に落とした。
ケイが回復してくると、警察が事情聴取にやってきた。ケイは警察に、あるバーで友達と飲んでいて、店を出てその友達と別れた直後、強盗に襲われたのだと証言した。
同じ夜に殺人未遂事件があり、現場が近かったこともあって、警察はしつこくケイに根掘り葉掘り質問した。殺人未遂の犯人も撃たれているのが間違いないとかで、疑ったんだろう。だがやがて、裏が取れたとかで刑事は来なくなった。
ケイは順調に回復していた。病院の飯はまずいと文句たらたら、どこのパンが食べたいとか、あそこのケーキを買ってきてくれと、食欲も出てきてあれこれ注文を出す毎日。
これならもう心配はいらない。俺はケイをなだめ、部下にケイの面倒を見るように頼んで、ずっと延期していた海外での買いつけに出かけた。
ところが出張中、滞在していたホテルにすぐ帰るようにと連絡が入った。ケイが病院から姿を消したという。
帰ると警察が待ち構えていて、部下はひたすらおろおろしていた。警察は誘拐とも失踪ともつかない、と言い、事情聴取が繰り返される。
いったいケイはどこに行ってしまったのか。これが終われるということなら、ケイはもう帰ってこないのか。俺は打ちのめされて日々を過ごした。
警察は俺がケイと一緒に住んでいながら、ろくに素性を知らなかったことを、妙に追及してきた。そんなのはただの情報で、知らなくたってたいした問題じゃない。言いたがらなかったから聞かなかっただけだ。俺の答えには、警察を満足させるようなものはないはずだった。
ケイが姿を消して一ヶ月ぐらいたった真夜中、スマホの着信音に、俺は飛び起きた。
この一ヶ月、電話のたびにケイかも知れないと思い、夜もマナーモードにせず枕元にスマホを置いて寝る、それが習慣になってしまっていた。
画面には、「公衆電話」と表示されている。たぶん、ケイだ。
「……もしもし?」
あわてて電話に出た俺の声は、ランニングでもした後のように変に弾んだ。
電話の相手は沈黙している。ただ、どこかにぎやかな場所からかけているのだけが分かった。
「もしもし、どちらさまでしょうか?」
ケイだ。ケイに違いない。俺は確信した。
「ケイなんだろ?」
スマホを握る手が汗ばむ。聞こえてくる雑音に耳を澄ましても、自分の鼓動が邪魔してよく聞こえない。
「ユウキ、ごめんな」
聞きなれた声が、電話の向こうでようやく言った。声が遠い。
「ケイ、お前今どこにいるんだ?」
ケイはまたしばらく黙り、切られたくなくていろいろ話しかける俺の言葉には応えずに、
「最近、死の天使はニュースにならないでしょ?」
と沈んだ声で言った。
「……え?」
「だって俺が、死の天使だったんだから」
死の天使だって……? なに、言ってんだ? 嘘だろ?
警察の事情聴取のしつこさを、ぼんやりしながら思い出す。でもそれでも、ケイの言葉は夢の中で言われた冗談のようにしか響かない。
「一緒に暮らしてくれて、ありがと。俺、この半年間で一生分の幸せを味わった気がするよ」
そう言うと、電話は切れてしまった。
もう二度と会えない。
どれほど動けずにいたのか、俺がやっと理解できたのはそれだけだった。
確かにその後、「死の天使」の名が、俺の住む地域をおびやかすことはなくなった。
本当にケイが死の天使だったとして、さみしくなって誰かの隣にもぐりこむ少年のような夜が、たとえ人殺しをした夜だったとしても、俺の中のケイが姿を変えることはない。
ただ、そばにいられないことが、もう会えないことが、せつないだけ。きらきらした笑顔を、俺にしがみついて眠る時のせつなげな顔を、俺は忘れない。忘れられない。
それだけだ。
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