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プリプロダクション

 アズマはずっと煙草を口にくわえたままだ。それが自分に対する防御のような気がして、坂上拓は小さく舌打ちした。  だがそれは、考え過ぎというものだろう。目の前のアズマはずり落ちた眼鏡もそのままに、ずっと音符を目で追い続けている。  坂上の相棒である福島はさらりと、アズマを天才だという。坂上はアズマの才能を認めてはいたが、そうは思っていない。  アズマリョウが天才なら、今頃は超売れっ子アレンジャーなり作曲家になって、業界で名を馳せているはずだ。作品の質を追い求めるアズマの態度は尊敬に値する。しかし、ヒットを飛ばさなければ意味がない。  そう思っていることを、坂上はアズマにぶつけたことはない。口に出さなくてもアズマに考えを読まれ、自分とは違う人種だからと多少の距離を置かれているのを、坂上は敏感に感じていた。  それが悔しい。アズマだけが、手のうちに取りこめない。アズマはさっさと坂上の手も圧力も届かない場所へと、自分の居場所を移してしまった。だからこそ、自分とは全く違う感性と才能だからこそ、手に入れたかった。  今、譜面を読むアズマの頭の中では、譜面通りに曲が鳴っているはずだ。コードがアズマの好みにあわないのか、メロディーがよくないと感じているのか、アズマは形のいい眉を時々しかめながら、譜面を読み続けている。  絵のように整った横顔。狭いスタジオでの、二人だけでのプリプロダクション。  しばらくすると、アズマは譜面から顔を上げ、指先で眼鏡を持ち上げた。 「どう?」  坂上が短く訊くと、アズマはようやく煙草の灰を灰皿に落とし、小さくため息をつく。 「全然ダメじゃん? まずキーを下げないと。コードも全面的に変える。今の拓にはこれじゃ歌えないよ」  容赦のない言葉が、積み重ねられる。坂上はただ苦笑するしかなかった。ここ数年はまったく仕事は共にしていないというのに、さすがだ。確かに、このキーでは歌いきれない。コード進行も派手すぎる。 「珍しいことしたね」  煙草をもみ消し、アズマは探るような視線を坂上に向けた。まずは譜面が先、というアレンジ方法は、これまでやったことがなかった。実は音源はある。聴かせていないだけで、この譜面はおまけ的に書かせたものだった。  つまりアズマは、罠にはかからなかった、ということだ。 「まあね。いろいろ迷っててね。ごめん」  ごめん、の意味を、アズマは正確に察したようだった。唇だけで笑い、ソファにゆったりともたれる。悔しいが、とても魅惑的な笑み。 「こうしてる間にもギャラ出てるわけだから」  いい、と言う。冗談なのか本気なのか、量れない言葉。完全に割り切られている。坂上はひそかに唇をかんだ。 「俺なんか抱いて、なんになるの?」  ふふっ、と笑うアズマを、坂上は残酷だと思った。気高いと思った。  いくら汚そうとしても汚れない。いくら踏みにじろうとしても踏みにじれない。抱けば抱くほど、所有欲は乾き、ひび割れて悲鳴をあげる。在る次元が、違うのだ。分かっている。それでも。  かしゃり、と音をたて、はずされたアズマの華奢な眼鏡が、小さなミキシングコンソールの上で跳ねた。ソファが、きしむ。  坂上はメインフェダーを上げ、今アズマが否定した曲を再生させた。 「ああでもこれ、福ちゃんに歌わせたら映えるよ」  かすれた声が、大音量で流される音に埋もれる。いともたやすく、とどめを刺された。まるで報復のように。  坂上は聞こえなかったふりで、薄っぺらい演奏とアズマの白い肌に、自らを埋没させた。

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