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第63話
そんな異様な時間が過ぎていく中、不意にリシャールがピクリと震えて顔を上げた。
音もなく誰もいない階段の向こうを見つめ、ふぅ、と呆れたようにため息を吐く。抱きしめていた俺をあっさり離し、そっと手を引いて自分の絵画に案内した。
『余計な邪魔が入らないよう君の便利なスキルを使って呼んだのだが……怖いね、彼。もうここを見つけた。シャルが私の絵の場所を言うはずないのに、どうやって特定したんだろうか』
「俺の召喚魔法域に匿おう」
『そうだな。燃やされでもしたら困る』
初めからそのつもりで手を引いただろうに。
態とらしく頷いた幽霊に苦いものも噛めず、俺は壁にかけられたリシャールの絵画に手を伸ばし、召喚魔法で収納した。
召喚魔法は保有する魔力の量で容量が比例する、カバンのような魔法だ。
少しの魔力しか開放されていない俺でも、普段から財布などのよく使う貴重品しか収納していない為絵画一枚なら収められる。
召喚魔法は魔族の考えた魔法だから、俺は詳しくないが……きっとそう簡単に手出しできなくなる筈だ。前提として、そこにあると誰も知らないのだ。
『絵さえ無事なら私は霊体だから物理攻撃は一切効かない。多少揺らいでも消えたりしないさ。魔法は、どうだろう……消される程の魔法を受けた事はないからな。でも万が一がある。魔王はいつの時代も怖いからね』
そう言ってリシャールはやれやれと肩を竦めた。
やはり、ここに向かっているのは──アゼル。
目を覚まして、俺がいない事に気がついたんだ。部屋を出る時に音は一切たてていないし気配も消していたが、時間は然程経っていないのに迷いなく向かってくるなんて。
きっと早い段階で目星をつけていたのだろう。リシャールの言うとおりそれらしい発言はできなかったのに、声を上げて探し回らずにやってくるのは場所がわかっていて、そこになにかあると警戒しているからだ。
アゼル……ここに、来るのか…?
穏やかな微笑みをリシャールに向ける俺の頬を、冷や汗が伝った。
今のこの状況は密会にしか見えない。言い訳もできないのにこんな状況を見られたら、昨日の不審な行動をきっぱりと裏付ける。
表情に不安すら出せない俺の胸中を、焦りが支配する。
そんな心を見透かしたのか、リシャールは愛おしそうににこりと優しく笑みを浮かべ、そっと指先で顎を持ち上げ唇を重ねた。
「ン、」
──ッ、嫌だ、やめろ…ッ!
これは酷い裏切りの感触。
耳の奥が弾けそうな拒絶を叫んだ筈だったのに、言葉だけではなく体を操られた状態では、触れ合う前髪のひと房すら振り払う事ができなかった。
舌の根が縮み上がる嫌悪感。そして全身が凍ったような罪悪感。
こいつは、何をしている?俺がそれを許しているのは、一人だけだ…ッ!
もどかしさを通り越して涙が出そうな位だった。
振り払えない、拒絶できない、まるで望んでしているみたいに感じる。俺が動けなければない程リシャールは存在を色濃くしている気がした。
何度か角度を変え、甘く愛し合う恋人のようなキスをされる。気持ち悪い。誰かをここまで拒絶したくなったのは初めてかもしれない。体が動いていたら、殴りかかっていた。
「ふ、っ…」
『フフ、』
小さく喉を震わせて、リシャールは突然霧のように消えた。
けれど彼が跡形もなく去っても、残された俺の体は依然自由が効かずに、ぼうっと立ち尽くしている。
それと入れ替わりのように視線を感じて……行動の自由が戻って来ない理由がわかった。
「勝手にフラフラすんなよ…」
「ごめん、起こしたら悪いと思ってな」
内側は手立てのないまま奪われていく恐怖に焦燥しているのに、震える事も出来ない。裏切ったくせに申し訳なさそうに眉まで垂らして見せる俺の体は、階段の上を見る。
今来たばかりなのか──そこには予想通り、アゼルが壁に手をかけて立っていた。
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